遠藤賢司の彼方に(上)
~売(れ)ることを拒み続けた「エンターテイナー」~
☆初めに☆
遠藤賢司が亡くなった。
秋の受勲が発表されました。その中の紫綬褒章、松本隆ですが、大昔、大滝詠一などと「はっぴいえんど」で活動していました。その頃の同期が、遠藤賢司です。
1 知る人ぞ知る
「エンケン」と言えば、きょうび『ドクターX』など、ドラマで活躍する遠藤憲一だ。しかし知る人ぞ知る「エンケン」となれば、遠藤賢司しかいない。この人は同世代の私たちからしても、そして最も旬(しゅん)だった時でも知る人ぞ知る存在だった。それほどこの人は「我が道を行って」いた。

驚いた。亡くなったこともそうだが、報道されたことも驚きだった。この人は「メジャー」な世界を、ずっと疎(うと)んで来た。しかし、決して多くはないファンが、熱狂的に周囲を固めていた。それが今でも「伝説」として残るゆえんなのだろう。漫画のつげ義春のような存在、と言っておこう。

つげ義春『ねじ式』より
2 『20世紀少年』
追悼(ついとう)する面々を見て、この感覚は間違ってなかったと思った。浦沢直樹も遠藤賢司のファンだったことを初めて知った。

浦沢直樹『20世紀少年』の主人公「ケンヂ」は、なんと遠藤賢司の名前を借りたという! ギター一本で世界の平和を守るという「ケンヂ」は、遠藤賢司だった。そして映画版の最終章には、遠藤賢司本人が出ていたとは! 漫画の方は全巻読んだが、これでは映画の方も見ないといかん。
茨城県出身だったのか。新聞で初めて知った。というのも、雑誌の特集インタビューのイントロに、次のようなくだりがあったからだ。
私の仕事部屋の本棚の、一番上から引っ張りだした雑誌からの引用である。ほとんど捨てたこの雑誌、四冊残した。そのうちの一冊が遠藤賢司特集を組んでいる。
この特集に、当時23歳だった遠藤賢司がたくさん詰まっている。私たちが生きた時代と、その中で生きた遠藤賢司が詰まっていた。

瑛太ばりの甘いマスクでした
3 二人の暮らし
この時代がどんな時代だったのか、遠藤賢司の背中で、あるものは輝き、あるものは暗い影を落としていた。この雑誌が出ていた頃は万博開催、ホコ天(歩行者天国)が開始。また、セゾンが誕生、アンノン族の排出。ファミレス&マックの誕生。スーパーのダイエーが、三越の売り上げを追い越すという時代だ。町と家族が解体し、街とファミリーが幕開けする。
そしてこれが大事だ。実はその一方で、地方から東京に若者を運ぶ、集団就職列車が続いていたことだ。これは1954年に始まり、その後20年間、なんと1975年まで続いていた。地方から追い出された若者とともに、都会は異様/無様に膨(ふく)らみ、地方は卑屈なまでに小さくなっていった。茨城出身の遠藤賢司は、出生を明かさなかった。あの頃、東京、いや、日本は一体どこに向かっていたのだろう。
何かを背負いつつ、遠藤賢司はそれを拒み続けたと私は思っている。
この歌の意味するところは、
☆後記☆
また凄惨(せいさん)な事件が起きました。なんか言うことないのかという声をたくさんいただきますが、困ってます。
初めに思い起こしたのが、松本清張の『点と線』の刑事の言葉。
「こんな寂しい場所で心中しようなんて思うんでしょうか」
なんです。心中だったらそうだと思います。
でも、ことは自殺です。自殺するのに相手が必要だというケースがあとを絶ちません。この人たちはまだ希望を捨てていない人たちだ、と思えて仕方がありません。
☆ ☆
大相撲始まりますね。二週前だったかの『ドクターX』
「『意地』と『覚悟』は違うんだよ」
分かってんのかっていう大門未知子のセリフ、覚えてますか。拝聴(はいちょう)しないといけませんね。このドラマのつくりに感心しちゃいます。
いろんなところで乱発する「意地」です。今年最後の九州場所、大相撲のレポートで、この「意地」とやら一体何度聞かせるつもり?って、大門さん言ってくれませんか。
それにしても、米倉良子、おいしいところ持ってっちゃいますねえ。
~売(れ)ることを拒み続けた「エンターテイナー」~
☆初めに☆
遠藤賢司が亡くなった。
秋の受勲が発表されました。その中の紫綬褒章、松本隆ですが、大昔、大滝詠一などと「はっぴいえんど」で活動していました。その頃の同期が、遠藤賢司です。
1 知る人ぞ知る
「エンケン」と言えば、きょうび『ドクターX』など、ドラマで活躍する遠藤憲一だ。しかし知る人ぞ知る「エンケン」となれば、遠藤賢司しかいない。この人は同世代の私たちからしても、そして最も旬(しゅん)だった時でも知る人ぞ知る存在だった。それほどこの人は「我が道を行って」いた。

驚いた。亡くなったこともそうだが、報道されたことも驚きだった。この人は「メジャー」な世界を、ずっと疎(うと)んで来た。しかし、決して多くはないファンが、熱狂的に周囲を固めていた。それが今でも「伝説」として残るゆえんなのだろう。漫画のつげ義春のような存在、と言っておこう。

つげ義春『ねじ式』より
2 『20世紀少年』
追悼(ついとう)する面々を見て、この感覚は間違ってなかったと思った。浦沢直樹も遠藤賢司のファンだったことを初めて知った。

浦沢直樹『20世紀少年』の主人公「ケンヂ」は、なんと遠藤賢司の名前を借りたという! ギター一本で世界の平和を守るという「ケンヂ」は、遠藤賢司だった。そして映画版の最終章には、遠藤賢司本人が出ていたとは! 漫画の方は全巻読んだが、これでは映画の方も見ないといかん。
茨城県出身だったのか。新聞で初めて知った。というのも、雑誌の特集インタビューのイントロに、次のようなくだりがあったからだ。
早川(早川義夫) ところで、生まれなんか、そういうの聞きたいんですよ。はじめは。
遠藤 生まれはやめようよ。
早川 あまりしゃべりたくない?
遠藤 うん。
早川 東京じゃないんでしょ?
遠藤 うん東京じゃない。
(季刊フォークリポート 1971年春号)
口数こそ多くないが、かたくなな遠藤賢司が見える。遠藤 生まれはやめようよ。
早川 あまりしゃべりたくない?
遠藤 うん。
早川 東京じゃないんでしょ?
遠藤 うん東京じゃない。
(季刊フォークリポート 1971年春号)
私の仕事部屋の本棚の、一番上から引っ張りだした雑誌からの引用である。ほとんど捨てたこの雑誌、四冊残した。そのうちの一冊が遠藤賢司特集を組んでいる。
この特集に、当時23歳だった遠藤賢司がたくさん詰まっている。私たちが生きた時代と、その中で生きた遠藤賢司が詰まっていた。

瑛太ばりの甘いマスクでした
3 二人の暮らし
この時代がどんな時代だったのか、遠藤賢司の背中で、あるものは輝き、あるものは暗い影を落としていた。この雑誌が出ていた頃は万博開催、ホコ天(歩行者天国)が開始。また、セゾンが誕生、アンノン族の排出。ファミレス&マックの誕生。スーパーのダイエーが、三越の売り上げを追い越すという時代だ。町と家族が解体し、街とファミリーが幕開けする。
そしてこれが大事だ。実はその一方で、地方から東京に若者を運ぶ、集団就職列車が続いていたことだ。これは1954年に始まり、その後20年間、なんと1975年まで続いていた。地方から追い出された若者とともに、都会は異様/無様に膨(ふく)らみ、地方は卑屈なまでに小さくなっていった。茨城出身の遠藤賢司は、出生を明かさなかった。あの頃、東京、いや、日本は一体どこに向かっていたのだろう。
何かを背負いつつ、遠藤賢司はそれを拒み続けたと私は思っている。
外は暑いのに
ふたりこうしてよりそって
防虫網の窓から見える
空には白いせんたく物が
ゆらりゆらり
君の胸に顔をうずめて
僕はいつも甘えてる (遠藤賢司「外は暑いのに」)
ふたりこうしてよりそって
防虫網の窓から見える
空には白いせんたく物が
ゆらりゆらり
君の胸に顔をうずめて
僕はいつも甘えてる (遠藤賢司「外は暑いのに」)

東京の狭いアパートで暮らす二人。共同の洗濯機とトイレを使う生活に、エアコンなんて贅沢(ぜいたく)なものはない。まだ「網戸」という呼び名を持たない「防虫網の窓」で、二人は夏の暑さをしのいでいる。
といったところだろう。そして、この二人の生活感の欠如こそ、遠藤賢治が背負っていた場所だ。☆後記☆
また凄惨(せいさん)な事件が起きました。なんか言うことないのかという声をたくさんいただきますが、困ってます。
初めに思い起こしたのが、松本清張の『点と線』の刑事の言葉。
「こんな寂しい場所で心中しようなんて思うんでしょうか」
なんです。心中だったらそうだと思います。
でも、ことは自殺です。自殺するのに相手が必要だというケースがあとを絶ちません。この人たちはまだ希望を捨てていない人たちだ、と思えて仕方がありません。
☆ ☆
大相撲始まりますね。二週前だったかの『ドクターX』
「『意地』と『覚悟』は違うんだよ」
分かってんのかっていう大門未知子のセリフ、覚えてますか。拝聴(はいちょう)しないといけませんね。このドラマのつくりに感心しちゃいます。
いろんなところで乱発する「意地」です。今年最後の九州場所、大相撲のレポートで、この「意地」とやら一体何度聞かせるつもり?って、大門さん言ってくれませんか。
それにしても、米倉良子、おいしいところ持ってっちゃいますねえ。