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実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

遠藤賢司の彼方に(上)  実戦教師塾通信五百七十二号

2017-11-03 11:53:51 | 戦後/昭和
 遠藤賢司の彼方に(上)
     ~売(れ)ることを拒み続けた「エンターテイナー」~


 ☆初めに☆
遠藤賢司が亡くなった。
秋の受勲が発表されました。その中の紫綬褒章、松本隆ですが、大昔、大滝詠一などと「はっぴいえんど」で活動していました。その頃の同期が、遠藤賢司です。

 1 知る人ぞ知る
 「エンケン」と言えば、きょうび『ドクター』など、ドラマで活躍する遠藤憲一だ。しかし知る人ぞ知る「エンケン」となれば、遠藤賢司しかいない。この人は同世代の私たちからしても、そして最も旬(しゅん)だった時でも知る人ぞ知る存在だった。それほどこの人は「我が道を行って」いた。

驚いた。亡くなったこともそうだが、報道されたことも驚きだった。この人は「メジャー」な世界を、ずっと疎(うと)んで来た。しかし、決して多くはないファンが、熱狂的に周囲を固めていた。それが今でも「伝説」として残るゆえんなのだろう。漫画のつげ義春のような存在、と言っておこう。

       つげ義春『ねじ式』より

 2 『20世紀少年』
 追悼(ついとう)する面々を見て、この感覚は間違ってなかったと思った。浦沢直樹も遠藤賢司のファンだったことを初めて知った。

浦沢直樹『20世紀少年』の主人公「ケンヂ」は、なんと遠藤賢司の名前を借りたという! ギター一本で世界の平和を守るという「ケンヂ」は、遠藤賢司だった。そして映画版の最終章には、遠藤賢司本人が出ていたとは! 漫画の方は全巻読んだが、これでは映画の方も見ないといかん。
 茨城県出身だったのか。新聞で初めて知った。というのも、雑誌の特集インタビューのイントロに、次のようなくだりがあったからだ。
早川(早川義夫) ところで、生まれなんか、そういうの聞きたいんですよ。はじめは。
遠藤 生まれはやめようよ。
早川 あまりしゃべりたくない?
遠藤 うん。
早川 東京じゃないんでしょ?
遠藤 うん東京じゃない。
        (季刊フォークリポート 1971年春号)
口数こそ多くないが、かたくなな遠藤賢司が見える。
 私の仕事部屋の本棚の、一番上から引っ張りだした雑誌からの引用である。ほとんど捨てたこの雑誌、四冊残した。そのうちの一冊が遠藤賢司特集を組んでいる。
 この特集に、当時23歳だった遠藤賢司がたくさん詰まっている。私たちが生きた時代と、その中で生きた遠藤賢司が詰まっていた。

       瑛太ばりの甘いマスクでした

 3 二人の暮らし
 この時代がどんな時代だったのか、遠藤賢司の背中で、あるものは輝き、あるものは暗い影を落としていた。この雑誌が出ていた頃は万博開催、ホコ天(歩行者天国)が開始。また、セゾンが誕生、アンノン族の排出。ファミレス&マックの誕生。スーパーのダイエーが、三越の売り上げを追い越すという時代だ。町と家族が解体し、街とファミリーが幕開けする。
 そしてこれが大事だ。実はその一方で、地方から東京に若者を運ぶ、集団就職列車が続いていたことだ。これは1954年に始まり、その後20年間、なんと1975年まで続いていた。地方から追い出された若者とともに、都会は異様/無様に膨(ふく)らみ、地方は卑屈なまでに小さくなっていった。茨城出身の遠藤賢司は、出生を明かさなかった。あの頃、東京、いや、日本は一体どこに向かっていたのだろう。
 何かを背負いつつ、遠藤賢司はそれを拒み続けたと私は思っている。
外は暑いのに
ふたりこうしてよりそって
防虫網の窓から見える
空には白いせんたく物が
ゆらりゆらり
君の胸に顔をうずめて
僕はいつも甘えてる   (遠藤賢司「外は暑いのに」)
この歌の意味するところは、
東京の狭いアパートで暮らす二人。共同の洗濯機とトイレを使う生活に、エアコンなんて贅沢(ぜいたく)なものはない。まだ「網戸」という呼び名を持たない「防虫網の窓」で、二人は夏の暑さをしのいでいる。
といったところだろう。そして、この二人の生活感の欠如こそ、遠藤賢治が背負っていた場所だ。


 ☆後記☆
また凄惨(せいさん)な事件が起きました。なんか言うことないのかという声をたくさんいただきますが、困ってます。
初めに思い起こしたのが、松本清張の『点と線』の刑事の言葉。
「こんな寂しい場所で心中しようなんて思うんでしょうか」
なんです。心中だったらそうだと思います。
でも、ことは自殺です。自殺するのに相手が必要だというケースがあとを絶ちません。この人たちはまだ希望を捨てていない人たちだ、と思えて仕方がありません。
 ☆ ☆
大相撲始まりますね。二週前だったかの『ドクター
「『意地』と『覚悟』は違うんだよ」
分かってんのかっていう大門未知子のセリフ、覚えてますか。拝聴(はいちょう)しないといけませんね。このドラマのつくりに感心しちゃいます。
いろんなところで乱発する「意地」です。今年最後の九州場所、大相撲のレポートで、この「意地」とやら一体何度聞かせるつもり?って、大門さん言ってくれませんか。
それにしても、米倉良子、おいしいところ持ってっちゃいますねえ。

続・民主革命  実戦教師塾通信五百五十九号

2017-08-04 11:26:58 | 戦後/昭和
 続・民主革命
     ~(続)父と母の歩んだ道~
      (後)「朝鮮戦争」


 ☆初めに☆
「戦後の克服」なる言葉で、太平洋戦争の実像を変え、平和憲法を「押しつけられた」としているのが、いまの首相です。このように、歴史上都合の悪いことを回避し、都合のいい部分を拡大する傾向を「歴史修正主義」と呼びます。実は、この傾向は保守派に留まりません。「日本共産党」のことを語らないといけない。
 ☆ ☆
このブログの読者には「どうしてそんなことをそんなに」という違和感があるかも知れません。でも私には看過(かんか)できない出来事なのです。

 1 朝鮮戦争
 第二次大戦後、朝鮮半島は北側がソ連(現ロシア)、南側をアメリカが占領。常に小競り合いを欠かさなかったこの「国境」を、大きく変えたのは北朝鮮だった。地図で国境の変化を見てみよう(高校の参考書です)。

上段左側の地図が示す通り、1950年8月は、釜山を残して北朝鮮が韓国を追い詰めている。これに対し「国連軍」が派遣され、国境を北上。すると、北朝鮮の援軍が登場する。それは前年に建国を承認された、中華人民共和国だった。
 1953年まで続く、この国境線の攻防が朝鮮戦争である。結局この戦争は「終戦」にいたらず、結ばれたのが「休戦」協定だったことは、このところ毎日のように流れているニュースで、私たちは知っているわけである。
 この戦争で、日本が特需景気に沸(わ)いたのは周知であるが、あまり知られていないことがある。この戦争に日本の軍人(退役軍人ということになる)が参戦している。死者もだしている。
「戦後、日本はどこにも参戦せず、誰も殺さず殺されてもいない」
というのは違っているようだ。

 2 平和革命から武装闘争へ
 日本共産党が占領軍を「解放軍」として歓迎した。その後、米大統領トルーマンは、日本を「共産主義の防壁」と位置づける。日本の民主化は、道半ばということになる。ここまでは前回に書いた。
 同じ時期、日本共産党は、世界の共産主義運動(「第三インターナショナル」のこと)から批判を浴びる。
「占領軍を解放軍とは一体何を考えとるんだ。正気の沙汰ではない」
ぐらい言われる。
 おさらいしよう。
①ソ連や中国を倒す上で、アメリカの優先するものは、帝国日本を打
倒=民主化することではなくなった。
②日本共産党は、ソ連を筆頭とした共産勢力から批判を浴びた。
 以上の理由で、共産党はコロリと変わる。平和革命をしまい込んで、いわゆる「50年(1950年)綱領」を提示。「武闘路線」が復活する。1952年に連続した、皇居前でのメーデー事件/大阪の吹田事件/名古屋の大須事件、そして、北海道の白鳥事件がそうだ。
 この1950年と1952年を結ぶものに、読者はお気づきだろうか。「武闘」はもちろん共産党の正式決定だが、この時、
「北朝鮮の戦いを支援しなさい」
という指示が、世界の共産勢力から日本共産党に出されたのだ。
 ソ連が日本共産党に調達したのはお金、そして武器と言っても拳銃/小銃である。しかし前回書いたように、日本はこの時、軍隊はもちろん、公安警察も解体されていた。朝鮮戦争が始まって、ようやく自衛隊の前身「警察予備隊」が発足する。そんな背景ゆえに、幼稚な武装でもなんとかなると思ったのかもしれない。
 信じられないことだが、これらは共産党史に残されていない。
「一部の左翼冒険主義者が過(あやま)ちを犯した」
と、たった一行記されているだけだ。文書は残っていても、外に出さない。そして、外に出ている著名な文書でも、復活しないよう力がかかっていることに、私は怒りを禁じ得ない。これはもう、立派な歴史修正主義だ。
 今の共産党が、北朝鮮を支持しているわけではないし、もちろん武闘を訴えているわけではない。しかし、歴史を清算することで未来のあるはずがないのだ。
 どうしてそんなにオマエは向きになるのだと言われても、私は引き下がらない。これは私の父の、いや、我が家の歴史だからだ。そんな我が家の歴史を、讃(たた)えようとも思うし非難しようとも思う。しかし、こういう体たらくでは、志半ばで亡くなった父も浮かばれまいという、そちらの気持ちがふつふつと沸き起こる。

 3 父の当選
 学生時代、私はこの「武闘」時代のことを、母に何度か確認した。何度聞いても、
 「違うわよ。武装を言ったのは一部の人じゃない。党の正式決定よ」
と、母は言うのだった。そして、
「もうあんなことは沢山よ。共産党が武装闘争路線をやめると言ったとき(1955年)は、どんなに安心したことか」
と続けるのだった。
 トラクターと軽機関銃を作っていた会社を、父は1948年にやめている。というより、この年、会社は解散となった。その前年、父は入党している。意外に遅かったようだ。
 そしてその後、驚くことがある。父は1951年、茨城県竜ヶ崎町の議員に立候補、当選している。しかし、まさにこの時、共産党は武装闘争路線の真っ只中にあったのだ。

これは、町会議員の当落を伝える当時の選挙公報。居並ぶ「無(無所属)」や「自(自民党)」のなかに、たったひとり「共(共産党)」の字。父の名前の上に置いたのは、この時の議員バッジ。私は今でも肌身離さず持っている。
 一体、どのような時代だったのだろう。そして、父と母はどのように生きたのだろう。私には、ようやく見えてきている気がする。


 ☆後記☆
今回の記事、生々しいというか、生臭いとさえ思った読者もいるかな。そしてずいぶん、しり切れとんぼになってしまいました。でも、終戦の日や2,26やらと、こうして両親を思い起こし、資料をあさっています。きっと喜んでくれているんではないか、と思っています。
また次の機会に続きを書きます。父の若かりし頃の「中国紀行」、書きたいと思っています。どうぞごひいきのほど、よろしくお願いします。

 ☆ ☆
明日は、手賀沼花火大会です。天気もなんとか持ちそうで、夜空の華を見上げてきます。次回のブログで、素敵なショットが紹介できると思います。

民主革命  実戦教師塾通信五百五十七号

2017-07-21 11:22:43 | 戦後/昭和
 民主革命
~(続)父と母の歩んだ道~
   「占領軍の転向」(前)


 ☆初めに☆
先週の金曜、7月14日は母の命日でした。母は鰻が好きでした。でも一体、生涯のうち何度口にしたのでしょうか。鰻を前にすると必ず、
「鰻は美味しいね」
しみじみと言う母でした。先週のこの日、鰻重を仏壇に供えました。
 ☆ ☆
翌日、仲間たちと語り合う機会がありました。その中の40代の仲間なのですが、今どきアナクロと思われかねない「革命(する)」と口にします。私は皮肉っぽく、
「それって民主化のことじゃないの?」
と言います。私もかつて、うかつに「革命」なる言葉を駆使しました。しかし私たちの大学闘争は、過激な行動を伴ってはいたけれど、中身はどう見ても「民主化」でした。それで良かったのですが。
 ☆ ☆
私たちが学生だった時代と、父や母の時代は交わっていました。
「革命は起きません」
泣いて私を諭(さと)した母は、結局父が残した古い文献/冊子を私に託しました。
そんなことを思い出しながら私は、この40代の仲間にも、「革命」をつなげて欲しい気持ちが抑えられませんでした。


    父の「闘争日誌」にはさんである2,26事件の号外です。


 1 「解放軍」
 1945年、占領軍総司令部(GHQ)が帝国日本に出した指令は、大きく言って次のようなものだった。

◇政治犯釈放
◇特高警察廃止
◇財閥解体
◇治安警察法廃止
◇労働組合法公布
◇選挙法改正(婦人参政権を含む)

翌年は、以下のように続く。
◇軍国主義者・戦争犯罪者の公職追放、ファッショ団体の解散
◇天皇、現神人を否定

これらの事態を前に、目が眩(くら)まない方が難しかったのだろうか。自由となった共産党員を中心にして、
「占領軍は占領軍にあらず。日本を解放する軍なり」
という主張が広まる。日本共産党は、かつての武装闘争路線を放棄し、「平和革命」を訴える。総司令部の方針が、
「帝国日本を完膚(かんぷ)無きまでたたきつぶす」
ためのものだったことを見落とすのだ。
 しかし、「治安警察法廃止」は、「治安維持法廃止」ではなかった。また、岩崎・安田・三井などの財閥は、焼け野原となった東京銀座の復活のため、帝国大学とともに第一線に立つ。ついでに言えば、和光・松阪屋・伊東屋など、一部の大型建築はなぜか東京大空襲を免(まぬが)れている。そしてこれらは米軍に接収された。

 2 「占領軍の転向」
 1947年の3月に、いわゆる「(共産主義)封じ込め政策」のトルーマンドクトリンが発表される。しかし、日本ではすでに、年明けとともに「民主」には影がさしていた。
 日本はその頃、自由が自分たちのものになると信じていた。占領政策のもたらしたものだ。年明けの皇居前、吉田(茂)内閣打倒の国民決起大会には、30万人が結集した。国民は、一気に「民主」へと進もうとしていた。そして、全国の全産業がストップする「2,1ゼネスト」が準備される。
 占領軍は、自分たちが「解放軍」である空気を壊さぬよう組合を説得するが、徐々に高圧的になっていく。
「正しくとも、間違っていてもゼネストは禁じられている」
「理解してもらいたいことは、これが労働者を保護するためであるということだ」
「我々は個々のストライキは今まで弾圧してないが、ゼネストには同意できない」
そしてスト前日、共闘議長の井伊弥四郎が、単身、放送局に連行される。「断腸の思い」で、
「一歩退却二歩前進、労働者農民万歳!」
井伊は「スト中止」を宣言する。

「日本は共産主義進出阻止の防壁」
と、マッカーサーが声明を出すのは、その二年後である。

 父は徴兵されなかった。太宰のように徴兵検査を合格できなかったからではない。終戦まで会社にいた。大学在学中、治安維持法に触れて拷問を受けた人物だったからなのだろうか。
 父が英語を話せたから、
「会社に重宝されたのだろう」
とは、母が言っていたことだ(アメリカが、オイルの対日輸出禁止に踏み切るのは1941年。当時の日本とアメリカは独特な関係だった)。一体どっちだったのだろうか。


 ☆後記☆
居酒屋での「革命談義」でした。さて、この居酒屋は素材にこだわるお店なのです。いつの間に野菜オンリー路線になってて、この日驚きました。新鮮な野菜の色や味、そして調理のバラエティに、みんな驚き感心でした。でも、最後に所望した「水が有料!」に、たまらずキャンセル。残念です。

 ☆ ☆
白鵬いいですね。負けてもいいものはいい。いっときやっていた筋トレ、もうやめた様子。つらい「土俵の外」での基本稽古に戻ったのです。
「筋トレでは筋肉が太くなってしまう」
「それでは体が固くなり、ケガをする」
前からそう言っていました。
勝手なことを言っている親方衆、白鵬が「誰も経験したことのない場所」にいることを忘れてはいけません。

        いぇーい、夏休み!

怒髪(補)  実戦教師塾通信五百五十三号

2017-06-23 11:27:26 | 戦後/昭和
 怒髪(補)
    ~「凶暴VS暴力」~

   
 ☆☆

前回の記事に、多くの賛否をいただいてます。記事を続ける必要を感じました。
確かに「何をしても許される」者たちの振る舞いは、過去になかったわけではない。また、過去と今とでは大きく異なった状況もあります。次のような反応のごとく。
「すべては仕組まれている。逆らう無駄をする必要がない」
不満に向き合うのでなく、不満に向き合う者への露悪という屈折は、周囲へ「同調」して来たものたちが、培(つちか)った考えだと思われます。だから同調できるものにしか興味を示さない。ネット社会は、それに追い風を吹かせました。
今国会は、まさしくそんな危機的状況に便乗した流れだったと思えて仕方がありません。参考人招致が必要ない理由は、
「必要ないからです」
という凶暴(「共謀」ではなく)。また、国会閉会後の記者会見、
「批判の応酬ばかりで国民に迷惑をかけた」
とは、議論を封じて来た「総理」の発言です。これを「謝罪」とニュースした新聞屋には、もう最後通告を突きつけましょう。
新たな文科省の文書にも「いいがかり」だと言う。森友の時の、
「総理に無礼を働くとは度し難い!」
なる発言とともに実現した証人喚問を忘れはしまい。官邸自身が、今度こそ名誉棄損の告発をしてもいいのです。「告発」は「攻め」、しかし、「知らぬ」では「逃げ」だということぐらい周知のことです。

 ☆☆
でも、この間の出来事が省庁間の争いなのか、現場から吹き出した怒りによるのか、判断には少し時間が必要なようですね。
何度でも確認しましょう。私たち市井(しせい)の人間にとって、規制を緩和したい政府があり、政府代表の「親友」の運営する大学が選ばれたという事実だけで、もう「いかがわしさ」は充分なのです。いい加減にしろ!とはそういうことです。
今回は、そういう「現状のレポート」はしません。今回のジャンルが示す通り、ここでは「戦後・昭和」の検証をしたいと思います。「こんな勝手な振る舞いなんて、ずっとやられてきたことさ」と分かった風な顔をしたくないのです。

64東京五輪の「妖精」そしてチェコ侵入抗議の象徴チャスラフスカ

 1 日大闘争
「何十丁のライフルと爆弾で戦争が起きると思うナンセンス」
と書いたのは、赤坂真理である。連合赤軍のことを言ってる。その通りだ。しかし、対局にあった私たちの「暴力」は、おそらく現在もあんまり理解されていない。「暴力」を、私たちは「戦争の準備」とは思っていなかった。

34億円の使途不明金が発覚、その後、会計主任が自殺ということが引き金になった日大闘争は、1968年に起きる。追求しようとした学生を、塩酸や消火器で迎え撃ち、ロッカーを上から落としたのは、大学当局から潤沢な活動資金をもらっていた体育会系の学生だった。これに怒った学生が「武装」する。理由は「自衛」のため。そして当局に、
「本当のことを言わせる」
ためだった。学生のことなど、
「問答無用」
「相手にする必要なし」
日大当局の態度は、当時の全国大学の姿だった。私たちも、結局「武装」することになった。
「聞いてねえぞ」
「ホントのことを言えよ」
は、いま現在も大切な態度だ。

 2 ベトナム戦争
 何度か話題にした。時は同じく1968年、新宿での出来事は、ベトナム戦争抜きになかったことだ。連日ベトナムにもたらされる悲惨が、沖縄を発着するB52爆撃機でなく、もっと身近な場所にあることを、私たちはある日知ることになる。

新宿駅構内を、米軍のジェット燃料(通称「米タン」)が毎日運ばれていた。




新宿闘争のあと、たった三日間だったが、この米タンが止まった。この事実に対し、信じられないことだが、当時の南ベトナム解放戦線(現在のベトナム政府の前身だ)から、連帯と感謝の表明がある。
 当時、自衛隊から「反戦兵士」の名乗りをあげた小西誠三曹が、集会で私たちの「徴兵制への危惧」に、
「その心配はないと思います。それは今、革命に武器を渡すようなものだからです」
と答えたのを覚えている。確かにあの頃を思い起こすと、なるほどと思える。ゲバ棒と火炎瓶なんて、自衛隊の装備からすればオモチャみたいなものだ。
 先日、南スーダンから戻ってきた、自衛隊の部隊を見て思った。60年代後半の運動がなかったら、自衛隊は戦時下のベトナムに派兵されていた。
 私たちの小さな声は、決して無駄にならない。

 3 「暴力」
 表現行為は「暴力」にほかならない。
 小説が出される。評価もされれば、反論もされる。すべては「暴力」で、避けられない。このことに何らかの公的な規制がされる、つまり、
「暴力はやめなさいという『暴力』」
が行使されることに、表現者たちは危機を覚えている。「表現の自由」とは、そういうことだ。
 日大闘争に対して、学生たちの暴力を排する、と叫んだ大学当局。あるいは新宿闘争に対して、暴力行為を許さないと、政府/警察とともに弾劾(だんがい)した日本共産党。しかし、暴力の対局には、やはり暴力があることを、これらの主義主張は回避したのだ。

 今年の4月に、オヤと思う事件があった。
「放射能検査」で女児の家に上がり込み、わいせつ行為を働いた男が、埼玉県警に逮捕される。男は「漫画を参考にした」と自供。県警はその後、このマンガ(『漫画アクション』らしい)の作者に申し入れをする。「自粛しなさい」という感じだったか。

 さて、この場合の「暴力」は四つある。
◇漫画を描くという行為
◇想像世界を現実にした行為
◇警察が「漫画」へ介入
そして、警察が介入しなかった四番目の「暴力」がある。
◇放射能のばらまき行為
である。警察は、
「もっとも許せないのは……」
というところを回避したのだ。当然なのだが。


 ☆☆
思い出します。1968年の10月21日、私は新宿に行かなかった。たまたまです。この日も電車の中には、いつも一緒にデモするヘルメット姿の仲間たちがいました。でも、あの日は新宿から四つほど離れた駅の予備校に行ったのです。帰りの電車は大幅に遅れました。でも私は、そのまま帰宅しました。帰宅するや、母が、
「新宿が大変なのよ」
と言ったのを覚えています。

 ☆☆
都議選、いよいよ告示ですねえ。小池知事にオーラのごとく発していた「覚悟」と「潔さ」が、霞んで見えるのが残念です。選挙民は正直です。勝利はするのでしょう、でも、結果はきちんと示されるのでしょうね。

    手賀沼です。もう少しで蓮もつぼみを出すでしょう

共謀罪(下)  実戦教師塾通信五百五十号

2017-06-02 11:22:15 | 戦後/昭和
 共謀罪(下)
     ~「いざとなったら誰にでも使える」~


 ☆
政府はオウム事件を取り上げていたんですね。ずいぶんと野党の対  応が遅れたということなのでしょう。野党側に忘れて欲しくないの  は「テロへの恐怖を煽るな」ではダメだ、ということです。
  「煽るな」のついでに言いますが、総理安倍の平和憲法への言及に  対し、「北朝鮮のミサイルを利用した煽り」などという追求、まっ  たくの片手落ち、野党の無能を露呈してます。
  北朝鮮、そしてトランプも、日本は「自衛」について考えないとい  けないと促しているように、私には思えてしまいます。

 1 監視はゆるいのか
「テロリストは野放しになってる」
「現状のままでいいのか」
来たよ、という感じの前回「共謀罪(上)」へのもの申しである。野放しになどなってない。だから中核派の活動家も、動けないままに捕まる。彼らのような非合法を核心とするレベルへの取り締まりは、とてつもなく厳しい。野放しなんかじゃないぞ。
(1)尾行 肩を並べて歩くこと
(2)盗聴 話す電話口(携帯も固定もだ)に耳をつけること
(3)張り込み 部屋に一緒に寝ること
もうこうなると、公安警察も同居人である。これらの非合法活動家のもとに、トイレットペーパーに字があぶり出しで文書が届くという。読んだらトイレやお風呂に流す。緊急時は食べてしまうんだとか。
 そんな中での取り締まりが、人権侵害だと問題になることはなかったと思える。多分は、すでに存在する「爆発物等取締罰則」が対応していて、そこでは笑い事ではないようなことが起こっている。どんな状況の中でどんな非合法活動をどう継続していたのか、私は知らないし知りたいとも思わない。ただ、闇の中でこんなことがずっと今も繰り返されている。前回同様言うが、私はテロに絶対反対である。しかし、ここで考えないといけない。
「『共謀罪』がないと、防げない犯罪とはなにか」
本当はオウムも摘発できた。私はそう書いた。私たちは「共謀罪」を何も分かっていない。
 あとで繰り返すが、
「いざとなったら誰にでも使える」
今回の「共謀罪」においても、おそらくそこが大切で、問題なのだ。

 2 「共謀罪」のすそ野
「悪いことをしていない人間は『共謀罪』と関係がない」
「悪いことをしていないなら、堂々とすればいい」
こんな考えが、共謀罪を承認している。こういう連中は、世の中や身の回りに不満を持ったことがない。あるいは不満を持ったところで、それを胸にしまい込む。そして、そのことを「大人の自覚」などと言ったりする。疑問や不満を行動に移すと「不安」が発生することを、こういう連中は知らない。

たとえばデモをする。写真はシールズのデモだ。年配の方たちが多いが、ご存じの通りシールズは、若者のデモである。彼らの胸中にどんな思いが去来すると思う?
「お母さんが心配するかも知れない」
「テレビに映ったら、彼氏がなんて言うかな」
そして実際、家やデート先でケンカになる。堂々と出来ない理由は様々だ。すると、
「家族やパートナーを説得も出来ないのか」
などと無責任な追い打ちがかかる。話し合っている人もいれば、「揉(も)め事」を避けたい人もいる。それらをこの連中は分かってない。しょうもない放言が、ネットやツイートで拡散する。そして「噂」という力を持つ。なんだったらそれを、出所不明な「怪文書」と言い換えてもいい。そして私たちは、これらを「相手にする必要なし」と言えるほど余裕がない。私たちは非力だからこそ、デモに訴える。「相手にしなければ、そのうち消えるさ」というアドバンテージを、私たちは持っていないのだ。
 表に出た人々を「堂々と」非難する連中が「匿名」であること、そして「周囲に同調する」ことを本懐としてきた若者の多くが、この流れにいる。本当はこれらが「共謀罪」の広いすそ野を作っている。

 3 「破防法」
「堂々とすればいい」
で思い出します。私たち、いや我々と言った方がいいかな。我々の時代にもこの言葉が結構流通した。覆面とヘルメットのことだ。

 60年代後半~70年代前半の私たちは、別件逮捕と任意同行が日常茶飯だった。「火炎瓶立法」は72年施行だが、「破防法(破壊活動防止法)」施行は1952年。終戦直後の共産党武装闘争路線への対策である。60年代後半、この「破防法」がちらつき出した。国会でだったか、
「タオルと棒を持ったもの4、5人で逮捕」
なんていうのが議論される。私たちは、
「じゃ、草野球の帰りに銭湯へ寄ったら逮捕かよ」
みたいに笑ったものだが、実際それで逮捕された例もあった。
「いざとなったら誰にでも使える」
それが肝心なことだった。


 ☆☆
本当は、京大全共闘のドキュメント『パルチザン前史』まで言及したかったのですが、無理でした。この映画、ダイレクトメール便のカタログに載ってて、びっくりして買っちゃいました。これ、売れたんじゃないかなあ。またそのうち機会を見つけて書こうと思います。


 ☆☆
あと書かないといけないのは、茨城県取手の事件ですね。一昨日、NHKニュースウォッチ9のトップニュースでした。ご両親の、
「謝って来いと言われて出向いたのか」
と、顔で語っている姿が、切なかった。

 ☆☆
そんな話のあとに恐縮ですが、インディレースの最高峰インディ500で、佐藤琢磨優勝しました。嬉しいです。多分、琢磨を書くのは二度目かと。お父さん、喜んでいることでしょう。

     今年も手賀沼に蓮の季節がやって来ました

 ☆☆
明日は五十路になった教え子たちのクラス会です。さて、屋代課長は来るのかな。