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実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

上野/浅草 実戦教師塾通信六百八十五号

2020-01-03 12:02:35 | 戦後/昭和
 上野/浅草
  ~「見てはいけません」~



 ☆初めに☆
新年号ですが、いつも通りに年を逆上り大晦日に関する記事となります。そしてこれも恒例ですが、上野/浅草界隈(かいわい)のレポートとなります。

 ☆アメ横☆
大晦日のアメ横は早めに閉まる。逆に言うとその頃は、いつもの安値にさらなる拍車がかかり、中トロのさくが1000円などという状態だ。その熱気と乗りは尋常ではない。

一緒に歩いていた若い仲間が、どうしてアメ横というのか、と尋ねて来る。進駐軍の品物を横流しする戦後の闇市として、とりわけ多くの中国からの引揚者(ひきあげしゃ)や朝鮮の人たちのてこ入れがあって賑(にぎ)わったアメ横(アメや砂糖の説もある)。こんなことも知らずにいるのかと驚くと同時に、今はトルコや中東の人たちが仕切る店も目立つようになったこのエリアの、相変わらずと言えるいかがわしい相貌(そうぼう)に、私は考えてしまった。
アメ横入口にあったレストランが改装されて再開した。名前は知らないが、昔からの「聚落台(じゅらくだい)」なのだろうか。

  終戦から15年後に開店し、2008年に閉店した「聚落台」。
今のそれはきらびやかに変身したものの、私には影のようにあちこちにうごめく人たちの姿がはっきり見える。

 ☆傷痍(しょうい)軍人☆
東京は昔、遠い場所だった。茨城の片田舎から、今なら一時間もあれば着くことが出来る上野は、当時は着くまでに優に二時間を越えた。列車の蒸気機関車は颯爽(さっそう)と煙を吐き、ゆっくりと進んだ。そして発車の本数も頼りなく、私たちはホームで長い時間を過ごしたのだ。
上野に到着すると、そこには汽車に代わりチョコレート色の機関車が、モーターの音を響かせている。それは東京という「体験」だった。
幼年時、一年に一度も行かなかった東京だが、そこで必ず恐ろしいものを見た。電車の中に、白い布をまとった人たちがやって来るのだ。みんな身体のどこかが無かった。ある人はアコーディオンを弾き、片手のない人はハーモニカを吹き、両足の無い人は、床は手を頼りに「慰問(いもん)箱」を抱えていた。お揃いの軍帽を被り、全員サングラスをしていた。ある人は無くなった片手の代わりに、フック船長のようなカギ状の金属をつけているのも恐怖をあおった。しかし、目が離せなかった。気がつくと、私の顔は母の懐(ふところ)の中だった。「見てはいけません」。
上野駅を降りても同じだった。西郷さんの銅像に上がる階段で、同じ出で立ちの人たちが、やはりひざまずき軍歌を歌っていた。一体あの人たちは何をしたのだろう、そして何をしているのだろう、私はきっとそう思っていた。そしてそこに戦争の姿を見ていた。
「見てはいけません」と母が言ったわけではない。しかし、どうすることも出来ないことをどうにかしろと言われても困ります、そういう母の気持ちがはっきり聞こえた気がする。この始末はまだついていない。戦争とはそういう始末のつかないものだ。

 ☆上野駅☆
この戦争の影のあとにやって来たのが「集団就職」だ。高度成長が陰りを帯びる1975年まで、集団就職列車は東北や北陸から「金の卵」を運んだ。15歳の子どもたちが数々の手作り荷物を持って、ホームで泣く家族をあとにした。
時代は違うが、啄木が「ふるさとの訛(なま)り」を聞きたくて、本郷のアパートから向かったのも上野駅である。
上野駅広小路口に、流行歌『ああ上野駅』の歌碑が建っている。たまにだが、私より少し年かさのいった人たちが、碑のそばで談笑しているのを見る。
そんなこんなの上野界隈なのだ。うごめいている、あるいはじっとたたずむおびただしい影があるのは当たり前だ。若い人たちは池袋も上野もそんなに変わらないというのだが………私は上野の影とまた一度向き合う。

 ☆浅草☆
さて、浅草です。少し時間が遅めだったせいか、雷門前は若干(じゃっかん)人出が少なめだったかな。

これも変わらず、仲見世で揚げ饅頭と甘酒を買って味わいます。


もちろん、尾張屋の行列につきます。

注文にもたもたしていても、この店は「ゆっくりでいいんですよ」と、言ってくれます。こんなに混雑してるのに。

そして、そばみそを頼もうとすると、「いやそれは『八海山』についてますから大丈夫です」と。この店はやっぱり気分がいい。

いい気分、ほろ酔い気分で店を出ます。
来年がいい年でありますように。



 ☆後記☆
新しい年となりました。今年も頑張ります。どうぞ、このブログを今年もよろしくお願いします。
 ☆ ☆
正月のテレビってどっしようもないんですが、BS1の「ホンダはどうしてF1に勝利できたか」(だったかな)は、感動しました。新入り社員の時にセナと一緒に戦った人たちが、今トップで指揮してるんですねえ。ブラジルへの思いがひと通りではないのがまた良かった。
今年はやってほしい。F1中継!

令和の即位 実戦教師塾通信六百七十八号

2019-11-15 11:36:16 | 戦後/昭和
 令和の即位
   ~「天皇」を改めて考える~



 ☆初めに☆
思いがけず、天皇即位記念のペナントをもらってしまいました。

9日の皇居でのイベント、奉祝神輿(ほうしゅくみこし)の中心となった若大将が、記念品だよと私にくれたのです。
 ☆ ☆
ウチのオヤジが天皇を尊敬する意味が分かってきたよと言う若大将、この猛者(もさ)は中3の時、柏で「ニセモノ」までが徘徊(はいかい)したという人物です。

若い時、薄っぺらな天皇制に対する私の考えを叩きのめしてくれたのは、吉本隆明です。この30年、天皇をめぐってどんなことがあったのか整理しようと思いました。


 1 ひめゆりの塔
 天皇と聞けば「戦争責任」の議論を始めたがる人がまだ多い。そこで沖縄のことから始める。日本の歴代首相は、沖縄をめぐって多くの過(あやま)ちを犯した。「(米軍基地は)最低でも県外」と放言した首相もいた。
 戦後、沖縄は本土から切り離され占領状態だった。本土から切り離された「屈辱」の4月28日に、2013年は万歳三唱をした首相もいた。多くの首相が沖縄を裏切る。同時に天皇も、ひと通りではない立場にあった。 
 太平洋戦争末期、連合軍の沖縄上陸作戦にともない、12万人の人々が亡くなった。住民の半分は、事前に疎開(そかい)したのだが、その時も内地に向かう1500人の学童を乗せた船が、アメリカの潜水艦に沈められた。「(天皇は)どうして早く戦争の終結をしてくれなかったのか」という声は、広島/長崎ばかりでなく沖縄のものでもあった。戦後、天皇が沖縄を訪問することは一大事だった。
 昭和天皇が沖縄を訪問することはなかった。当時、天皇の沖縄訪問に現地では根強い反対があった。1975年、ひめゆりの塔を初めて慰問に訪れた皇太子(現上皇)夫妻がガマ(戦時の防空壕)の前に立った時、中から火炎ビンが投げられ炸裂するという信じがたいことが起こった。ニュースはこの瞬間の映像を流さなかったが、これを実行した「沖縄解放同盟」が撮った写真は皇太子が驚く姿をとらえ、大型書店や大学でしか入手出来ないような党派の新聞のトップを飾った。
 興味深いのはこのあとの出来事だ。皇太子から「警備関係者への処罰を行わないよう」依頼があったという事実については確認しようがないが、警備責任者の警備課長(あの佐々淳行である)は辞表を提出したものの受け取りを拒否される。また、警備の「削減」をさせた一方で、現地での事前確認を「許可しなかった」沖縄県知事(屋良朝苗)は、公的に問責されることもなかった。「寛大な」処置だったのである。
 その後、周辺からの慰問中止の声を退(しりぞ)けた皇太子は、天皇となったあとも沖縄に通い続けた。

 明仁天皇(現上皇)にまだ驚いたことがある。「バンザイクリフ」やベトナム慰問もそうだが、すでに以前ここで取り上げたことだ。東日本大震災の時、避難所の被災者を前に天皇がひざまづいたことである。私は驚愕(きょうがく)のあまり、テレビに釘付けとなった。しかしこの出来事は、阪神淡路大震災の時もあったようだ。1995年のこの時、周辺の官僚/文化人の慌て方は大変で、文芸評論家の江藤淳は「みっともない」と苦り切ったという。
 この時の記憶は、2011年には薄らいでいたのだろう。ひざまづく天皇の姿を前に、閣僚たちは、たたずむばかりだった。
 「釘付けとなった」私もそうだが、これらには賛否も含め様々な議論を呼び、放って置かれることはない。天皇がそれだけ私たちの心身に深く根付いているのだと思える。

 2 「五穀豊穣(ごこくほうじょう)」
 私たちはみんな、小さい頃お神輿をかつぎ祭囃子(まつりばやし)に興じた。そして今も「五穀豊穣」という看板を例外なく掲げた神社の境内(けいだい)で、金魚すくいをし初詣(はつもうで)をする。「記憶/歴史の引き継ぎ」とでもたとえられるこれらの出来事を、私たちはときおり「夢」と呼んでいる。それを「悪夢」と言う人もいるのだろう、それでもそれを「夢」であったことまでは否定できまい。

 皇居界隈(かいわい)を練り歩く奉祝神輿。

稲作をめぐる祀(まつ)りごととは、水や天候をめぐることであり、五穀豊穣を願うしきたりのことだ。今も農家には「天照大神」の掛け軸がある。稲は、植え付けから収穫にいたる生産活動を「いただきます」の消費まで導き、私たちの生業(なりわい)と習慣に及んでいる。これが天皇(制)の根幹である。この稲作という根幹ゆえに、歴代天皇は興隆(こうりゅう)ばかりでなく、たとえば「公地公民制」以降の低迷もあった。どちらにせよ、稲作という文化を天皇は引き受けて来た。税金を使っても園遊会は批判されないが桜を見る会は批判される、その所以(ゆえん)だと言ってもいい。
 私が言うことはいつも同じだ。天皇制が消滅する時とは、稲作文化が消滅する時だ。



 ☆後記☆
さて、これでまた右や左のダンナ様方から、私はお叱りを受けるのでしょう。天皇陛下万歳、とは言いません。でも、届いた写真を追加します。満天の青空の下で、人々の気持ちがこんなにもたかまっています。




 ☆ ☆
昨日、千葉県柏の中学校でのいじめ事件が、ニュースに舞い降りました。事件直後の当ブログ(435号)が改めて読まれているなぁと思っていたら、問い合わせも多くあったのです。その後と言えば、あの時書いた通りの展開になりました。
今はあまり語れませんが、たくさんの方は「どうして今(裁判に)?」という疑問を持ったことでしょう。次第に明らかになることですが、いま言えることは「被害生徒の保護者は悩み、熟慮を重ねた」ということです。

表現の自由 実戦教師塾通信六百六十四号

2019-08-09 11:39:24 | 戦後/昭和
 表現の自由
     ~ヘイトで大きくずれ出した~


 ☆初めに☆
「愛知トリエンナーレ2019」が大変なことになってしまいました。最初に火をつけたのはどうも某小説家で、そのあとに名古屋市長が引き継いだらしい。「日本人の心を踏みにじる」という批判は、市長の立場を鮮明にしたということでしょう。
イベントの監督津田大介のネット社会への視点を、私は以前から積極的に見ていました。今回の事態に対する津田氏自身のコメント「劇薬だった」に、正直なものを感じた次第です。
 ☆☆
今回は「愛知……」に触れますが、「表現の自由」を考える内容です。でもこの理念を、私は余り積極的に採用する気になれない、という内容です。

 1 「表現の自由」ではなく
 極めて危ない状況にある。おそらくは展示会そのものの意義や正当性は飛び越えて、事態は進んだ。分かりやすく言うと、抗議の基調は「オマエは反日か否か」という査問だった。議論の不要な状況が露出している。これが「平和」というカテゴリーにも及ぼうとしている現状ではないか。たとえば、先だっての長崎!佐世保市教委が「原爆写真展」に対して、「政治的中立性を保てない」と。このイチャモンはなんだ?
 「表現の不自由」展示は様々なもので構成されていたはずだが、映像でたびたび出る「慰安婦少女像」で考える。
 私たちの記憶にしっかり刻まれた、吉田清二という「文筆家」がいる。吉田が出版や講演で「暴露(ばくろ)」した慰安婦問題は、日韓史に大きく影を落とした。吉田は労務報国会動員部長として、済州島で205人の婦女子を慰安婦として強制連行したと証言。これらは、多くが「創作」だった。次々と暴かれる経歴や事実の前に、吉田本人も創作を交えたものであることを認める。吉田証言に一大キャンペーンを張ってきた朝日新聞の購読者は激減。社長は記者会見で謝罪する。
 この事態の最大の功罪は「慰安婦問題はなかった」とする仮説を導き出し、世論を構成したことだ。そんなはずはない。議論された項目をいくつか上げてみよう。 
①慰安婦として志願したのは、売春婦である。
②慰安婦は、民間業者が斡旋(あっせん)した。
③女性の募集にあたって、業者は軍や憲兵と連絡を取り合った。
④自分の意思に反して「動員」された女子もいた。
すべて本当だ。「規律の厳しかった日本の軍隊に、そんなことは許されなかった」とは、冒頭で「愛知トリエンナーレ」を叩いた某小説家の言ったことだ。中には優しかった上官や、節度を持った部隊もあったようだ。しかし、大体は「上官の命令は天皇の命令」が相場で、みんな横暴だったという証言だらけだ。そのせいか「(学歴関係なしでいい)希望は戦争」なんていう若者が、少し前に注目を浴びた。
 まじめな研究者の地道な仕事は、当時の警察の公文書の中に、
・「軍の名をかたり……女性を海外に売り飛ばそう」としている業者の取り締まり
・警察の慰安婦斡旋取り締まりを知った内務省が、慰安婦を……容認するよう通達
等の文書を見つけている。
 さて以上のことを踏まえても、今回の「愛知トリエンナーレ」に関して、やはり積極的評価を下せない。「慰安婦問題」を「表現の(不)自由」で取り組もうというのは無理がある。まだ終わっていない歴史的議論を避けては通れないからだ。
 詭弁(きべん)を弄(ろう)して広まったのが「ヘイト運動」だったことを思い出す。

 2 「ワイセツの何が悪い!」
 歴史上様々な「検閲(けんえつ)」、あるいは「発禁(発行禁止)」があった。非合法活動はもとより、芸術活動もだ。表現の自由を語る上でおあつらえ向きと言えるのは、「猥褻(わいせつ)」論争だ。

「猥褻」で発禁となった本を私が持ってることを思い出した。あちこちシミが出てしまっているが、これはナニか深い理由があるからではない。もう少しで発行から50年を過ぎる雑誌なのだ。
 この「fork report うたうたうた」なる音楽雑誌。私は大学の寮にいてその難を免れたが、警察は出版社や本屋をガサ入れするばかりでなく、購入者を割り出しかなり没収したらしい。次の号はその特集だった。
 では、オールヌードの少年少女の扉が指弾の対象となったのか。違う。紙面は、当時有名を欲しいままにしていた岡林信康や高石ともや、あるいは現在も活躍中の漫画家・東海林さだおが楽譜の合間をぬって、卑猥(ひわい)な会話や漫画で満載である。例をあげれば、『悩みの相談室』コーナーには避妊や早漏(そうろう)などの相談が寄せられている。音楽と全く関係なし。そして「露出狂」に悩む若者の訴えには、
「あなたは決して異常ではなく、間違っていません。なにしろ、ストリップ劇場と言えば、踊り子は女で、見る方は男と相場が決まっていて、そのうえなによりも間違っていることは、踊り子の大部分が陰部は露出はするけれど、決して露出狂ではないということなのです。くれぐれも頑張ってください」
という、今でも十分使用に堪える回答だ。しかしすべては外れていた。短編小説が「猥褻文書」となったのである。
 長々と書いてきたが、この「ワイセツか否か」論争は果てし無かった。江戸時代にはなかったのに。70年代は、いわゆる「ヘア」論争がかしましい。下支えするように「表現の自由」の議論があった。
 この議論にさっさと終止符を打ったのは、大島渚である。大島は1960年、制作した『日本の夜と霧』が公開からわずか4日後、配給会社松竹に打ち切られる過去を持つ。その大島は「日本という文化の後進国にいたら映画は撮れない」と『愛のコリーダ』(1976年)を撮るため、パリに渡る。

ヤらしいものをヤらしく撮る。それをしたいんだ、という。「芸術活動」だ「表現の自由」だとかいうお題目を並べなかったことは、今でも潔(いさぎよ)いと思える。「ワイセツか否か」ではなかった。
  「ワイセツの何が悪い!」
日の丸が乱舞する道々、下を向いて歩く(阿倍)定の愛人、吉が切ない。日本での公開はモザイクが入っていた。それでも「本番」が繰り返される映像は、二人のピュアな心を伝えていた。



 ☆後記☆
今年も手賀沼花火大会、行って参りました。結構近くで見ましたよ。そんなわけで水上花火も見れました。

開始直後、鳥たちが驚いて鳴いて、一斉に木から飛び出すのですよ。申し訳ない。
 ☆☆
先月に引き続き、W・I・Uの収録をして来ました。今回のテーマは「学校的(不)平等」です。30分を切ります。良かったら見てください。アップされたら報告します。
暑いですね~

1968年(下) 実戦教師塾通信六百三十五号

2019-01-18 11:48:47 | 戦後/昭和
 1968年(下)
     ~`68/`69年の軌跡~


 ☆初めに☆
50年後のこの日がやって来ました。
     
あの朝、機動隊が控えた本郷の正門前で、
「東大がこんなに美しく見えたことはありません」
詰めかけた学生のひとりが言ったひと言が、鮮明に思い出されます。
 ☆☆
あの時期/時代、間違いなく現実は手応(ごた)えをもって目の前にありました。見えないとき聞こえないとき、私たちは前に出て行った。それは新たな現実を生んでいた気がします。行動をともにするか否かに関係なく、「あの場にいた」ものは誰も、「全共闘には『みんな』ついていけなかった」なるおしゃべりはしません。いや逆に、全共闘という場所を拒絶出来ないままでいたと言えるでしょう。
タイトルは「1968年」ですが、この記事の出所は1969年です。宇都宮での出来事を通して、書き記しておきます。思い出にひたろうというのではありません。現実や「手応え」とはどんなものなのか確認しておきたいのです。

 1 農学部林学会報『山びこ』
 記事を書くにあたって多く使用したのが、当時の朝日新聞に栃木の下野(しもつけ)新聞。これらは栃木県立図書館に、マイクロフィルムから印刷してもらったもの。そのせいで写真が不鮮明だ。
 そしてもうひとつは、宇都宮大学農学部の林学科で出していた年会報『山びこ』。

(左下に見える「ことより乃印」なる篆刻(てんこく)は、当時の私の手作りです。ご容赦ください)

これが表紙。文字のレタリングと写真は、某(なにがし)党派の冊子かと思われてしまいそうだが、れっきとした学科の年報で、教官たちの手による学術論文も載せられている。この時の林学科3年の誠実な先輩たちが編集して出来上がったもの。大学闘争の経過をきちんと残せたのはこれだけである。当時の宇都宮大学全共闘で、党派以外の「ノンセクト・ラジカル」層では、林学科が最も自立的だったと思っている(ベ平連も無視できない存在だった)。念のため断るが、私は教育学部。でも、この林学科の先輩たちには、とにかく語り尽くせないほどお世話になった。卒業後、先輩たちがみんな東大の大学院に行ってしまったあと、残された私は、しばらくロス状態になった。

 2 11月4日
 宇都宮大学の全共闘運動は、もともとが学生寮の新設に伴う反対闘争に退学処分、というものに端を発したものだった。同じ1969年の10月13日のレポートを、読者は覚えているだろうか。
 10月13日のショット。封鎖解除に来た教職員と相対する私たち。

 座り込みした仲間をごぼう抜きする職員。

この時封鎖解除に失敗した大学側は、綿密な計画のもとで11月を迎える。春の全学ストライキがあったため、秋の試験休みはないゾと宣言していた大学が、突然、10月31日~11月5日までの間(休日もはさんでいる)を全学休講と通告。以下は11月5日付朝日新聞の記事から。
「大学側は(前回の失敗を反省し)今回はまず裏側入口で『陽動作戦』をし、そのすきに正面入口から解除する」
計画だった。こんな内輪の事情まで書いてある。
 コスチュームはヘルメット装着を始め、バールやペンチも携えた教職員は多数を極め(新聞には100名とあったが、少なくともその倍はいた)、本部を取り囲んだ。10月13日の時との違いは、学生がいなかったことだ。あの時、封鎖解除を阻止する仲間は200名を数えた。しかしこの日、休講で連休となった学生の多くはいなかった。人々というものは、その場にいるだけで違う。10月13日の時は、無関心な学生まで、何をしているのか何が起こっているのかという眼差しを形作った。あの時学内は、現場検証の場となっていた。しかしこの日は違っていた。

     

これは新図書館の封鎖を解除しようという教職員。後ろ向きに見えるのが、林学科/ベ平連を中心とする無党派の仲間たち。みんな丸腰だ。私はここにはいなかったのだが、
「新聞社はうまく写真を撮ってくれたけど、オレたちは大波に呑まれる木の葉のようだったよ」
と、仲間が言った。多勢に無勢だったのだ。

そしてこれが本部前。新図書館の仲間を含めても、この時私たちは50名ほどしかいなかった。

 3 「そんなことは当たり前だ」
 新聞は見出しだけでも雄弁だが、
「林学科3年のA君は『われわれのクラスは今度の試験を全員が受けず、問題解決のための討論を続けてきた。また大学側にも団交を要求したが話し合いの機会さえ持たせなかった。怪我人が機動隊導入につながることを大学側は知らないのか』と解除策動に憤る」
という下野新聞の本文は、状況をしっかり伝える。「噛み合う」とはこういうことだ。
 以下は『山びこ』からの抜き書き。
「報道の目を恐れてか教職員は表立ってなぐりかかったりしなかったが、腹部、下半身に対する攻撃を加えた」
「(全共闘が封鎖した)本部の水道、電気を切ったことは、教授会が……やったのでしょうか」
「ある程度のケガ人もやむをえまい。教職員のケガ、衣服の破損はすべて大学で面倒みる」(大学の決定)
「学生が職員に袋叩きにあっているのを、『ああいうときは、ちゃんと頭をかかえるもんですなぁ』などと言って、笑って見ていた彼らは、一体なんだ」
「私たちは証拠というものは作られるものであることを学んだ。本部封鎖中、役人は土足で歩くじゅうたんの上を、共闘の諸兄ははだしで歩くほどだった。そのような……所も機動隊が土足で踏み荒らし……机、イスは窓から投げ出して破損する。………報道機関は、全共闘による……室内は荒らされていたと発表するのである」
教授や職員のひどさよりも、そして承服/納得できない怒りよりも、私は当事者同士をこんなにも「近く」で「確認」出来ることに、驚きさえ覚える。
「機動隊導入の責任をとるとかで、学長代行は辞任した。………が、驚いたことに、教授は代行をやめただけで、教養部長として………これからも宇都宮大学で教鞭(きょうべん)をとるのだそうだ。……責任をとるというから、当然彼らが宇都宮大学から去るのだ、と思っていたのは僕だけだろうか」
これも『山びこ』からの引用である。昔も今もそうなのだ、というのではない。私たちは、大学で「当たり前を通そうとした」だけだった。改めてそんなことを思わせる一文なのである。

 残された私たちが、<いま>言うことは同じだ。
 「そんなことは当たり前だ」



 ☆後記☆
稀勢の里、引退しました。このブログの熱心な読者は覚えていることと思います。稀勢の里が横綱に昇進した時、もう少し様子を見た方がいいのではないか、と私は書きました。本人の実力より、周りの「担(かつ)ぎだす」勢いが優っていたからです。この点は貴乃花が横綱になる時とは対照的でした。あの時、父親の二子山親方は、
「もっと苦しめ、それから横綱になれ」
と言っていたのです。稀勢の里の悲劇は、
「国技で日本人の横綱」
という勝手で一方的な思い入れと、それを背負いこんだ稀勢の里自身が生んだのです。
いずれにせよ、この件についてちゃんと書きたいと思っています。
 ☆☆
『ボヘミアン・ラプソディ』観てきました。内容もそうですが、確かに噂通り「コンサート会場」のような気分を味わえました。クィーンってああいうバンドだったんですねえ。

1968年(番外篇) 実戦教師塾通信六百三十号

2018-12-14 11:43:27 | 戦後/昭和
 1968年(番外篇)
     ~「フランス五月」~


 ☆初めに☆
「1968年」シリーズは、年明けに「下」を出す予定でした。でも今回、予告通り「番外篇」をお届けします。
バリケード、そして投石は50年前もありました。しかし「略奪(りゃくだつ)」という行為は、記憶にありません。歴史上「革命」と呼ばれる出来事で、略奪行為が称賛されたことはありません。それが「不当に奪われた」ものでない限り、「人のものを奪う」ことは非難されるのは当然です。
つまり逆に、人々の行為が「不当に奪われた」ものを取り返すものだったのかという検証を、私たちはやらないといけないということでもあるのです。
 ☆☆
「フランス五月」と言われるゆえんは、それがたったの一カ月の出来事だったからです。若者を中心とした反戦/改革の運動は、日本のように3~4年にわたって続いたのは、世界を見渡しても例がないといいます(ドイツのノルベルト・フライ)。
でも、1968年におけるフランスの一カ月間は、世界中がそうであったように、あらゆる可能性を秘めていました。
パリのソルボンヌ大学やシャンゼリゼ通りの落書きは、見事に詩的でラジカルだった。
        *写真の多くは『壁は語る』(1969年発行・竹内書店)によっています

 ☆デモ☆
この「五月」によって「ド・ゴールの追放」があったことは、最大の出来事と言っていい。
ナチスドイツによって占領されたフランスでの抵抗運動(レジスタンス)を、亡命先のイギリスから指示したド・ゴールは、文字通りフランス解放の英雄だった。その英雄がやり玉にあげられたのだ。


自由の敵に自由を許すな
ネクタイをつけての革命なんてくそ食らえ!



1968年に自由であること それは参加することだ


☆街頭闘争☆
そもそも学生たちの要求/目的は、こう言ってはなんだが、国を揺るがすようなものとは思えない、大学の「権威主義的構造」に対してだった。ところが大学は、いとも簡単に警官隊を導入したり大学をロックアウトしたりした。つまり「権威主義的」に対応した。この辺りは、日本とまったく事情を同じくしていた。

走れ! 同士よ 老人が君の後ろにいる


自由は与えられるのではない それは奪取(だっしゅ)されるのだ


貼り紙禁止を禁止する


 ☆占拠(せんきょ)☆
これはパリのオデオン座。政府閣僚との団交や、公開討論会もここで行われた。哲学者・ジャン・ポール・サルトルが参加したことは語り種(ぐさ)だ。そして、写真がみつからず残念だったのは、このサルトルがルノー工場のドラム缶の上に立って、労働者向けにアジテーション(演説)する姿である。「行動する哲学者」は、この時期健在だった。


想像力が権力を奪う
想像力の欠如(けつじょ) それは欠如を想像しないことだ



バリケードは通りを封鎖するが、道を拓(ひら)く


全世界の百万長者よ団結せよ 風向きが変わったぞ


何ものも求めない
何ものも要求しない
奪取するのだ
占拠するのだ



現在のパリだが、デモに対する支持率が半減した。一方で、マクロンへの要求や不満に対する支持率は、高止まりしている。これも50年前と同じ状況なのである。ド・ゴールはあの時、
「フランス万歳!」
と演説を締めくくり、大衆はそれを報道するテレビ画面に石を投げつけた。マクロンの演説は、謝罪ともとれるものだった。
今回のフランスでの出来事が、テロという絶望の行為に波及しなかったこと、そして「テロとして報道されなかったこと」を最大の思い入れを持って評したい。「これは暴力かそうでないか」という議論になる大衆運動を、私たちはずっと長い間見てなかった気がする。しかし眼前で拡がった行動に、そんな議論が白熱したのだ。



 ☆後記☆
いやあ寒い!ですね。「きっぱりと冬が来た」って高村光太郎ではないですが、そんな感じ。昨日、冬用の布団に変えました。
この時期に花を咲かせてくれるクジャクサボテンです。
子どもたちに素敵なクリスマスが来ますように。
MerryChristmas!


 ☆☆
そう言えば藤井君、最年少100勝だとか。なぜか、藤井君に元気をもらえます。素人(しろうと)でも分かる「ただ者ではない」佇(たたず)まいのせいですかね。また楽しみな来年です。おめでとう!