実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

「原発廃炉」?  実戦教師塾通信二百七十一号

2013-04-14 18:00:28 | 福島からの報告
 道はもう少し違う気がする


 1 教え子からのメール


 聞いていた通り、いわきの桜はまだまだ見応えがあった。満開の時期は過ぎたし、前日夜の本降りの雨もあって、だいぶ花びらを落としてはいたが、桜は最後の力を出していた。写真の桜は、11日のいわき公園のものである。
          

 今月末、恒例の第一仮設への支援をする。今月は仲間たちから味噌の支援がある。昨日、教え子からメールが届いた。全文掲載するので読んで欲しい。

こんにちは。
味噌の件、6個でお願いします。
一昨日は出張で広島におりました。早朝に原爆ドームに行きましたが、そこで説明しているおじさんの話によると、福島の放射能は原爆1000個分なんだそうです。
それをどう受け止めればよいのか、自分でも消化出来ていません。
自分が生きることにもいっぱいいっぱいですけども、あらゆることが他人事に聞こえてしまいます。

というものであった。2011年8月25日の東京新聞によれば、
「飛散したセシウム137は広島の原爆168個分」
とある。政府(民主党政権である)はこの比較の仕方について、必ずしも合理的とは言えない、とのコメントを出している。
 それはいいのだ。私は、この教え子の感じ方にひどく誠実なものを感じた。そして、すぐに、この間なんのCMか忘れたが、そのCMのどっかで「頑張ろう日本!」と呼びかけていることを思い出した。まだ言ってるんだ、私の中からそんな言葉が当たり前のように出てきた。
 3,11から一年と一カ月が経った。あの3月11日がもたらした「全国的」ないしは「全国民的」と言って差し支えないような希望と絶望は、
「すぐ逃げよう」
に始まり、
「逃げてはいけない」「なにか出来るのでは」
などと、程度の違いはあったが、それぞれに希望と絶望を抱えていた。それがまるで一個の巨大な「希望と絶望」と化していた、のではないだろうか。「頑張ろう日本!」に違和感はなかった。それが「なんらかの理由」で、今はなくなったのだ。メディアからは、絶望的な状況は「変わらぬもの」として流されている。確かではある。
 濁流に流された人や家、そしてふるさとを見たあの時、私たちはすぐにでも駆けつけて、一杯のご飯と一枚の服をと思った。それは「生活」というより「命」のためだった。だから、誰でもすぐにでも「出来る」、そして「やらないと」と思った。「野球なんてやってていいのか」と選手たちは思った。「頑張ろう日本!」に違和感はなかった。しかし、今問われているのは、被災地の「暮らし」「生活」と「ふるさと」の再建である。一杯のご飯でも一枚の服でもない。
      
 先週、「持ってってよ」と、第一仮設の会長さんがくれた『M9,0東日本大震災ふくしまの30日』(福島民報社)からの写真である。いわきの豊間地区である。私たちが押しかけて片づける前の、あの時の光景だ。今度、すっかり片づいた写真をお見せする。土台だけを残した更地となっている写真だ。私たちがやったことは、この片づけだ。ここが更地になっただけだ。これからここも区画整理をされ、この写真の左手奥に、堤防が嵩上げされる。「頑張ろう日本!」てなにを?と被災者に言われたら、返す言葉がない。
 3,11が、なん「だった」のかとは、そういうことだ。


 2 牧場の再開

 楢葉町の中間貯蔵施設について、新町長が調査を受け入れるとしたことは、ニュースでご存知かと思う。「調査を認めることは建設を意味しない」という町側と「建設ありきの調査だ」とする町民の間に議論が起こっている。
 環境省の予定では、今年で楢葉の除染が終わる。勢いこんで私は、いよいよ牛を買って牧場を再開するのですか、と訪れた第九仮設で、牧場主さんに聞いてみた。静かに笑って話し始める主さんである。こういう時は大体、分かってないよな、ということなのだ。

1 牛を買っても、その牛から搾った乳をどこが受け入れてくれるのか
2 牧場に伸びる牧草は、食べさせられない。北海道や外国から買い入れることになる
3 牛を飼う環境(農機具のメンテナンスや獣医)が整うのか

と、先立つ困難を言ってくれた。特に一番目は衝撃だった。なんのことはない、自分たちが支援している「ニイダヤ水産」の大変さを見ているはずなのに、私はこんなことさえ分かっちゃいない、と思った。
 6代続いているという牧場主さんの田んぼと牧場は、ひっそりと暮らしを営んでいた。1966年の原発誘致は、あたりの景色と暮らしを一変させた。ただのような土地の上に、立派な公民館やコンサート会場、地域ごとの整備されたグラウンド。そして、東電や関連企業の社員が暮らす豪華な住宅が続々と生まれた。この時、零細な村や町に「都市化」あるいは「都会化」という急激な変動が、破壊的にされたということだ。おそらく、この目もくらむような都市と農村の「断層」は、今も楢葉町を初めとする昔からの「農村」の方に残っている。原発の廃炉とは、こんな「断層」をどうするのか、ということまで問われている。おそらく、廃炉のあと、「新しい住民」は出て行く。そのあとには、荒し尽くされた土地と暮らしが残るのだ。
 「限界集落」といったあざけりに満ちた言い方は、原発誘致の条件となった。都市化の流れと農村への侮蔑の「集約点」こそが原発だった。だから、私たちの言う「脱原発」とは、どうやら、都市的・都会的なものを考え直す機会と考えていいようだ。

1 古いものと新しいものが共存できる
2 「早い/多い/大きい」=「価値ある」とするのかどうか
3 「閉じる」ことから「開く」こと

などがきっと問われている。例えば三番目の「閉じ」られていたものが、みんな「開か」れるのではないか、と、私たちは原発事故の直後に思ったはずだ。やはり、あの頃私たちは「希望」を持っていた。

 「頑張れ日本!」がよそよそしく聞こえることは間違いない。
 「原発廃炉」もよそよそしく聞こえるのは、きっと、その道筋が誰にもよく分かっていないからだ。


 ☆☆
本当は成田(国際空港)のことまで書きたかった。成田って昔の暮らしと、空港が完全に分離している町なんです。町は空港で降り立ったひとたちを客として引き寄せたいみたいなんですが、そんなことはどだい無理なんです。無為無策の、もとタレント県知事は、カジノ構想なんてのをぶち上げてますが、そんなの、成田の国際空港化であって、町と空港の共存なんかではない。
方や、その一方で、成田にはお参りに訪れる観光客はひきも切らない。お相撲さんの節分豆まきや、うなぎも有名処であります。面白い町なんです。
ついでに、成田空港が建設されるという時の反対闘争の写真を一枚(福島菊次郎『戦後の若者たち』より)。
          
そうそう、学生たち(私は一度として行かなかったので、私たちとは言えません)が火炎ビンを投げて抵抗したのに対して、農家のおじさんオバサンたちは「人糞(うんこ)」を、同じく機動隊に投げて闘ったというのも、都市と農村の違いを象徴していたように覚えています。

 ☆☆
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