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実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

内原義勇軍訓練所 実戦教師塾通信六百二十六号

2018-11-16 11:43:01 | 戦後/昭和
 内原義勇軍訓練所
     ~満洲/戦後を考えるために~


 ☆初めに☆
今年の読書特集で、満蒙開拓義勇軍の本(『満蒙開拓青少年義勇軍の旅路』)を紹介しました。
国内で唯一の義勇軍訓練所は、茨城県東茨城郡・内原(現・水戸市内原町)にありました。全国から志願した少年たちが、ここで二カ月の訓練を受けて、その後満洲に渡ったのです。
 ☆☆
相も変わらず良く調べもせずに出むく私です。訓練所跡の「義勇軍資料館」は館内工事中、12月上旬まで休館でした。
館内には入れませんでしたが、今回は外観と概要をお知らせします。次の時は、館内まで見学してレポートします。

 1 日輪兵舎
 復元された日輪兵舎は、内原図書館・郷土資料館の庭一角に立っている。単純で工期が短く、訓練生10人が5日で建てたという。多くの人員を収容することが可能な、モンゴルのパオを模した「日輪」構造。

直径11m、30坪の兵舎には60人が収容可能だったという。ここも閉められているので、外からの写真です。

大鍋や農機具も見えます。

こちらが記念館。


 2 訓練所での生活
 今回は義勇軍募集のポイントと、少年たちの生活がどのようだったのか、ふたつに絞り込もうと思う。
「かぞえ16歳より19歳までの身体剛健意思強固なるもの」
「内地訓練二カ月、現地訓練三カ年を終了したあかつきには………独立農業者たらしむべく国家はこれを助成する」
は、募集要項。そして、満洲開拓本部(略称)の年報によれば、実際に応募したのは、多くが農家の次男以下で、高等小学校を卒業したばかりの十五,六歳の少年たちだった。零細(れいさい)農家にとって夢のような話だった。
 しかし、年間3万人の募集に対し、1938年の初年度は2万5千人を下回り、翌年の1939年は1万人さえ及ばなかった。この数字の低さは、1937年の日中戦争本格的開始が原因らしい。国内の軍需産業が活況(かっきょう)を呈し、「満洲に渡ることもない」状況が生まれたのだ。仕方なく募集は県ごとの割り当てがされる。教育会(現教育委員会)や教師はノルマ達成に奔走(ほんそう)する。
 そして割り当ての数が、なぜか山形・宮城・長野や新潟に多かった。みんな雪の多い寒冷地だった。計画書には、
「満洲……というのは寒いところでありますから、寒い経験のない人間が行っては冬が越されない」
とある。しかしこれを読めば、集団就職で上京する中卒の子どもたちを思った人たちは多いだろう。
 応募した子どもたち(訓練生)には、厳しい軍隊式の生活と粗末な食事が待っていた。離れた家族が現金や食べ物を送ることは禁じられ、手紙は検閲された。しかし訓練生はおとなしく従わなかった。訓練所外での機会を利用して検閲なしの手紙を出し、訓練先で現金を受け取り、あるものは訓練先で脱走した。
 義勇軍の記録として残される多くの手記が、内原訓練所の日々を懐かしくつづるものが多い。教官にめぐまれた訓練生もあったというので、全部が嘘ではないだろう。そういうケースもあったということだ。しかし、それらが当時の「検閲」ずみの文章であることを、私たちは踏まえた方がよさそうである。夜、8時30分の消灯ラッパに、涙をこらえて床に就(つ)く子どもたちだった。



 ☆笠間稲荷☆
内原の目と鼻の先に、笠間があります。菊祭り真っ盛りの笠間稲荷に寄りました。境内です。

反対側からのショット。

これは近くの小学生たちの作品なんです。見事ですね。

開店前の饅頭屋さんで、おじさんがひとり、慌(あわ)ただしくあんこを仕込んでました。まかないさんも誰もまだ来てない店でした。いいおじさんで、店内のお猪口(ちょこ)に、
「これ、値段がついてないんですが………」
私が尋ねると、忙しいさなか出てきてくれるんです。これはねと、下に敷いてあった袋を取り出し、
「酒好きのダンナがお気に入りの猪口をこの袋に入れておくのさ」
「これを持って店に行くってことらしいよ」
袋には2500円のシール。ちっとたけえな、おじさんはそう言って笑い、おいしいよ、と出来立て饅頭を差し出すのです。
こういうお店ではつい買い物をしてしまいますねえ。

     通り沿いは地元の造り酒屋『松緑』です。

1968年(中) 実戦教師塾通信六百二十三号

2018-10-26 11:50:46 | 戦後/昭和
 1968年(中)
     ~<全共闘>(前)~


 ☆初めに☆
50年前の「10,21」をテレビが振り返ったのは、テレビ東京系「池上彰の『現代史を歩く!』」だけだったのかな。それも、パリの「五月革命」に少し付け足したものでした。1968年を振り返るテレビは、日大のアメフト事件の時もそうでしたが、悪意を感じさせるものはない気がします。まあ、ぜいたくを言ったらきりがないのですが。

50年前の10,21新宿東口、今のアルタ前です。学生ばかりではなく、労働者(なんと遠い響き!)や市民が身動き出来ないほど集まりました。
 ☆☆
前号の東大の写真は、古いものか?という問い合わせがありました。きっと、今の安田講堂の姿を知っている方ですね。今やあの後ろには、高層ビルのように校舎や研究棟などがひしめいています。すぐ近くまで講堂に接近して、ようやくあの写真が撮れます。

この銀杏(いちょう)並木が葉を散らせば、ビルのように不細工(ぶさいく)な校舎が、講堂の背後にそびえて見えて来るんです。
 ☆☆
「全共闘」と言えば、この安田講堂を思うのではないでしょうか。

これを「頂点」とするメディアは多いが、私たち地方の学生にとって、これはエールであり新たなスタートでした。全国どこの大学でも、すでにそれまで十分な兆(きざ)しがあったからです。

 1 十年前
 ほぼ十年前、2009,1,18の朝日新聞コラム『天声人語』である。東大の本郷キャンパスに入るのは「生まれて初めて」という筆者が、あの日を振り返っている。講堂に立てこもる学生七百人に対し、八千五百人の機動隊員が導入された、あの日のことである。
「2日にわたる安田講堂攻防戦▼先々の不利益を承知でとどまる学生らは、命がけで職務にあたる機動隊員に必死で抵抗した」
この「命がけ」は機動隊員だけにかかる言葉ではない。工学部列品館屋上の仲間は、ガス銃の直撃を受けて目を撃ち抜かれている。多くの学生が重症を負った。
「▼全共闘の運動を革命ごっこと嘲(あざけ)るのは楽だが、ベトナム反戦でも大学改革でも、時代と社会に向き合う一途(いちず)さはまぶしい。その『熱いバトン』を落とした世代の、勝手な感傷(かんしょう)だろうか」
我々より世代があとの方らしい。この文章からはあの頃、多くの「文化人」どもの「(全共闘は)言っていることは正しいが、やり方が間違っている」という、いまいましい姿は見えない。隔世(かくせい)の感とはこういうものなのか。

 2 あの頃
 68~69年のいきさつの前に、当時がどんな時代だったのか押さえておきたいと思う。
 新聞・雑誌の中に、当時の世相がしっかり見える。栃木・下野(しもつけ)新聞の川柳(せんりゅう)欄だ。
◇闘争をさけて学ぶ子に安堵(あんど)
◇学園が揺れて指針を見失い
◇悲しきは無学の母の読み違い
◇学校を出ないひがみが爆発し
学生自身のものと、おそらくは「母親」の句ではないか。「家を守った」この頃の母親。そのことに意味/価値を見いださず、平気で蔑(さげす)む息子か、そして母本人のものと思える句。
 当時の朝日新聞に、詩人・高田敏子の「落ち葉がしきりの季節になった」に始まるコラムがある。
「夏も過ぎれば子どもたちも大きくなって、責任のある仕事は一応終わる。葉の紅葉は、女性の第二の青春」
一体なんのことか。夏休み中、子どもが家にいることの大変さを語っているのだ。
「子どもの世話から解放されて、自分を美しくゆたかにかがやかせる季節と言えるのではないかしら?」
と結ぶコラムである。しかしその後、大きく成長した息子?は川柳で親への蔑みを歌う、そんな時代。
 一方父親は、いや男はと言うべきか、威張っていた。家は会社は、そして日本はオレが支えているという傲慢(ごうまん)が、多くの家々に満ちていた。
「何を生意気なことを言ってるんだ」
畳みかける姿はどこでも同じだった。男/父親が支配し、女/母親は我慢する。これが「戦後の民主化された日本」の姿だった。

 何度でも言おう。私たちが闘ったものは、
「戦前/戦中の残滓(ざんし)に満ちた社会」
「高度成長という背伸びした日本」
に対してだった。



 ☆後記☆
 <全共闘>とはなんだったのか。最後の機会は、私の出身・宇都宮大学を中心に、つまり、私の頭も肉体も通過した姿を通して考えてみたいと思います。「全共闘のやり方に、一般学生はついていけなかった」だと? 聞いたふうなことを言うな、という内容になります。
 ☆☆
「佃製作所」に入社しました!って。こんな「企業Tシャツ」があるんですねえ。『しまむら』です。

 ☆☆
いい陽気に誘われて、流山→三郷までバイクを転がしました。

1968年(上) 実戦教師塾通信六百二十号

2018-10-05 11:25:13 | 戦後/昭和
 1968年(上)
     ~本田宗一郎~


 ☆初めに☆
1968年から50年の年です。この年/時期を、私たちの世代は特別な思いで記憶しています。その記憶のいくつかを、50年後の節目に振り返ってみたいと思います。ひとつは、<全共闘>という時間/空間、もうひとつは「本田宗一郎」です。
今回はこの本田宗一郎を、次の機会には全共闘を書きたいと思います。

 1 前座/スーパーカブ
 実は、この1968年から十年逆上って1958年、ホンダから50㏄の小さなバイクが発売される。スーパーカブである。ニュースや新聞でご記憶かも知れないが、このスーパーカブの売り上げが昨年秋、累計(るいけい)一億台を突破した。世界で一番売れたバイクだ。

当時のカブの広告である。神宮と思える銀杏(いちょう)並木で、お父さんがカブを転がしている。ヘルメットを着用(1975年に義務化される)しないお父さんのむき出しの頭である。
 それ以外に私たちの眼を引きつけるのは、お父さんが和服であること、下駄履きのままであること、そして犬と結ばれているロープを、お父さんの左手が握っていることである。日本は当時まだ、和服や下駄が生活の一部だった。そして自転車と違い、左手と左足でシフトするバイクでの片手運転は無理だった。カブは、当時の人々の生活と融合(ゆうごう)すべく生まれ、見事に実現した。「ソバも元気だ、おっかさん」なる広告も、山のように積んだソバのせいろを、肩へかついでカブにまたがる若者の姿だった。
 そしてカブは、頑丈(がんじょう)で壊れなかった。これが大事だ。

その後この「リトルホンダ」は、リッター(1000㏄クラス)バイクのアメリカに上陸し、ホンダ世界戦略の一翼をになう。
デカイのじゃなくて
ちっちゃいのがいいんだ………
飛ばすぜ、いいかい (『リトルホンダ』ビーチボーイズ)


 2 CB750
 世界制覇(せいは)をになう、ホンダのもう一つの戦略は、世界の頂点に君臨する「性能」だった。ホンダは1959年マン島TTレースに初出場、1963年までには、世界GPロードレースの125㏄/250㏄/350㏄クラスでメーカーチャンピオンを獲得する。その時の250㏄マシンRC161である。四本のマフラーに注目して欲しい。

 宗一郎はサーキット上のマシンを、当初から「走る実験室」と位置づけていた。大型バイクの開発チームは、ホンダのレーサーを市販化するプロジェクトに立ち上げたのだった。
 スーパーカブから十年後の1968年とは、四気筒のエンジンを持つCB750の誕生である。市販は翌年の1969年だが、プロトタイプの発表は前年だった。
 ここからは、私のコレクションを使った報告としましょう。

もうよだれが出そうに忠実な再現がされたミニチュアは、マルサントーイズ製で、栃木はツィンリンクもてぎの「ホンダコレクションホール」で購入したものである。この写真より実物のミニカーの方がリアルです。少しばかり蘊蓄(うんちく)を。
 後ろのサスペンションは、金属製のバネを使ってます。ゴムのじゃばらで覆(おお)われたフロントのサスペンションも、ちゃんと動く!

 3 時計のように精密な
「日本製で走るのかい?」
ホンダがマン島TTレースに初出場した時、記者たちに言われた。しかしその後、このマシンの活躍と姿を見せつけられたヨーロッパの報道各社は、
「まるでスイスの職人が作り上げた、時計のような精密さ」
と、驚き称賛したのだった。

先に見たレーサーの四本を思い出そう。美しい形状のマフラーが、このCB750にも居並んでいる。

エンジンが四つのシリンダーから成る四気筒のエンジンを積んだバイク、それは市販車としては初めてだった。つまり簡単な話、それまではレーサーにしか使用していなかったエンジンである。
 世界の主流だった二気筒エンジンに対抗するホンダが、どうして四気筒だったのか。ホントは難しい話なのだが、はしょって言えば、二回の爆発では一回転のエンジンが、四回の爆発では二回転となる。ホンダのレーサーRC161は、他のマシンが一分間で6000~7000回転する間に、14000回転という驚きの数字を叩き出してしまう。もちろん、それでエンジンの構造は複雑になるし、その分壊れやすくもなる。耐久性が問われた。しかしそれは、レースによって見事に証明された。
 もうひとつ、二輪において世界では初めてのメカである。前輪にディスクブレーキを装着した。これで制動の力と安定が抜群となった。

出来上がったCBを見た宗一郎は、
「こんなデカイのに、誰が乗るんだ?」
「売れねえなあ、これ」
と言ったそうだ。
 しかし、宗一郎の予想は外れ、CB750は爆発的売れ行きを見せ、国内に大型バイクブームを引き起こした。

「このCB750は、日本の道路ではトップギアに入りません」
が、宣伝コピーだったのである。



 ☆後記☆
久々にWIU(WebIntelligenceUniversity)で録画しました。今回と同じテーマですが、違った展開です。書き切れなかった宗一郎の名言にも触れます。
配信されたら連絡するので、ぜひどうぞ。
 ☆☆
台風に耐え、我が家の金木犀(きんもくせい)は秋の香りを送ってくれてます。ありがたい。

日大闘争 実戦教師塾通信六百二号

2018-06-01 11:38:06 | 戦後/昭和
 日大闘争
     ~一縷(いちる)の望み~


 1 絶望に抗して
 日大監督たちの厚かましく醜(みにく)い姿の一方、ひとり決断し登壇したフットボール選手の姿が、私たちの胸を打ちました。しかし、ようやく顔を出した学長が言ったことは「混乱への謝罪」であって、監督指導への明言ではなかった。
 方(かた)や森友問題は、廃棄(はいき)したはずの分厚い文書が出て来るという新展開を見せた。
 首相の「謝罪」は、文書改竄(かいざん)の時と同じ、
「行政全体の信頼を揺るがしかねない原因を作った」
だった。改竄と廃棄で有利を得るご本人が、何を言ってるのだろう。問題は野党が言うような、
「公文書管理が問われている」
ではないし、
「財務相が辞職すればいい」
のでもない。もう国会は品性まで問われ、ポテンシャルの劣化(れっか)は無残なほどだ。一連の事態に対し、
「対応が後手後手(ごてごて)に回っている」
なる、どっちつかずの批判?が飛び交っている。しかし、
「何としても認めたくない」
からこうなる、というのが本当のところだ。加計学園のここ数日の常軌(じょうき)を逸(いっ)した動きは、まさに、
「ウソは重ねるしかなくなる」
ことを絵に描いたように示している。
 そんな中での日大選手の会見だった。やり切れない出来事の連続に、うんざりしていた私たちだ。
「あきらめちゃいけない」
彼が必死で、私たちに言っているように見えました。

 2 50年前
 今回の事件は、日大で歴史的な闘争があってから、ちょうど50年である。
 この日大闘争を振り返ることは、意味のあることと思われる。森友問題と今回の事件をからめると、ちっとも変わっていない日本(日大も)の姿が見えてくる。
 1968年、日大で34億円の使途不明金が発覚する。事件の発端(ほったん)は、裏口入学斡旋(あっせん)による5000万円の着服。その後、芋づる式に大学の使途不明金が明らかになる。これを国税局が発表したのは1968年の5月5日。今回のフットボール事件の発生は、5月6日だ。もう偶然とは思えない。
国税局は、この金が大学理事たちに流れた「ヤミ給与」だったことを二カ月後に発表。その頃、大学の会計・経理担当が自殺をしていた。
 「ポン大」とバカにされていた日大生が立ち上がる。その時、学内で集会の自由はなく、学生大会の代議員さえ大学が指名するという中、学生たちの抗議や異議の声がかき消された。学生は校舎を封鎖して、当局の誠意ある対応を迫(せま)った。

学ランの学生がいます。でも、右翼学生ではありません。全国どこの大学でも始まりはこんな風だった。間もなく、みかけは過激なものをまとうようになるのですが、私たちのやった闘争は、どう考えても「民主化闘争」でした。軽はずみに「革命」を口にしたこともありました。でも、やったことは、学費値上げ反対、教授の横暴(今で言う「パワハラ」)告発、そして日大のような、使途不明金の解明等々、というものでした。
 各学部で、この問題を解明する「共闘委員会」が発足(ほっそく)。この学部の連合体が「全学共闘会議=全共闘」となったのです。

日大が特徴的だったのは、学生たちが占拠(せんきょ)した校舎を襲ったのが体育会系、そして応援団の学生だったこと。彼らが使ったのは消火器や塩酸、上からスチールのロッカーや砲丸を落とすという、凄惨(せいさん)なものだった。それに対し共闘系の学生が、ヘルメットと角材で「武装」する。
 両者がぶつかったところへ警察がやって来る。共闘系の学生は拍手で迎(むか)えたそうです。ところが、警察が検挙したのは体育会系・応援団ではなかった。
「東大の学生なんて、みんな坊ちゃんです」
「日大の学生には頭が下がります」
当時を振り返り、東大の助手共闘だった藤原信先生がこう言っていた。多くの東大全共闘のメンバーもそう言った。
 そして、あの9月30日(1968年)を迎える。再三無視を決め込んでいた古田会頭が、大衆団交の場所「日大講堂(旧国技館)」に、ついに姿を見せる。

似ているが、これは内田監督ではない。当時、日大の代表をつとめていた古田重二良会頭である。会頭とは「理事会のトップ」を意味する。


講堂に結集した日大生は、一万とも三万とも言われる。その場で、古田は「退陣」の約束をする。しかし、辞職はついに実現しなかった。
 翌日(よくじつ)の10月1日、
「政府の介入すべき時が来た」
と、大衆団交での確認書無効が表明されたからだ。記者会見でそれを言ったのは、当時の内閣総理大臣・佐藤栄作だった。再び、体育会系と機動隊による学生の弾圧が始まった。

 50年後の今、すでにあちこちから日大闘争に関する本が出版されている。今回のフットボール事件も含め、この時の全共闘議長である秋田明大からコメントが出るのを待ちたい。



 ☆後記☆
読者には、当時の書籍、『叛逆のバリケード』(三一書房)をお薦(すす)めします。特に、9月30日の大衆団交場面の記録は圧巻です。学生たちが声を枯らし、必死に訴(うった)えぶつかる姿は、無責任な評論を粉々にする迫力があるのです。

当時を振り返り、言うに事欠いて、
「当時の全共闘には、学生がついていけなかった」
「何も意味ない『ごっこ』をしていただけだ」
などと評論家どもがのたまっています。学生だったこいつらは、当時、
「言ってることは正しいが『方法』が間違ってる」
なんぞと言ってたのは間違いない。ではどんな『方法』があったのかを指し示すこともなく、この連中は見ていただけです。
「力のあるものは平気でウソをつく」
「力のあるものは本当のことを言わない」
ことを、確かに「民主化闘争」だったけれど、全共闘運動は示しました。それは大変な思いをして示したと思っています。
 ☆ ☆
先日、「与党」の議員さんと話す機会がありました。国会運営に不満があるというのです。たとえば、佐川の、
「刑事訴追(そつい)の恐れがありますので」
という逃げ口上(こうじょう)に対し、野党側は沈黙した。でも、
「あなたは自分の仕事への自信がないのですか」
ぐらい言えないのか、と怒るのでした。
今回の一連の出来事で一番怖いのは、力を持つ側が、
「ウソは突き通せる」
自信を持ってしまい、非力な側は、
「何をしても無駄」
という虚脱感を抱いてしまうことだと、私には思えます。
日大の宮川選手の決断を、私たちは大切にしないといけません。
 ☆ ☆
29日の新聞(千葉版)で、千葉県の読者は「館山いじめ事件」が大詰めに来ていることを知ったと思います。ぜひ、今一度の注目をお願いしたいです。

遠藤賢司の彼方に(下)  実戦教師塾通信五百七十三号

2017-11-10 11:22:23 | 戦後/昭和
 遠藤賢司の彼方に(下)
     ~なんでも呑(の)み込んだ東京~


 ☆初めに☆
遠藤賢司の時代で、思い出すことがあります。名車ホンダスポーツS800は、1970年まで生産されていたんです。

左上に見えるS800は私の愛車チョロQ
70馬力をはじき出したS800。この頃の国産最上級車、トヨペットクラウンは、2000㏄で105馬力なんです。このS800、中古車市場で現在の相場は、なんと500万円なり!
 ☆ ☆
この間も言われました。
「その頃の日本は、景気がよかったんでしょう?」
そして、私が東京と神奈川、千葉と、それぞれ3回ずつ、合計9回も教員採用試験を受けたことを羨(うらや)むように言うのです(もちろん、現在はどんなことをしようが「1回」です)。
その通りです。でも、すべては東京(首都圏)にありました。そこから外側は良かったのでしょうか。ちなみに教員の採用は、栃木/茨城など関東圏でも、試験前から合格するやつは決まってたようなもんです。狭き門でした。
東京だけが、すべてにおいでおいでをしていたのです。

 1 タイガース
 前回の「フォークリポート」インタビューで、遠藤賢司は当時人気のタイガースが好きだった、と語っている。そして、
遠藤 シローが好きなんだ。あれが一番好き。… 略 …あの子が入ってから楽しくなったよ。

不鮮明ですが、シローが入る前のタイガース。中央がジュリーこと沢田研二。
と続けた。シローは岸辺シローのこと。岸辺一徳はシローのお兄さん。
 これも三週前の『ドクター』なのだが、バンドのベースを軽んじる米倉と内田に対して、岸辺一徳がひどく不機嫌になるシーンがあった。あれはシローへの愛情だったのかなどと考えた。
 1971年に解散したタイガースのさよならコンサートが武道館であった1月24日、実は築地の本願寺で三島由紀夫の葬儀があった。三島はこれから逆上ること二カ月前、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で演説し、そこで割腹(かっぷく)自殺をしている。まったく異なったふたつの出来事は、ある時代の終焉(しゅうえん)を意味していた。
 三島は「ソ連(現ロシア)が攻めてくる」と本気で思っていた。私たちは「革命が起こる」と、気持ち3割ぐらい思っていた。駐屯地のバルコニーから「命懸け」で自衛隊員に訴えた三島の声は、隊員のヤジで消された。三島も私たちも間違っている、と自衛隊員が教えていたような気がする。
 さて、歌の方だ。

 2 自由=孤独
 タイガースたち、グループサウンズ流行を引き継ぐように、1969年まで、私たちは集会/デモで、当時「フォークの神様」と呼ばれていた、岡林信康の『友よ』を歌った。
友よ 夜明け前の 闇の中で
友よ 戦いの炎を燃やせ
しかし70年以降、岡林は歌われなくなった。岡林は、私に言わせれば「ひきこもっ」た。
 変わってフォークの壇上に登ったのが、いわゆる「四畳半フォーク」と呼ばれるジャンルだ。そこには、吉田拓郎/あがた森魚/三上寛、そして遠藤賢司たちがいた。そこには「我々の歌」ではない「自分の歌」があった。広島を自ら「飛び出し」た拓郎は、自分への投げやりと後悔を歌い、大ブレイクした。
「家を捨てたんじゃなかったのか」
「誰か線香花火をください」
「暑中見舞いが返ってきたのは秋だった」
「昔はあんなに賑(にぎ)わったのに」等々
多くは自分(たち)の未熟/未練を歌った拓郎の歌を、四畳半で、でも私たちはそれを「みんなで」歌った。
 青森を「飛び出し」たと本人は言うが、私には「追い出され」たようにしか思えない三上寛は、ふるさとを歌い続けた。
ふるさとへ帰ったら誰か迎えにくるだろか
ふるさとへ帰ったら誰か泊めてくれるかな
かわいい妹や弟を捨てて逃げてきた
いまごろさがしているだろないまごろ泣いているだろな
いまごろ祈っているだろな
おふくろ俺がまちがっているのか
           (「ふるさとへ帰ったら」)
街へ出ると くやしくなるから
星を見ると 涙が出るから
人間だらけの東京に
うらみの花を 咲かせよう
そして走ろう 地獄の果てまで   (小便だらけの湖)
三上寛の歌ではないが、もうひとつ。あの紫綬褒章は松本隆の曲。
そばかすお嬢さん ふるさとなまりが
それから君を 無口にしたね
          (太田裕美『赤いハイヒール』)
東京と「ふるさと」はこの時期、決定的な距離を作りつつあった。
 そして遠藤賢司は、仲間やふるさと家族やという、そんなものから一切縁のない場所にいるように見えた。
 遠藤賢司のコンサートは、全編「チューニング」で終わってしまったこともあった。私たちが遠藤賢司を歌うときは、部屋でひとり、多くても二人だった。

知ってるよどこへ行ったって
同じだってゆうんだろう
でも家へ帰れば猫とあのこが
にこにこ笑って迎えてくれるよ
早く帰ろう       (「早く帰ろう」)
「自由」であるということは「孤独」であるということだ。遠藤賢司は自由だった。そして孤独だった。
 まとめよう。「ももひき」をご存じだろうか。今で言うスパッツのだぶだぶバージョンだが、これが昔は「裕福」の物差しだった。それがあるかどうか、そして生地(きじ)の素材で「裕福」が測られた。寒さをしのぐに不可欠なアイテムだったのだ。しかし、この頃を境にももひきは激減した。アンノン族の数年前に、男専科のVAN/JUNはスタートしていた。温かさより「スタイリッシュ」な時代に入ったのだ。
 冷えたビールやコーラを売る自販機は、70年になってようやく誕生する。コンビニのない時代、小売店は夜の8時には閉まった。私たちは部屋に戻っても、冷たいものを飲めなかった。今年こそ、夏までに冷蔵庫を買おうというささやかな願いを、私たちは持っていた。

 どっちがいい、というのではないのだ。何かを得れば何かを喪(うし)なう。もといた場所がどんな場所だったのか、それを記憶に刻(きざ)む必要と責任が、私たちにはあるのだ。


 ☆後記☆
三島が自殺した時のエピソードです。その時私は柏にいました。大学の彼女にフラれて宇都宮を離れ、一カ月ほどバイトしてたんです。長崎屋の配送です。社員の運転手さんからお昼をさそわれて、ラーメンをごちそうになりました。店に入ったら、テレビで三島が演説してたのです。もちろん途中までしか見れませんでした。
今はこのラーメン屋つぶれて、田舎風フレンチとかいう気取った店になっちまいました。
 ☆ ☆
ダイワハウスの竹野内豊のCM、昔の友人が自分ちに見学で訪ねてくるやつです。バックに流れてる少し分かりづらい曲、『朝日のあたる家』なんですよ。いいですねえ。

      ススキがなびく手賀沼沿いの道です。