実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

親子/雑感  実戦教師塾通信二百六十八号

2013-04-02 15:41:22 | 戦後/昭和
 TBSドラマ『母。わが子へ』

      ~戦後-昭和 「母」というもの~


 1 昭和という時代


 震災が前面に出ているドラマかと思っていたので、前半は少しとまどった。違っていた。何か頭を殴られたような気がした。ここのところ寝付きが悪かったのだが、この日はもっと寝られなくなってしまった。このブログの読者は見ただろうか。私はまったく個人的な観点で見入ることになった。いたたまれなくなるほどのリアリティがあった。
 先週末、このドラマの前日だが、母と私たちが暮らした家の解体が始まった。60年前の姿をまったく変えずにいるところはあるだろうか、と私はカメラを構えた。二間ある部屋のひとつの外側に出たひさしの部分に、その名残を見つけた。
     
古びてはいるが、これもトタンが重ねてあり、家の周りに施してあるものと同じものだ。もとはトタンではなかった。ひさしの上には頼りなく、板が乗っていたはずだ。後付けのトタンも、サッシとなった窓もすべて兄がやったことだ。台所の基礎になっているブロックも、台所そのものも、玄関も昔の原型をとどめていなかった。思い立って、古い写真を取り出してみた。
              
以前も書いたが、この時代、まだ珍しかったカメラというものが我が家に舞い込んだのは、気まぐれで出した少年雑誌の懸賞で、兄が特賞をあてたというものだった(実は私がまだその現物を持っている)。写真は、私がまだ小学校に入ったばかりの頃のものだ。みんな正装しているのは、私の記憶に間違いがなければ、父がついに「ちゃんとした」仕事につこうということになって、その履歴書に添える写真を撮る、そんなときのものだからだ。学生服だが、兄は中学生ではない。よく見ればこの学生服は詰め襟ではない。奥で嬉しそうにしている、まだ40歳を迎えていない母。いよいよ暮らし向きが変わるかも知れない、という気持ちでいたこの頃。
 木枠の窓のガラスの割れたところが紙で修繕してあるが、昭和という時代は、こんなものだった。質素と貧しさは当たり前の風景となっていて、周囲になじんでいた。私の家が、そんな相場から見てもひどくなるのはこのあと、つまり、ようやく仕事を始めた父が、過労のため亡くなったあとのことだ。この写真の頃は、窓もまだちゃんとしていると言えるもので、この数年後、玄関は崩れ落ちる。その玄関に、
「お化けの家に攻撃開始!」
と言って近所のガキどもが石をぶつけて逃げていく、ということもこの頃はなかった。玄関はまだ、その用向きをちゃんとこなしていた。
 私は、解体される家の中を、そして周りをうろついた。解体屋さんは、当然なのだが、土足で部屋に入り、畳をはがし、襖を外していく。私もためらったが、とうとう靴のまま上にあがるのだ。しっかりした畳、それをどかしても地面の見えない床。ふやけた畳や腐った床はどこにもなかった。すべて兄がやったことだった。近所の大工さんが、この傾いた家の大修理をした時、土台の修正をするため柱をジャッキで持ち上げたら、家中の襖が全部倒れたことを思い出した。襖も屋根の重みを支えていたのだ。
 逆上ったあの頃、年の暮れになると必ずと言っていいくらい、今年もコトヨリさんの家になりましたよ、と言って、私の家には近所からの暮れの支援の味噌と、今思えば、それはそれは粗悪な毛布が届けられた。そんな我が家にも「高度成長」の時はやってきた。兄が大学を出て、川崎の市場に勤め始め、最初のボーナスで購入したのは冷蔵庫だった。会社の寮にいた兄は、田舎にいる私たちのために買ったのだ。東京オリンピックはとうに終わり、ビートルズが来日、ウルトラマンの放送開始、リカちゃん人形発売、大型タンカー進水、など、そんな時に、我が家にも冷蔵庫が入った。
 しかし、それらはすべて、解体される家のどこを探しても、名残さえ見いだせなかった。


 2 和解、そして母

 母は気丈に生きた。おそらく息子(男)という、自分にとっては謎に満ちて厄介な生き物に面食らっていたはずだ。その男二人は浪人までして大学に進んだ。この大変さを結局、私たち兄弟は想像できないに違いない。私に関して言えば、私が大学に入ったその年の桜を
「こんなにきれいな桜を見たことがない」
と母は言って喜んだ。しかしその母は、同じ年の冬、
「そんなことをさせるために、オマエを大学にやったつもりはない」
と言って泣くのだ。そして二年後、やはり壊れて使えなかった玄関からでなく、庭から入ってきた刑事が、
「おたくの息子さん捕まったよ」
と、ぶっきらぼうに言う冬のある日を迎える。しかし、母の名誉のためというか、言っておかないといけない。母はその時、息子がとんでもないことをしたと思ったとか、その刑事に、許して下さいなどと、願い出なかった。あまりに急なことだったので、気が動転したあまり、何か息子に不利になることを、うっかり刑事に言ったのではないか、という後悔に似た気持ちで一杯になったという。それをあとから大学の仲間から聞かされた。そして、その仲間たちが口々に言ったことを昨日のことのように覚えている。
「オマエの母ちゃんて、一体なにものなんだ」

 それにしても、不仲な兄弟のやりくりに、母はほとほと困ったようだ。私たちの兄弟の良さというものがあるとすれば、一方が親不孝を働く時、他方が母を支えたことだった。と言えるわけでもないな。両方がひどい時も多くあった。

 幼少(父が亡くなる前まで)の頃の私自身と重なる感じなのだが、甘え上手の次男・拓海(玉山鉄二)と、母の愛から取り残された気分で生きてきた長男・崇史(仲村トオル)二人の兄弟の、なんともギクシャクした展開でドラマは進んだ。そして、母・千勢(八千草薫)は死ぬ前に、最後の「しかけ」をした。最後は兄弟の和解と、離婚寸前の崇史夫婦の和解。ドラマのようには行かないな、私はそう思った。しかし、私は母から崇史へという、最後の場面を見て、息を止めた。
「これが私の崇史への最後の『えこひいき』です」
次男・拓海にはしたためなかったという、最後の言葉。

 私は、母が倒れる寸前まで、たったひとり続けた家計簿を思い出した。簡単ではあるが、その日の出来事も書き留めてある、大学ノートに罫線を引いて作った手製の家計簿。私が全部引き取った。そして、それを眺めて驚いた。倒れる十年くらい前から、私からの仕送りのあとが残っていないのだ。それに対して兄からの仕送りは、丹念に毎月記されていた。この兄に対する「えこひいき」を、ドラマの最後を見て、私は鮮やかに思い出した。自分が死んだら、この家計簿はよそ様の目に入るものだ、という母の気遣いはあちこちにあって、よく見れば、私のボーナス日の、すこしばかり奮発した仕送りは、丁寧にペンで消してあるのだ。
「政人からこんなにもらえないよ。悪いよ」
母がそう言っていたボーナスも、消されてあった。
 私は、遠い昔の、ボロボロの、母と私たちの家をあらためて思い出す。それを兄が働いてなおした、これから解体される家のことを思う。そして、母の子育ての苦しみ悩みと、兄への優しさを思わないわけにはいかない。

ありがとう、と、母に。
そうドラマが終わって思う。


 ☆☆
去年からこの『母。わが子へ』に、主演の仲村トオルはずいぶんと入れ込んでいました。その気持ちのいくらかでも共有できたように思います。参りました。少し演技に難あり、でしたけど。
ついでなので、あの頃の私の写真もう一枚。お気に入りのチョッキ(ベスト)を着て、爽やかに笑っています。
     

 ☆☆
母の家の両隣だけは、まだ60年前からのお付き合いの方が住んでいます。お騒がせしますと、あいさつをしに行きました。片方の家は、90歳を越える両親が二人だけで頑張って、というより、必死に生きていました。二人ともようやく立つ歩く、という生活の中で、食事と睡眠をとっています。どうりで母の家に行ってもずっと見かけなかったはずです。懐かしさよりはとまどい、医者がいやでもお灸はいいですよ、と、自分の娘に近所に治療院を探すように言って下さい、と、それだけですが、言ってきました。

 ☆☆
いや、長嶋と松井に国民栄誉賞、驚きましたね。私はこのニュースを歓迎したのですが、なにか異論続出だそうで。言われてみれば、張本・野村・野茂と、挙げればきりがないとも言えるんですねえ。難しいもんだ。それに「なぜ今」と言われれば、なるほど、選挙目当てであることはバレバレなんですねえ。