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実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

少年義勇軍・下 実戦教師塾通信七百五十七号

2021-05-21 11:22:59 | 戦後/昭和

少年義勇軍・下

 ~ふたりの「カンジ」~

 

 ☆初めに☆

いま、批判の矛先(ほこさき)にされているミャンマーも中国(の東北部)も、かつては日本の占領地でした。日本の劣勢、あるいは敗戦とともに、これらの国は独立しますが、日本の占領軍と戦った戦闘部隊が、今は民衆を弾圧している。歴史の不可思議と片付けるわけにはいきません。

この謎解きをする上で、満州を検証することは無駄ではないと思われます。「ふたりのカンジ」とは、満州事変の仕掛人、石原莞爾と、前回触れた少年義勇軍訓練所の所長、加藤完治です。ふたりは初め協力を誓い、のちは罵(ののし)り合うのです。

 

 1 石原莞爾の「転向」

 資本主義に対置する農本主義の「農本」とは「反資本」「反中央」「反集中」であり、当時も異常な膨張をしていた都市に対し農村を置いたものである。危うく命を落とす経験がきっかけで加藤は、人間にとって最も大切なのは「衣」「食」「住」であるということに目覚めた。それが「農本主義」のかなめだった。残念ながらこの思想に瞠目(どうもく)すべきものは何もなく、土地は気持ちを込めて掘れば肥料など必要ないなどと言う精神主義だった。日中戦争に一貫した「大和魂を備え持った突撃は、近代戦車や飛行機をもうがつ」精神主義に共通すると言ってもいい。

 併合直前の韓国にいた石原莞爾は、孫文の辛亥革命を聞き「万歳」と叫んでいる。しかし中国は、帝政の復活や軍閥の乱立等を繰り返し、孫文も日本に亡命する。そのあり様を見て石原は中国の独立を断念し、「領有(占領)」を決意する。5,15事件の後、ふたりのカンジは協議し、石原は二万町歩の土地を約束。加藤は移民加速へと動く。

国家総動員法成立後に発行された「拓け満蒙」12月号。

しかしこれに前後し、石原が変化する。諸説あっていまだに謎とされるが、石原は満州の領有はもちろんのこと拡大に反対し、日・朝・満・蒙・漢の五族協和による独立建国へと、自らも「転向」と称する路線変更を表明する。日本の役割を縮小・後退させ、新たな国は言語・思想を自由に共有するというものだった。関東軍の参事長だった東条英機と激しくぶつかる。東条が関東軍のメンバーを「共産主義に染まっている」と検挙したからだ。東条たちが悪風思想と排した魯迅やトルストイ、マルクスたちを、どうやら石原は承認していたようだ。これが満州事変の、つまり日中戦争のきっかけを作った人間のやったことなのだ。さて、東条お抱えの部下や憲兵たちが見守る中、石原は、

「農地を奪われたものが、当然だが抵抗している。彼らは『匪賊』と呼ばれている」「正当なのは我々ではなく、『匪賊』の側にある」「満州に来た日本の連中は、シナ人や満人をあごで使えると思っている」「いい暮らしが出来ると思ってやって来た奴らばかりだ」「満蒙開拓団ってのは、土地泥棒だ!」

と、あちこちの講演会でぶち上げた。

 

 2 加藤完治の「非転向」

 石原のおかげで満州に土地を用意できた加藤は、義勇軍の体操に「皇尊(すめらみこと)、弥栄(いやさか)、いーやーさーかー」という掛け声を取り入れた。「国土」という展望・思想を欠いた薄っぺらな尊王だった。

義勇軍日課表。右側が「日本体操(ヤマトバタラキ)」

ちなみに「弥栄」とは「万歳」の意味。義勇軍の後に、また前には「大陸の花嫁」「北のからゆきさん("接客婦人"のこと)」「満州国防婦人会」と、女たちが続いた。

 満州に先陣を切って出向したのは、高収入の鉄道敷設技術者や商人だった。あとから来たのが開拓移民である。高給取り邦人の生活を横目に開拓移民が不満を持ち、現地農民の生活や土地の収奪に走ったのは成り行きと言える。加藤の「思想」は、農家の貧困・土地の狭小さ、埋蔵資源のなさ、そして、それにもかかわらず増大する人口等に対処する、日本国内へのものでしかなかった。石原が「あんたは祝詞(のりと)をあげて泥棒するのか!」と罵ったのは、この加藤の、いや「農本主義」の他者を顧みない「一国性」だった。当時、満州を走る満鉄には中国の軍閥が敷いた鉄道が並行していたし、いったん線路を外れれば、そこでは現地の住民が日本人たちを憎悪のまなざしで迎えた。一時代前、与謝野晶子夫妻が奉天~哈爾濱(ハルピン)を乗り継いだ時に感じた「排日の気運と恐怖」も、芥川が中国の観光地で見た排日の落書きも事実だったのである。

 敗戦後、石原の極悪な体調を考慮した極東国際軍事裁判は、山形の酒田で異例の出張裁判となった。この時法廷までの石原を、自ら名乗り出てリヤカーで運んだのは、極真空手の大山倍達である。石原が法廷で一級戦犯を問われると、

「空襲・原爆で非戦闘員を殺害し国際法を蹂躙(じゅうりん)したトルーマンだ」

と答えている。東条英機と意見が対立したかと問われれば「東条には意見も思想もなく、意見のない者との対立はない」と断言している。

 方や、加藤である。いまだ行方知らずの義勇軍の少年たちは2万人に及ぶという。その責任を負って切腹かと思いきや、加藤は「満州の夢」を断念し、敗戦後の「日本の再生」を願い、元通り農民主義運動(具体的には農業学校)を続ける。石原とは違い、「非転向」なのである。82歳の天寿をまっとうしている。

 義勇軍資料館には「加藤完治先生」の大きな枠取り写真が掲げられていた。

 

 ☆後記☆

こども食堂「うさぎとカメ」、皆さんの喜びの声がありがたいです。

配布場所となった屋上です。奥の方に見えるのが、紙容器に入れたクリームシチュー。左側に見えませんが、いただいたカブもどっさり控えてます。

これがロールパン。揚げたての一口かつを乗せてるところ。最後は調理場面です。少しスタッフの増員をはからないと、お客さんに対応できない、みたいなうれしい悲鳴です。

 ☆☆

驚きました。そして残念です。田村正和、亡くなりました。カッコいい人って、キザが似合う人っているんだなっていう、たった一人のひとでしたね。このコーナーで、何回か書きたいです。今回はじゃあ、ちょうど30年ほど前かな、タイトルも定かではないけど「パパとなっちゃん」。小泉今日子が、娘役です。最終回が泣けました。娘の結婚相手に「キミがどれほどの男であっても、僕がキミを認めるとでも思ってるのかね」だったかいうセリフ。制作スタッフの思い入れたっぷりなセリフだったと聞いてます。

ああ、残念だ。この際、ガッキーの結婚なんかどうでもいい。


少年義勇軍・上 実戦教師塾通信七百五十六号

2021-05-14 11:43:49 | 戦後/昭和

少年義勇軍・上

 ~移民政策の破綻(はたん)~

 

 ☆初めに☆

GW水戸での別な目的は、内原にある「義勇軍資料館」に行くためでした。熱心な読者は覚えていると思います。前に訪れた時、改装中で見学出来なかった場所です。

「満洲国」は、1932年に「建国」されました。あるものは勇んで、あるものは仕方なく「満洲国」に出発しました。総数8万人と言われた少年義勇軍でした。しかし満州を統治する正規軍(関東軍)は、まず太平洋戦争に伴いインドネシア方面への「南進」政策で減少し、終戦間際に至ってはほとんどが満州から真っ先に逃亡しました。義勇軍は邦人移民とともに置き去りにされるという、あまりにひどいものでした

一体どのような記録が残されているのだろうと思って見に行けば、こんなものが公設の資料館としてまかり通っているのか、という驚きばかりが残りました。

 

 1 2,26事件の後

 1931年の満州事変をきっかけに、急速な移民計画が進められる。しかし、植民地や移民を担当する拓務省が立ち上げた移民案を、大蔵大臣・高橋是清の内閣は「投資するだけの価値があるか」と否決する。四年後、この提案が可決される。この年2,26事件が勃発し、高橋是清たちが殺されたからだ。5百万人の移民計画が実施に移る。昭和の恐慌と農村の慢性的貧困にあった当時、女子には紡績・女中・子守、そして売春婦、次男三男坊には、農業手伝い・作男など、限られた道があるだけだった。

復元された内原訓練所の「日輪兵舎」です。ここに50人ほどの少年たちが寝食をともにしました。300棟あったといいます。

そんな時、未来を約束するかのように、移民計画は現れた。国内の訓練で2か月間、現地の実習を3年修了すれば、10町歩の農地が付与される、支度の服も日用品も提供されるという、夢のような募集要項だった。国内唯一のこの訓練所が内原に出来たのだ。

少年たちに配られた品々です。支度品の一部ということです。

ここからさかのぼること30年前、持てる金をはたいて「金のなる木がある国」ブラジルへ出発した移民の事実がある。そこに待っていたのは、電機はもちろん、便所も井戸もないあばら家と重労働だった。こういう移民に伴うウソと悲惨が繰り返されようとしていた。資料館には、確かに「戦況の拡大に伴う犠牲者も多かった」とはある。

しかしなぜか、悲劇の原因は「ソ連(現ロシア)によるもの」と限定している。ソ連の一方的な中立条約破棄と、ソ連兵による在留邦人への暴力と略奪はもちろんであるが、中国国民党の残留部隊や匪賊、そして日本人から仕事や土地を奪われた現地の人々による「地面が波打って押し寄せるごとき」暴行/略奪は、資料館になかった。そして、ぬけぬけと「満州国が建国され」「義勇軍に応募したものは……国から10町歩の土地が与えられ、大農経営が許可された」と記し、悲惨な記録は抜け落ちていた。少年たちがけなげに訓練する様子と、訓練所の歌が流れているのだった。

 

 2 戦争が生んだもの

 「義勇軍」という名前自体、疑惑に満ちている。いわゆる「正規軍」という法的な根拠を持たない「義勇軍」という名称は、少年たちの「義」を感じて「勇」ある姿を表すのだ。そして「軍」という名の意味する通り、訓練は農業のみならず「武」にも及んだ。現地からの抵抗があり、自衛/自警を余儀なくされることが分かっていたのだ。そして、「義勇」の実態そのものも、実は疑わしかった。つまり、政府は全国に応募人数を「割り当て」て、役所の人間が成績優秀・健康な次男三男のいる家を個別訪問して説得に当たったのである。京都府の役人だった水上勉は、その時のことを書き留めている。

 その後、当初の17歳から19歳までだった応募資格は次第に前倒しされ、最も小さい年齢としては14歳にまでなる。応募人数が伸び悩み、減少の一途をたどったからだ。満州から届く便りにいいものがなかったのが、その理由だ。開拓を建て前としてはいたが、多くが現地の農民が耕した土地を安く買い上げたり奪ったりという、いわゆる「入植」が現実だった。現地からの激しい抵抗にあい、当然、生活も厳しかった。夢のような生活は、そこになかった。そして皮肉なことだが、日中戦争の引き金となった1937年の盧溝橋事件以降、景気は戦争特需という活況を呈し、多くの若者の雇用を国内に生み出した。義勇軍の応募は減少の一途をたどった。

 

 ☆後記☆

少年たちに精神的な影響を与え「支え」たのが、内原訓練所の責任者である加藤完治です。加藤が掲げた「農本主義」は、当時ダイナミックだった「資本主義」に対置したものです。これを実験したのが、内原訓練所と言えるのです。それがどうなったのか、次回に書きたいと思います。もちろん、そういったことにも資料館は全く言及していませんでした。

 ☆☆

ゴルゴ13のコミックが、ついに200巻を記録しました。いつもは増刊号でお茶を濁しているのですが、この区切りをおろそかにするわけにはいきません。買いました。

こども食堂「うさぎとカメ」、明日ですよ~ よろしかったら、どうぞおいで下さい!

 


冬・宇都宮 実戦教師塾通信七百三十八号

2021-01-08 11:46:01 | 戦後/昭和

冬・宇都宮

 

 

 ☆初めに☆

コロナの勢いが止まりません。前回の記事で、コロナを「いかんともし難い」と書いたことで、オマエも結局コロナを甘く見たではないかという批判をいただきました。私は変わらず、感染のグレードを下げることが無理なら、自宅療養を含めた柔軟な現場対応をするしかない、と言ってきました。念のため。

関係ないこともないゾ。来週土曜の子ども食堂「うさぎとカメ」は、予定通り実施します。今年もよろしくお願いします。お近くと言わず、皆さんよろしかったらどうぞ。

それよりコロナそっちのけのアメリカに注目しないわけには行きません。トランプが間違ってるなんていうことはどうでもいいのです。私たちが今問われていることが、最もわかりやすくシリアスに出ているのがアメリカです。なるべく早くこのことについて書きたいと思っています。

 

 1 オレたちは何をやってるんだ

 何年ぶりだろうか。宇都宮まで足を運んだ。年明け間もない二荒山神社は、例年になく人出は少ないんだと思う。でも参拝する人たちは途切れなく、鳥居口の馬場通りには屋台通りが出来ていた。

この日の最低気温は-5度だったというが、私たちが学生だった当時は-10度という日も良くあった。カップを洗面台に置いたままで歯磨きをすると凍りついて取れなかったことや、洗った髪が凍っていたことなどを思い出す。でもこの日の宇都宮は、当時の寒さを感じるには十分なものだった。

 50年前の1月4日、宇都宮大学に機動隊が導入された。この日を私たちは、ゲバ棒も火炎ビンもないという方針で迎えた。隊列を組んでの愚直な体当たりだった。封鎖した校舎のバリケードは簡単に解除され、「東鉄工業」(はっきり覚えている)の大量のクレーンやトラクターなどが、あっと言う間に校舎を解体し更地にした。半日とかからなかった気がする。雪の中でひたすら機動隊に体当たりを続ける私たちの仲間がひとり、またひとりと逮捕されていなくなる中、一体オレたちは何をやってるんだという思いがひしひしと強くなったのを覚えている。

「なにもないよ、あそこには」

それを確かめるために、私はこの日やって来た。

左側です。当時私たちが封鎖した校舎のあとには、国際学科?の校舎が建っています。

 

2 「なにもないよ、あそこには」(黒井千次『五月巡歴』)

 以前書いたが、メーデー事件は朝鮮戦争勃発後に起きている。この闘争は言うまでもなく共産党主導のものだが、この二年前に自衛隊の前身である警察予備隊が出来ている。それらに反対する労働組合や学生(大学・高校)にも大きな影響を与え、参加・共闘を促した。警官隊は実弾を使用し、デモ隊は角材や竹槍を奮った(大阪の吹田や名古屋の大須では火炎ビンが投げられたが、この闘争では使用されなかったらしい)。人々は皇居前広場を「人民広場」といい、広場は火と血で溢れる。「血のメーデー事件」と呼ばれた。小説『五月巡歴』において、メーデー事件は主人公が高校の時に起こり、彼も高校生部隊として参加している。物語はその時から20年後の1972年が舞台となっている。主人公が高校生の頃、作者の黒井は19歳である。戦後の激動を作者も生きた、ということだけははっきり言える。ちなみにこの本の発行は1977年、黒井が45歳の時のものだ。

 主人公の館野杉人は、結婚し二人の子どもをもうけている。メーデー事件からすっかり遠ざかっていた彼が、事件で被告となった仲間の網島睦夫から「二審の証人として裁判に出て欲しい」という思いがけない連絡を受ける。事件から背を向け全く違った人生を選んだと思っていた杉人は、ある種の喜びを感じながらこの連絡を聞いた。しかし、メーデー事件の被告として20年を生きた網島と、皇居前の道路を隔てた民間会社で上司や仲間とやりくりを重ねた杉人との間には、目のくらむような距離があった。その一方で、いつしか杉人には当時のこと、いや当時からあとの時間を全部手にしたいと思うような気持ちが育つ。新入社員が自分と同じ高校出身と知り、しかも彼女がメーデー事件の年に生まれたと知った杉人は、たかぶる気持ちを抑えられない。

 白いブラウスで警官隊から皇居前広場/人民広場を逃げまどった同級生との無残な再会、家族を顧みず若い女との愛欲にまみれる日々、網島の言葉はそれらを総括するかのようだ。

「僕等被告の立場から見れば、なにか(みんなの)迷い方や悩み方が文学的なんだよ」

網島の言葉はきっとその通りなのだ。しかし杉人の胸をついた。裁判から話を変えるために、杉人は久しぶりに皇居前広場に行ったことを話そうとするが、網島は畳み返すように言う。

「なにもないよ、あそこには」

 

大学正門を入ってすぐのフランス式庭園。50年前の闘争発端のひとつ、大谷石造りの旧図書館が右手奥に見える。

今はイルミネーションにかたどられている、宇都宮オリオン通り裏手の小さな川。手前の橋から向こうの橋が青く見える。50年前の冬、失恋と闘争の痛手で連日しけこんだのは、オリオン通りの喫茶店だった。

「そんな暗いところで本読んでると、目悪くするよ」

言ってくれたお姉さんの店は、今はイベント広場となっている。

 私の「悩み方」は、変わらず恥ずかしいくらい「文学的」だ。

 

 ☆後記☆

ずい分前の本なのですが、読んだのはつい最近です。新聞紙上の書評に載ったのが、去年の夏?だったからです。いつでも黒井千次は、先を読むことをためらわせます。何をやってるんだという読者の思いは、実は自分自身に向けた言葉であることを知って、今回も居たたまれませんでした。

通りすがりですが、柏の布施弁天です。結構な人でしたが、例年だと手前階段にも行列するのでしょう。

白鵬休場! 残念。隆の勝、そして照ノ富士を楽しみにします。


民族差別 実戦教師塾通信七百二十五号

2020-10-09 11:22:56 | 戦後/昭和

民族差別

 ~大阪なおみ選手から「民族差別」を考える~

 

 ☆初めに☆

大阪なおみが「日本人」であることを知った時、私たちはある種の衝撃を受けたはずです。出生は日本であっても、幼少でアメリカに移った彼女は、拙(つたな)い日本語しか出来ませんでした。私たちには想像も及ばない「自分探し」を、彼女がしていたことは間違いありません。先日、その彼女は決勝戦までの間に、7枚のマスクをしました。

一方、NBAの八村塁選手は生まれも育ちも日本で、日本の言葉で生活が出来たわけです。しかし彼が小さかった頃(青春時代も)、彼が「英語を話す転入生でなかった」ことで受けた嫌な思いも多かったはずです。相手は子どもです。「どうして日本語?」という違和感を、彼ら(私たち)は肌の色の違いとともに残酷な言葉で表現するからです。

しかし二人が提出する問題に、私たちは真剣さを欠いた思いしか持てない気がします。彼らが差し出す「黒人差別」問題は、日本で距離があるからです。でなければ、「スポーツに政治を持ち込むな」みたいな的外れの考えが出て来るとは思えません。水泳競技に黒人がいないことを、こういう人たちは気がつきません。スポーツはいつも「政治的フィルター」を通過しています。

 

 1 在日(朝鮮人)

 無理やり連れて来られる、あるいは豊かな生活に憧(あこが)れてやって来る、その際自分の言語を捨てるか奪われる。経済的文化的収奪に伴って、必ずこれらの差別は行われる。「黒人差別」は「民族差別」ではない。「人種差別」だ。「黒人」というカテゴリーが、ひとつの「民族」でくくれないからである。大阪なおみと八村塁、とりわけ大阪なおみが提出した問題を、私たちは我がこととして受け止められない気がする。だからここで、黒人差別に似た歴史的文化的背景を持つ「民族差別」を、私たちは考えることが必要で、かつ出来ると思った。

 「朝鮮人差別」である。

真っ先に思い浮かぶのが、1958年に起きた都立小松川高校「女子生徒殺人事件」である。息を吹き返した被害者を、犯人の李珍宇(イジヌ)は再びその首を絞めて殺した。そして、警察や新聞社を通じて被害者所持品の櫛を送りつけ、あるいは電話で「どこを探してるんだ」と彼女の遺体がある場所を教える。やがて、彼女は高校の屋上で発見されるのである。実はこの四カ月前にも、李珍宇は通りがかりの23歳の賄(まかない)婦を殺していた。冷酷無比で残酷な殺人犯として、当時の日本社会が震撼とした。この時未成年だった李珍宇は、少年法の最高刑が無期刑だったにも関わらず、死刑を言い渡される。

 やがて事件の全貌とともに、李珍宇の周辺が明らかになる。在日の暮らす場所は、貧しさに打ちのめされていた。父は朝早くから仕事に出かけ、夜遅く帰る時はすでに安酒で飲んだくれており、そのまま死ぬように眠った。母は重度の聾唖(ろうあ)者だった。つまり李珍宇は、故郷の言葉を聞かずに育った。彼はこの時、窃盗(せっとう)の常習犯で保護観察の処分を受けていた。自宅のあばら家に積まれた本は、都内の図書館から盗んだものだった。ギリシャ哲学に始まり、サルトル、ドストエフスキー、ヘミングウェイ、そしてヘーゲル、マルクスまで、53冊に及んでいた。

 中卒の李珍宇は成績優秀だったが、朝鮮人という理由で日立製作所は採用を断っていた。これらのことに触発され、李珍宇の減刑願い/支援活動が大きく起こる。その象徴と言えるものが、被害者遺族の発言である。

「これまで、日本人は朝鮮人に大きな罪をおかしてきました。それを考えると娘がこうなったからといって、恨(うら)む筋あいはありません。もしも珍宇君が減刑になって出所したら、うちの会社にひきとりましょう」

よく「被害者や遺族の気持ちを考えないのか」と憤(いきどお)る人がいるが、この遺族の発言を目にすると、本当に良く考えないといけない、と私も思う。

 

 2 朝鮮人として生きる

 私たちの世代は、今より在日が近い存在だったような気がする。「朝鮮」というエリアがあったし、私の家も劣らずそうだったが、そこには吹き溜まりのような生活があった。家に遊びに行くと、父親は「分からない言葉」を話した。良く遊んだ友人とは、高校時代まで交流があった。オレたちは身分証明書を持ち歩かないといけないんだ、と彼はそれをみせてくれた。そこには「本名」が書かれていた。成績優秀だった彼は、私立大学では最大級の難関と言われた早稲田の政経に入学した。でもオレは就職のために行くんじゃない勉強しに行くんだ、彼は言った。朝鮮人が就職できるとこはたかが知れてる、と。

 事件が起きるまで、金子鎮宇(しずお)の「本名」が李珍宇であることを、友人は誰一人として知らなかった。多くの在日がそうだったように、彼は日本人を演じていた。しかしもうひとり、日本人を演じた女性がここに登場する。朴壽南(パクスナン)は「国語」(日本語だ)でクラス一番をとるような、同じく成績優秀な生徒だった。予科練にあこがれたあげく自殺する兄を持った彼女は、兄の影に李珍宇を見いだす。獄中の李と手紙でのやり取りが始まる。李は彼女のことを「姉さん」と言う。

 朝鮮語を勉強し民族教育を受けた朴壽南は、次第に日本人化された自分に気づき、そこから脱却し「祖国」を見いだす。李珍宇が「朝鮮人として生きる」ことに気付いていたら、こんな事件は起こさなかったと思う。彼女は「もしあなたが、朝鮮人学校に行ってたら(朝鮮人の誇りを持てた)」と書くのだ。しかし李は違う。朝鮮人と聞いただけで嫌悪を感じる。「その『朝鮮人』という言葉に含まれる『みじめさ』があるから」だ。自分たちは「朝鮮人に生まれる」のではなく「朝鮮人になるのだ」と李は言う。一方は「誇らしく」他方は「みじめに」、二人は全く反対の言い方で「朝鮮人として生きる」と言っているのだ。

 ヘイトスピーチを引き合いに出すまでもない。ある時ひょっこり、私たちのそばに「チョウセン」が顔を出す。私はまず、東日本大震災の時に何の前触れもなく現れた、「朝鮮人による泥棒の横行」を思い出す。街のいさかいで、相手から「オマエ、朝鮮人だろう」とからまれたという話も、やはり忘れた頃に耳にする。その時、

「朝鮮人だとしたら、どうだと言うんだ?」

と言えるのは、私たち「日本人」の中に何人いるのだろうか。

 

 ☆後記☆

李珍宇の裁判のことで、いくつか書いておかないといけません。警察の実況検分によると、第一の被害者である賄婦はスラックスが裂けていた。さて、彼女の遺体を最初に発見したのは、彼女の婚約者でした。彼の証言によれば、発見時にスラックスは正常だったというのです。ふたつの事件ともに強姦殺人として処理されますが、李珍宇は姦淫は認めるも「(最後まで)していない」というもので、これは認定されるのです。繰り返し警察に電話したのは「異常な自己顕示欲」ではない、本当に「自分がやったのか確認したかった」と、李珍宇は言う。貴重な公判記録と思えます。

 ☆☆

庭の金木犀が満開です。家中、そして前の道路まで芳しい! 台風のおかげで見納めですが、秋はいいですね。昨日から福島です。新酒を買って来ようと思います。まだ無理か?


終戦 実戦教師塾通信七百十九号

2020-08-28 11:15:45 | 戦後/昭和

 終戦

 ~「学校教育のせい」を考える~

 

 ☆初めに☆

今年も終戦特集が多く組まれました。日本だけではないかも知れないけれど、こうして毎年、戦争を振り返ることは大切なことだと思うようになりました。戦争の話を次第に耳を傾け、目を凝(こ)らすようになって来た気がします。歳を重ねるごとに、「戦争は絶対に嫌だ」と言っていた母親の言葉が鮮明になります。私はずっと、「厭戦(えんせん)なんて簡単に引っくり返されるんだ」、「積極的な反戦でなきゃダメなんだ」と言ってきました。母は聞く耳をもたないそんな私を相手に、空襲の経験をいつもするのでした。結局、母の「厭戦」が力強く今も残っている。

同時に、自分の中にあった違和感は、歳を重ねるごとに確かなものになってもいるのです。「軍部の独走」とともに、「教育が戦争に導いた責任は重い」というものです。今年も一体どれだけそういう記事を見たことでしょう。歴史のずぶの素人だからこそ、歴史に弄(ろう)されてはいけないと思うのです。

 

 1 欧米の侵略

 日本は国内諸国制圧の経験はあったが、諸外国からの本格的侵略を幕末で初めて経験する。欧州は、産業革命と精巧な羅針盤を武器に、アジアへのダイナミックな侵出をはかる。この図式は少なくとも1945年の終戦まで変わらない。欧州にとって第二次世界大戦とは、欧州・アフリカ地域の覇権をめぐる争いとアジアの分割だった。満洲から南方への日本の転進とは、まさしく欧米列強によるアジアの占領や屈辱外交への「反攻」を理由としていた。満州事変以降の中国東北部(満洲)への移民は、困窮農家の次男三男坊排出と、新たな資源・土地を求めた全く一方的なものだった。それに対し、南方への転進は正当な口実に見える。掘っても掘っても出なかった満洲の地下資源、とりわけ石油が出なかったことが南方への転進の理由だとは、絶対に言わなかった。

 満洲とソ連の国境を「日ソ中立条約」(1941年4月)で安定させた三カ月後、日本軍はベトナム進駐を開始する。日中戦争から4年後だ。欧米による東南アジアの資源収奪を、日本は許さないというわけである。実は、それまで一定の静観をして来たアメリカが動き始めていた。今までも軍縮を迫るとか輸出を許可制にする等もあったが、1941年の8月、ついにアメリカは日本に対し鉄と石油を全面禁輸とする。これで日本は戦艦はおろか弾丸も作れない、作っても動かせないという状態になる(国内の「金属類回収令」は1943年)。実に真珠湾攻撃の4カ月前である。アメリカはとっくにフィリピンを手に入れており、近隣の港から中国へ湯水のように資源を運ぶという紛れもない侵略をしていた。

 これらは欧米列強のアジアでの利権争いに、日本が参加したということ以外の何ものでもない。そこに「東洋の正義」を重ねたとしても、だ。一方、国民の明日への不安とおびえは日に日に大きくなり、制裁を次々と繰り出すアメリカへの憎しみが膨(ふく)らんだ。「バスに乗り遅れるな」に始まり、「空に神風、地に肉弾」に続く国民の声は、意図的なものだったとばかりは言えない。「軍部の独走」「教育が国民を戦争に導いた」とは、戦争を我がこととしてとらえる姿勢としては、はなはだ心もとない。ファシズムに走ったのはナチスのせいだ、というドイツの精算の仕方に似ていると、私は思っている。それで今、ネオ・ナチが力を得ていると思っている。

 

 2 「学校」を形成するもの

 この「学校教育のせい」に関して思い出したことがある。20年以上前のことだが、それを書いて閉じる。

 教育雑誌の「普通の子どもが何故荒れるか」というテーマで、精神科医のなだいなだ、評論家の芹沢俊介、そして私の鼎談(ていだん)があった。今は故人となってしまったが、この時は十分に元気だったなだ氏は、TBS子ども電話相談室で楽しい回答をしており、著書も『くるいきちがい考』を始め分かりやすくもシャープなものを出していた。その何冊か読んでいた私としては、ソフトなスタートをしようとしていた。ところが、

「アンタらが、ピアス禁止だの制服だのと余計なことをする」

「学校が悪いんだ。さっさと規則を全部やめちまえ」

激しいスタートを切ってしまった。少し呆然とした私との間に芹沢氏が入って流れはいったん収まったが、結局この時のもつれは最後まで続いた。対して、ひとつに「一度ついた習慣というものが変わるのは、そう簡単なことではない」と、私は言ったように思っている。

 80年代まで続いた体罰や坊主頭の容認は、学校が一方的に強行したものではない。そこまでしての「子育て」を、地域社会が求めたからだ。「お願いします」と「責任もちます」の下に流れていたのは、「甘えは許さない」という理念だった。ここに「どうしてそこまでしないといけないのか」という波が、徐々に寄せてくる。そこで「学校は一体何をやってるのか」という流れが、ひと通りでなくなる。半分は「(子どもに)甘過ぎる」で、残りが「厳しすぎる」もので作られる。そのせめぎ合いを決定づけてきたものは、多くの場合、それまであった「習慣」だ。そしてこれが大事なのだが、その習慣を支えてきた「子どものために」という、実にいい加減な理念である。それで今も、体操シャツをパンツ(ズボン)に入れさせるような「指導」を、一生懸命&熱心にやる教師/学校が後をたたない。新しいところでは、男子生徒が日傘をさすのはいいか、みたいなことについて熱く議論するのである。

 繰り返すが、「学校は一体何をやってるのか」という問いかけは、ひと通りではない。教師にとっても生徒にとっても部活をブラックだと告発し続けてきた人たちは、このコロナ騒ぎの中で各種大会が無くなる辛さを訴えていた中高生にどう応えたら良かったのか、考えないといけない。

 

 ☆後記☆

先週土曜日の子ども食堂は「焼きそば」でした。好評でした。会食は無理だったのですが、調理室で作ったものを配りました。コロナ対策で、建物すべての窓と扉が開け放たれた中、焼きそばのいい匂いがセンター内に充満しました。母親と子どもの四人連れが、わざわざ再びやって来て、

「とても美味しかったです。どうしたらあんなに美味しくできるんだろう、家で作るのとは全然違う!」

と言いに来てくれたのに、私たちスタッフ一同感激しました。

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ホンダはF1に続きインディ500、佐藤琢磨やりましたね! 二度目の表彰台のセンター。「これでもうやり残したことはない」などと少しばかり気がかりなこと言ってますが、43歳からのF1復帰とか無理なのかな。

夏休み、少し遠慮がちに栃木へ。これは那須ロープウェイ。

茶臼岳です。

いつもひしめく行列で入ることが出来なかった『Penny Lane』。この日初めて入れました。二階のバルコニーから四人が迎えてくれました。