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実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

『あん』  実戦教師塾通信四百四十六号

2015-06-12 12:29:20 | エンターテインメント
 『あん』
     ~「どら焼いかがですか!」~


 1 出会い

  ハンセン病を描いた作品は二度目。『砂の器』が初めだ。『あん』もつらい映画なのだろうと思って、映画館への足は少しばかり重かった。しかし違っていた。
 カンヌ映画祭の作品(河瀬直美監督)である。ホントに映画っていいなと思った。美しかった。心を洗われ、そして力をもらった。
       
「あたし、50年間あんこを作ってるのよ」
映画が始まってすぐの、この徳江(樹木希林)の言葉で考えた。徳江の手は病(やまい)で侵されて、大きく形を変えている。十代で故郷を追われた徳江は、施設入所の時、母が徹夜して作ってくれたブラウスもみんな、洗いざらい処分される。患者は人と接触してはいけない。外部の人間は、施設/患者に近づいてはいけない。ハンセン病は、骨をも溶かす「忌(いま)わしい」病気だった。
 「伝染性の強い不治の病」という世の中で、徳江が小豆のあんこを作ろうと思ったきっかけはなんだったろう。これは食べ物だ。豆にも水にも自分の手を浸(つ)けるのだ。毎日豆と話をして腕をあげたのだろうか。
「こんなに美味しい」
そう思い、施設の仲間とそう言い合い食べたのだろうか。身体に対する不安も、自分自身あったに違いない。それが日々の生活の中で少しずつ払拭(ふっしょく)されたのだろうか。
 時を追うに従い、菌や伝染性の極めて弱いことが発見/解明される。治療法が確立される。それらの出来事に伴い、外に出たい/出られる思いが作られたのだろうか。長い年月と苦しみの向こうから、徳江が千太郎の店にやってくる。
「あたしが作ったあんこ、食べてみて」
と、徳江が差し出すあんこを、プレハブ小屋で店長をする千太郎(永瀬正敏)は、いったんは捨てる。しかし、
「つぶあんか」
と言わせることを忘れなかった。つぶあんだったから捨てた。徳江に対して「不浄(ふじょう)のもの」という見方を、一度も千太郎はしなかった。そんな人間の深い部分を徳江が見逃さなかったから、千太郎に声をかけた。あとでそれが分かる。

 2 「世間」というあり方
 徳江が小豆と会話しながら手塩にかけたあんこは、やがて小さな店の前に行列を作る。
      
      
しかし、客は波を引くように途絶える。徳江にはみんな分かる。でも、大量に売れ残ったどら焼を前に、そして素通りする人々を前に、招き猫を磨く。
 このあと物語は、静かに進む。私たちははある期待をして観続けた。それはある部分で受けいれられ、ある部分では裏切られる。
 中学生のワカナ(内田伽羅:樹木希林の孫)に誘われ、千太郎は施設を訪れる。徳江は静かに二人を迎える。はしゃぐでもない、かといって嫌な顔をするのでもない徳江の静かな顔から、様々なメッセージが流れて来る。千太郎は、そのメッセージをどう受け取ったらいいのか、身の置き場所に困るような躊躇(ちゅうちょ)をする。
      
幸せでした、という最後の徳江の手紙には、

「私たちはこの世を見るために、聞くために、生まれてきた」

としたためられていた。これは世間の非情を責める言葉ではない。千太郎と出会って、世の中を見ることが出来た感謝の言葉だ。映画は、誰が心ない噂をばらまいて客を奪ったのかという展開をしない。徳江は誰も責めない。千太郎は自分を責めた。
 私は強烈に教えられた気がする。

○私たちが向かうのは「世間」や「世界」とは別な処(ところ)でいい
○私たちが向かっているのは「世間」や「世界」ではない

と教えられた気がしている。
 私は「風評被害」なる言葉を、いきなり思い出した。自分に降りかかった災難を、他の誰かから「克服しなさい」「そうしないと復興しない」と言われる時の言葉だ。そして、せっかく丹精込めて作った米や野菜を、邪険にされる時に訴える言葉だ。徳江はそういう場所にはいなかった。
      
 徳江の好きな桜が満開の公園で、千太郎がどら焼を売るラスト。客の来ない屋台で、やがて意を決したように、
「どら焼いかがですか!」
と声を上げる千太郎の頭は、もうボサボサの長い髪ではなかった。

 土曜日の盛況だったのだろう。思いの外(ほか)、若い人が多かった。その満席の観客から、これも静かな拍手が起きたのだった。

 3 補足
 「癩病(らいびょう)」の意味を、ハンセン病と限定して、揉(も)め事を避けている辞書も多い。しかし、聖書や日本書紀の昔から登場する「癩病」が、固有の疫病(えきびょう)として分類されていたはずがない。「正体不明の恐ろしい病」程度の意味づけで始まっているというのが正確なところだ。ちなみに白川静の『字訓』によると、癩病の作りの「頼」の部分は、神から天与されたものを意味するので、癩病は神聖病だったという。中国は孔子の時代の話である。
      
映画『ベンハー』(1959年)にも、癩病に罹(かか)った人々が追い込まれる谷/洞窟が出て来る。キリストが処刑され、キリストの血と、その時に降った雨が病を流すという奇跡で映画は終わる。多分にこの時、谷には他の「正体不明の恐ろしい病」、性病患者や精神疾患の患者がいたことは間違いない(フーコー『狂気の誕生』など)。

 そして、あと補足したいことは、ふたつの『砂の器』(松本清張原作)である。ケチつけから入るが、2004年フジテレビのドラマを、私は相当入れ込んで見た。しかし、最終回は見なかった。事件は、ダム建設反対で村八分にあった人間が、その過去を知られたくないということを動機としている。待ってくれ、東京まで逃げれば村は追いかけて来ないじゃないのか。自分の過去を知る人間を殺す動機としては、はなはだ貧弱だ。
 さて、ハンセン病が「伝染病」として予防法が施行されるのは1953年。これによって患者の徹底管理/隔離をはかる。この予防法が廃止されるのは、1996年。たかだか20年前だ。映画制作の時期、癩病に関する世間の認識は「正体不明の恐ろしい病」だったはずだ。映画の上映は1962年なのである。制作にあたって、松竹と制作側(監督・野村芳太郎)は、激しく対立する。制作費は監督と松竹が折半(せっぱん)という結末まである。そしてさらに、この映画上映を全国の癩病患者(全癩協)が反対する。「差別を助長する」からだ。そして、全癩協との長い話し合いで、ようやくこぎつけた上映だ。
 家を、村を追い出された親子。全国どこを放浪しても、石を投げつけられる。そんなハンセン病の過去を持つピアニストを、ある日子どもの頃世話になったお巡りさんが訪ねる。彼はその夜、お巡りさんを殺すのだ。


 ☆☆
いろんな人に『あん』を勧めてます。皆さんもぜひどうぞ。上映は、全国で77館とはずいぶんな数字(少ないという意味ですよ)とも思いますが、また一度、
「私たちが向かうのは『世間』や『世界』ではない」
と、思うことにします。

 ☆☆
『天皇の料理番』好調ですねえ。見てますか。先週ひとつ残念だったのが、篤蔵の頭。髪を伸ばすのもいいけど、明治のコックがあれでいいのかなあ。一気に今風になってましたが、パリなら許されたのでしょうか。かなり残念。

 ☆☆
珍しく体調崩しました。年取ってからの風邪はこたえますねえ。皆さんも梅雨時の体調、お気をつけて。

『天皇の料理番』  実戦教師塾通信四百四十三号

2015-05-22 11:34:39 | エンターテインメント
 『天皇の料理番』
     ~トンカツ讃歌~


 1 『天皇の料理番』

 もしかしての思いで見始めたが、これはすこぶる面白い。とりあえず、「一途(いちず)」と「いい加減」は紙一重なのだなあ、と改めて思った次第である。しかし欲を言えば、料理を毎回ひとつずつでもクローズアップして欲しいところだと思っている。初回がそうだったからだ。あの牛カツがいかにもそそられたではないか。記憶がいい加減ではあるが、そのまま書いてしまう。
      
 昆布卸(おろし)の名家に婿入りした佐藤健演じる篤蔵(本当は徳蔵)が、ある日、レストランの厨房(ちゅうぼう)に昆布を持っていく場面だ。シェフ役の伊藤英明が、牛肉をたたいて「柔らかくしている」ところだった。牛肉は、もちろん霜降りなどなかった時代(明治)の赤身を使っていた。塩を上から振り、小麦粉でくるみ、玉子をくぐらせ、たっぷりのパン粉で優しくくるんでいく。それはまるで音楽の演奏を聞くようだった。当時の人間だったら、篤蔵でなくとも、
「なにを作っているんだ?」
と聞いたに違いない。それほど謎と魅惑に満ちている手際(てぎわ)と景色。
「カツレツというんだ」
と答えたシェフは、フライパンに薄く敷いた油に、肉を乗せる。そしてレンゲで何度も油をかけていくのである。揚げるカツではない。ミラノ風カツのようであるが、チーズは使っていなかった。
 四つ足を食べるのか、という驚きを隠さない篤蔵を横目に、シェフはナイフを入れ、食べろと勧める。中がレアで、赤いのだ。コンガリとした衣の鮮(あざ)やかさ、肉の外側と内側の色の対照が実にいい。静かな厨房に、牛カツの存在感はとびっきりである。
 牛カツをめぐる物語と立ち上がる匂いに圧倒された篤蔵は、食べる前から味わいという世界にどっしり漬かっている。
「うまい!!」
口の中の、サクッという心地よい音に篤蔵は目を見張る。
「もう一切れ食べて見ろ」
今度はシェフが、デミグラスソースを乗せて言う。もう言われなくとも分かる。うま味は格段に上がる。いや、別物か。
 なんてこった。きっと本番だけは食べたのだろう。
 周囲は小林薫を初め、見事に役者を揃えている。美保純もいいお母さんを演じているのだ。私は思わず、日活でポルノをやっていた頃の、彼女のかわいいオッパイを懐かしんだのだった。 
 篤蔵の無骨な走り方が様になっていて、またいい。

 2 トンカツ万歳!
「なあに 人間そんなにえらくなるこたあねえ」
「ちょうどいいってものがあらあ」
「いいかい学生さん、トンカツをな、トンカツをいつでも食えるくらいになりなよ」
「それが、人間えら過ぎもしない貧乏過ぎもしない、ちょうどいいくらいってとこなんだ」(『美味しんぼ』11巻「トンカツ慕情」より)
      
これはバブル期に成功を納めた経営者が、ひもじかった30年前の学生時代を回顧した場面である。
 今でこそトンカツは、必ずしもぜいたくな一品とは言えないのかもしれない。しかし、今やトンカツは、「かつ太郎」「とんQ」などファミレス系を初め、「かつや」などのファストフード、そして「和幸」などの老舗(しにせ)と棲(す)み分けをしつつ、しっかりジャンルを確立したものだ。今となっては「洋食」ではなく「和食」として、である。つまりトンカツはいま、「とりあえず」というグレードに始まり、「特別な」クラスまで網羅(もうら)した場所なのだと言い換えてもいい。これほどまで日本人が望み、こだわったトンカツなのである。
 池波正太郎によれば、トンカツは大正の関東大震災のあと、はやり出した豚肉料理の中のひとつだったらしい。洋食屋で始まったとも言われるトンカツは、あっと言う間に味噌汁とお箸(はし)を添える和食店へと進出し、大盛りでキャベツが下に敷かれるスタイルとなっていく。
 それでもトンカツは、やっぱり「特別な御馳走」であったことは間違いない。おそらく多くの日本人は「トンカツを食べたい」思いでいた。作る方もそれで「トンカツ」という料理を磨(みが)き上げていったと思える。こんな中で、トンカツは「和食という文化」にまで押し上げられた。それは大正から戦後、高度成長期とわたって続いた。そして日本人は、トンカツの衣の色と匂い、口に含んだ時の触感を「味」とするようになった。また、油が鼻につくものは、肉が厚かろうが柔らかろうが敬遠する。多くの人は「特別な料理」として口にするのである。『美味しんぼ』のトンカツ屋「トンカツ大王」の店主は、
「トンカツをいつでも食える」
くらいが「ちょうどいい」と言った。分厚い肉ばかりを食べていれば「トンカツが食べたい」とは思わないだろう。でも、トンカツもままならない生活とは、きっとつらいものだ。常に「帰ってくる場所」としてトンカツがある。そういう場所なんだよ、と店主は言っているように思えた。
 池波は、銀座の『煉瓦亭』と目黒の『とんき』を名店としてあげる(それぞれ支店がある)。並々と盛られたキャベツに乗せられたカツ、ご飯と香の物にビールを頼んで千円を切る(30年以上前だが)と驚くのである。そして、
「うむ……」
とうなり声を上げて食べるらしい。キャベツはお代わり自由で、ここが大事だが、店で働く女の子たちが、実に楽しそうに働いているという。客のひとりが、
「もう、ここへ来たら、バカバカしくて酒場やクラブへは行けませんよ」
と言ったという。これは『とんき』の話。ここに来ると「未来が信じられる」とも思うらしい。

 3 『和さび』
 遠方でこれを読んでる方には申し訳ないが、地元のお店を紹介したい。柏西口から徒歩5分、国道6号線をまたいですぐのところにある『塩梅』も大きくておいしいカツを出してくれるが、今回は同じく東口から徒歩8分のところにある『和さび』である。
 鈴木京香似の女将(おかみ)さんが振りまく笑顔は、間違いなく店の集客を手伝っている。気分よく食べ、気分よく店を出ることが出来るのは、彼女のおかげが大きい。
 さて、肝心な料理である。
      
これは「牛ハラミのカツ」である。右側に少しだけ映っているが、このタレにからませて食べる。なんと、夜も「定食」として出している。800円!じゃなかったかな。まあ輸入の肉だろうが、それはこの際おいとく。これがうまい。もう繰り返しになるのでやめるが、あの篤蔵の肉を食べるシーンだ。見事に肉がレアなのだが、これが実に熱々なのだ。熱々ではあっても、レアなのである。ステーキの名店?に行って、冷たいレアを出されるのを思い出して欲しい。
 この店のカウンターを気に入っている私は、例によってあれこれうるさく言いながら食べる。厨房をこれもたったひとりで仕切っている板前さんが、
「ハラミって、肉というより内臓なんです」
と教えてくれた。あばらの下にある横隔膜を言うのだそうだ。不覚にも私は初めて知った。よその店でも、ものの本でも、また牛の部位を示す図でも、それを知ることはなかった。ついでに、この店で初めて食べた時の枝豆のうまさや、あまり目にすることのない銘酒『明鏡止水』が置いてあることも言わずにいられなかった。ひとつひとつていねいに、そして嬉しそうに答える板前さんに、ドラマ『天皇の料理番』の料理長・小林薫の、
「料理は真心だ」
の言葉を思い出してしまう。
 夫婦ふたりだけで仕切るこの『和さび』は、いつ行っても大勢の客が、楽しそうに食べている。


 ☆☆
ということで、これは私が作ったカツ丼。
      
『和幸』のトンカツを友だちからいただきまして、もうたまらずって感じで作りました。アオサの味噌汁と、いわきのおばちゃんからいただいて持ち帰った細昆布の煮物です。『余市』をオンザロックで。いやあ美味しい。
ってオマエは今回はなにを書いてるって言われるのかな。すべては『天皇の料理番』の牛カツがいけないのです。

 ☆☆
いやあ、大相撲面白いですねえ。昨日のようにバタバタと力士が負けていくと、普通は興ざめするものです。混戦が面白いというのは、きっと実力のある力士が揃っているということです。今場所は、白鵬への汚い嫌がらせが見られないのもいいですねえ。
遠藤も旭天鵬も頑張れ~

『夕空はれて』  実戦教師塾通信四百二十号

2014-12-19 11:47:31 | エンターテインメント
 『夕空はれて~よくかきくうきゃく~』
     ~人は旅をしている~


 1 『トロッコ』

 別役実原作『夕空はれて~よくかきくうきゃく~』を、ありがたく観賞させていただいた(特別な思いで「させていただく」を使った)。
            
文学やマンガのいくつかのシーンがすぐ頭に浮かんだ。芥川の『トロッコ』が最初に思い出された。
 小田原熱海間を走る、憬(あこが)れのトロッコに乗るチャンスを得た少年の良平のことを、だ。はしゃいだ良平が、トロッコを上り坂で押す/下り坂で乗るを繰り返して遠くまで来たあげく、土工から突然発せられた、いやこの場合「浴びせられた」と言った方がいいのかも知れない、

「われはもう帰んな」

というぶっきらぼうな声。
 土工は優しい人たちだったのだ。怒ることもなくトロッコに乗せてくれた。しかし、景色が次々と入れ代わり、向こうに海が開けた時、良平は「遠くに来過ぎた」ことを、そして「何かが違っていた」ことを知った。自分の住んでいるところから海までが遠かったのではない。土工たちは日々トロッコを住まいにしている。資材を積んで毎日、陸地から海へ延びたレールの上をトロッコで走る。竹藪や雑木林の間をいくつも通り抜け、茶店のある休憩場所でお茶とタバコで一服する。そして海が向こうへ開けてくる。こんな土工たちの当たり前の毎日を、良平は知らなかった。もしかしたらトロッコは、今日中にもとの場所に戻らないのかも知れない。土工と自分とはまったく違った人間なのだ、と良平は初めて知った。引き返すことの出来なくなった場所で、良平の恐怖は膨(ふく)れ上がった。
「われはもう帰んな」
とは、良平には、

○ここはオマエの場所ではないよ
○子どもが来る所ではないよ

ということを意味した。良平にとってこれは、

○いつまでついて来る気なんだ
○だいたいがオマエは誰なんだ

と聞こえても不思議ではない。良平はこのトロッコを率(ひき)いるものたちの中で、たったひとりだった。

 「人は旅をしている」。「旅に出る」とか「旅をする」というのではない。人は旅をしている。良平の旅は無残な結末を迎える。生活者が続ける、生業(なりわい)という旅に自分はうまく入り込んだと思った。しかし結局、自分はひとりの「よそ者」でしかなかった。暗くなった中をいっさんに走り、家に戻った良平は、母親の胸に飛び込んで叫び、泣きじゃくるのだ。


 2 『ねじ式』
 『夕空はれて』のラストは強烈だ。「女1」(町の住民だ)が、

「取調官に聞かれたら、あなたはこう言うのです。『この女はトラに噛(か)まれて死にました』とね」

しかし、「本当のこと」は違っている。町の人々がライオンだのトラだの、そして熊だのと言っている、実は人間(男?)が殺したのだ。
 通りすがりの「男1」(旅人だ)が、ある町を通り掛かる。なんでもない町のなんでもない人たちは、いい人たち、いや「普通の人たち」だと思った。だから少しばかり発生した違和感を、どうにかしたいと思った。当たり前と思えることが分かってもらえなかったのだ。しかし、そのずれは解決するどころかどんどん大きくなった。私はつげ義春の『ねじ式』(1968年)を思い出さないわけには行かなかった。
            
      
海でクラゲに刺されて瀕死(ひんし)状態となった旅人が、村で医者を探す。しかし村ではちっとも言葉が通じない。
 さて、『夕空はれて』の方でも旅人は必死だった。ライオンに噛まれたくないという当たり前のことを言っている人たちが、「本当」は違うんだよ、とでもいうような空気を漂(ただよ)わせる。ある時はそんなバカなと思い、ある時はさっきと違っている、と驚く旅人(仲村トオル)の表情は、もう見事というしかない。円形劇場は、私たちの笑いで渦(うず)になるのだ。
 旅人が町の人たちに弄(もてあそ)ばれているとしか思えない展開に、私たちは少しばかり「もういい加減にすればいいのに」「さっさとこの場を立ち去ればいい」と思う。しかしその頃、もう旅人は町の人々とのずれを受けいれるようになっており、いきおい「秘密」の共有さえすることとなった。なんと旅人は、自分の思うことを言えなくなったのである。そうして、それまで笑っていた人々の顔から優しさが消えて、最後に放り出された言葉。それはまるで、

「あなたはもう引き返せませんよ。もうあなたも、ここのやり方でやってもらいます」

とでも言われたかのようだ。

 「人は旅をしている」。「旅に出る」とか「旅をする」というのではない。人は旅をしている。この『夕空はれて』は旅先で、または生きている中で、そんな言葉の通じないもどかしさを語っているかのようだ。作品は1985年のものだ。しかしこれは、自分が行ったこともない外国にいるような、今現在のもどかしさを語っていて、人々がよそ者の前に壁となって立ちふさがる様子は、腑(ふ)に落ちる心地よさがあった。
 そして、旅人が「本当のこと」を言わなかったら悲劇は起こらなかった。すべてがその瞬間崩(くず)れ落ちたのである。吉本隆明の、

「ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせる」(『転位のための十篇』より)

を誰でも思い出すに違いない。

 体調は最悪の私だったが、公演後、身体の中を爽(さわ)やかな風がふいていた。別役実、そして教え子に感謝するばかりだ。


 3 思うこと
 別役実の演劇についてはまったく知らない私だが、別役作品のモチーフとして必ず「電柱/旅行カバン/傘」が登場することは、そういえば聞いていた。わずかばかりの荷物と道具をたずさえて、人は「旅をしている」。
 舞台を取り囲むように立っている6本の電柱は、オレンジ色のわずかな光を、電灯の傘から落としていた。電柱。夏の夜は、蛾やかぶと虫の群がった場所。昼間はかたわらの電線に雀たちが並んだ場所。母から叱(しか)られ家を追い出され、夕闇に泣いてすがった電柱。父の所在を確かめるため、公安警察がたたずんだ電柱。電柱はいつも茶色くすすけた、変わらない姿で私たちのそばにあった。

 母は映画で感動すると、決まったように「この映画は何を言いたかったんだろうね」と言ったものである。『老人と海』(1958年)の時も、『千と千尋の神隠し』の時もそうだった。この『夕空はれて~よくかきくうきゃく~』を見たら、やっぱりそう言ったような気がする。


 ☆☆
励まされました。思い返せば震災翌年の春だったか、再開したいわきの吉野家の窓いっぱいに、コピーは「新たな味へ」だったか、仲村トオルのポスターが貼(は)られました。毎日、6号バイパスを支援活動に向かう私に、
「先生、ぼくも頑張ってます」
といつも言われているような気がして嬉しかった。今回もまた励まされた、そんな気分です。ありがとう!

 ☆☆
選挙、予想通りでもあり、予想外でもありました。「自民圧勝」の見出しで飾ったメディアは、唯一、毎日だけが「自民微減」だったそうですね。その通りなんですよね。でも、共産党の躍進には驚きました。両親が生きていたらなんと言ったでしょう。
骨と皮の姿になりながら、村や集落を自転車で回って人々の相談に乗っていた父。それでも陰で、ホントに武装の準備をしていたのでしょうか。信じられない思いです。そして、父の死後はレッドパージの頃、近所から口をきいてもらえなかった母。私は大嫌いな共産党ですが、迷わず言います。父さん母さん、おめでとう!

 ☆☆
これから今年最後の支援に行ってきます。と言ってもこれが発行される頃は、支援のお味噌は配ったあとなのです。なわけで、予約の投稿です。

『永遠』  実戦教師塾通信四百十七号

2014-11-28 11:45:15 | エンターテインメント
 『永遠』
     ~最後のピンクフロイド~


 1 『アメリカングラフィティ』

 『スターウォーズ』のジョージルーカスが、1973年に撮(と)ったのが『アメリカングラフィティ』だ。まだケツの青いガキンチョたちが見栄(みえ)はって、痛い目にあいながら少しずつ成長するというお話。ドラッグレースに酒に女、そしてステータスな道に憬(あこが)れ、危なっかしい足どりで走る男どもを、女の子たちがあきれつつも温かく見守る。物語の中を、ずっと1960年代のポップスが飾る。
 エンディングで、男どものその後がテロップで流れる。ガラにもなく、金持ちとワルを気取ったメガネのちびは、
「ベトナム戦争で行方知れずとなる」
とあるのだ。これが出てくるのかよ、と私たちは驚くのである。
 ベトナム戦争の傷と影を、アメリカ映画はどれほど描いただろう。アメリカを愛するがゆえに南部で殺される『イージーライダー』、自殺ゲーム(ロシアンルーレット)に明け暮れる『ディアハンター』、あげればきりがない。


 2 1945年
 アメリカの価値観の転倒はベトナム戦争に始まった。アメリカはそれまで「負ける」ことを知らない国だった。その他の国々は違っていた。それが1945年だった。
 1945年、世界中の国々に様々な反省や処理が問われた。例えばドイツは、腐臭(ふしゅう)漂うすべての出来事は「ナチ」がやったことだ、と総括する。終戦直後もその後も、ドイツはこの事実/処理を忠実に守るべく生きてきた。
 一方日本は、「戦争はもういやだ」という思いで、平和憲法を育てて来た気がする。戦後間もなく勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争でもうけはしたが、日本は戦争で公然と人を殺さなかった。この「戦争はもうたくさん」の思いは、女たちと若者によって引き継がれたと、私は思っている。年をとった戦中世代の男たちが繰り返してきた、
「私たちは戦争に反対だった」
「反対と言えば軍にしょっぴかれた」
という言葉を、私は信じたことがない。こういう連中は、
「国にだまされた」
と言い続けてきた。この連中がこれから起こる出来事に対しても、
「国にだまされた」
といい続けることは間違いない。
 1945年は、アメリカがこの大陸の「発見」を発見した時から続いて来た「勝利」を、またしても確認した年だった。その歯車が狂って、1975年、初めての「屈辱/敗北」を味わう。1965年から10年間、アメリカは今まで味わったことのない時間を過ごしていた。


 3 『The Wall(壁)』
 ピンクフロイドはイギリスのバンドだ。そのバンドの『狂気』がアメリカで大ブレイクするのは1973年である。オリジナルタイトルは「crazy」でも「psycho」でもなかった。『The dark side of the Moon』、つまり直訳すれば「月の裏側」、英語で『狂気』となる。見えない部分/見ることの出来ない部分を「狂気」と呼んだ。今でこそ人工衛星が簡単に撮影出来るが、昔は「謎/未知」だった。「狂気」が謎だったということと重ねた。
           
「走れうさぎ、走るんだ」
高鳴る心臓の鼓動と高笑いで始まるアルバムは、しかし、信じがたい癒(いや)しの光を送り込む。
「いいんだよ」
というサウンドに、私たちは狂気/病が受けいれられている信じがたい思いを持つ。
「いいんだよ」

 死と隣り合わせた恐怖がベトナムにあったからではない、そこではアメリカのプライド/自信が揺らいでいた。アメリカにも『狂気』が降り立った。アメリカもピンクフロイドの『狂気』を共有することとなる。
 1979年、アルバム『The Wall』が発表される。
            
「くつろぎなさい」
「きみの苦しみなんて簡単になおるんだよ」
と部屋に入ってきた男たちは、優しく言う。それに対して「ぼく」は、
「痛みはないんだ」
「でも、あなたの口が動くのは見えても、なんて言ってるのか分からない」
と応じる。男たちは、
「もう時間がないんです」
「仕事(ショウ)の時間だから」
「さあ行かないといけない」
「立ってください」
曲を聞いている私たちは戸惑(とまど)うはずだ。これがえも言われず静かで優しいメロディだからだ。
 さて、「ぼく」はまどろんだまま、
「小さいころ、ぼくは熱をよく出した」
「その時の気分だよ」
「このままぼうっとしていたい」
とつぶやく。両者のやりとりが延々と続く(『The Wall』「Comfortably Numb」より)。こんなに癒される世界があったのだと、私たちは思う。ゆるやかで温かなものが、曲から紡(つむ)ぎだされてくる。そうして「壁」の向こうに行くべきか、でも「壁」もまたいいものなのかも知れないなどと思ったりする。

 ファイナルカットに間違いない『永遠』。このアルバムに新しいものなどなんにもない。私にはそう思えた。でもだからなんだというのだ。
            
「いま」ぼくたちが「ここ」にいるのは間違いのないことだよ、と言われているような気がした。
            


 ☆☆
7月に亡くなった純生が生きていたらなんと言ったでしょう。病と薬に悩み寄り掛かり、その結果数々の事故を見舞った純生が生きていたらどう思ったでしょう。今度こそ最後に間違いない。ストーンズと年齢は変わらないにしても、まとまりのなさにかけてピンクフロイドは、ビートルズの比ではありません。多分限界に近いと思われるフロイドの心身の疲労は、年齢だけが原因ではありません。今までに感謝です。

 ☆☆
白鵬やりました。嬉しいです。これもちゃんと記事で書きたいです。
「この国の魂と相撲の神様が、こういう結果をくれた」
なんて、また言ってくれますねえ。
「自分には運がついてる。でも、継続していないとこの運もついてこなかった」
とは、次の日の記者会見。いちいち励みになります。
白鵬おめでとう!

白鵬  実戦教師塾通信三百八十九号

2014-06-08 11:14:47 | エンターテインメント
 白鵬-稀代の横綱


 1 「本当のこと」

「紗代子さん、あなたを愛しています」
私は相撲取りであり横綱でありますが、ひとりの男であり夫でもあるのです、のあとにこの締(し)めくくりである。白鵬は何度、日本人を感動させただろう。やっぱりあなたはただ者ではない、と思うばかりだ。
 以前の白鵬は、負けをひきずったという。しかし今では、帰宅して子どもの顔を見ればすぐに気持ちが切り替わるそうだ。
「子どもの力、家族の力という目に見えないものがある」(角川書店『相撲よ!』より)
という。よく子どもたちが、
「おばあちゃんといるのが楽しい」
と言う。あれは、そこに、
「揺(ゆ)るぎない場所/時間」
があるからだ。外、または自分の世界とは違う時間が、そこに変わることなく流れているからだ。子どもたちがそれで落ち着く。それと似ているかもしれない。「家」の最大の役割というか、姿を白鵬は感じて言っている。
 そんな安定した状態で今場所は相撲を取れなかった。流産を知ったのは13日目だったという。もともと彼女の安否(あんぴ)を気づかって名古屋に来ていたわけである。『相撲よ!』には、
「私は五人兄弟なので、子どもは五人欲しいね」
と言っているが、
「これだけは授(さず)かり物なので、どうなることかわからない」
ともある。今回の出来事に白鵬がどんな態度で臨(のぞ)んだか、心中はわずかながら察することができるように思う。
 記者会見を中止することで、様々な憶測(おくそく)や勘繰りが生まれることは分かっていた。しかし、
「モンゴルの新聞によって、10回くらい結婚させられている」(同書より)
白鵬にとっては、たいしたことではなかったのだろうか。周囲の大騒ぎは彼女にも伝わっていただろう。二人がお互いを思いやる言葉を交(か)わしたことが、容易(ようい)に想像できる。
 海老蔵が泣いたという。そこで海老蔵は、
「本当のことがわからないと、外野の言うことが本当だと思えてしまう」
とも言っている。いろいろなことを教えてくれる横綱である。
        
        左端に幼(おさな)い頃の白鵬がいる(同書)


 2 「仕合」
 白鵬が「そんじょそこらの横綱ではない」ことを検証するために、取り組みを振り返っておきたい。
「取り乱す」
とは「通常の所作(しょさ)が出来ない」ことである。私がオヤと思ったのは、勝ち方だった。相手がまだ土俵下だったか、まだ礼をする状態にない時、白鵬がもう行司(ぎょうじ)の勝ち名乗りを待っている。これが一回ではなかった。驚いた。以前もこんなことがあったが、それは一年か二年前、最初の当たりで松鳳山が脳震盪(のうしんとう)を起こした時だ。あの時は松鳳山がまだ痙攣(けいれん)が納まらず起き上がれない状態のまま、勝ち名乗りを受けてしまった。いつもなら相手に手を添(そ)えることを忘れない横綱は、多分「取り乱した」。自分の力による相手の異変に驚いた。行司も驚き、そのまま勝ち名乗りを上げてしまった。という出来事だと思っている。それが複数回。今場所はそのほか「だめ押し」も目立った。
 いつもの横綱は、相手に仕(つか)える気持ちが満ちている。武道を志(こころざ)す私達が「試合」=「仕合」、つまり「つかえあう」と名付ける所以(ゆえん)である。この所作が身についている横綱が、今場所はそれを疑わせるような場面が複数あった。舞の海がやはり感じたようで、それを、
「強さを見せつけるような」
相撲だと言った。私には、横綱の気が散っているようにしか見えなかった。これを取り上げようとしたら、普通は「横綱の品格」という問題になるのかもしれないが、白鵬の場合は違う。私には、
「一体何があったのだ?」
という思いであった。でも分かった。今場所の横綱は、
「相撲のことを考える余裕(よゆう)がなかった」
「『勝ちに行く』しかなかった」
のだ。
 しかし、なんという懐(ふところ)の深さだろう。
            
                 同書から
 前にも言ったがもう一度言う。今生きている人の中で「日本人は誰か」と聞かれたら、私は迷わずに、ドナルドキーンと白鵬をあげます。


 ☆☆
マー君、9勝目ですね。アスレチックスは徹底(てってい)して「低めを打たない」作戦だったそうで、でも、マー君は、
「我慢比べなら負けないぞ」
と思ったという。いやあ、なんつーか、です。
楽天は、そのマー君と星野監督がいない。大変だ~
でも監督はゆっくり、そしてちゃんと治して欲しいですね。

 ☆☆
この間、雨あがりを歩いていたら、美容院の入り口からずっと外を見ている若いスタッフ(夫婦?)がいるのです。見ている先には、多分、今し方までお客さんだったおばあちゃんがいました。背中が大きく曲がって、両手で支(ささ)える歩行器に必死にしがみついている彼女は、もう倒れんばかりでした。そのおばあちゃんを心配そうに二人は見ているのです。私も思わず立ち止まって、遠くからでしたが、ずっと見てしまいました。おばあちゃんの頭は、それはそれはきれいに仕上がっていて、これからどこかへ出かけるのだろうかなどと、私の想像をかきたてました。よかったですねと思った私です。いいものを見せてもらったと思う私です。