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実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

戦争 実戦教師塾通信七百九十五号

2022-02-11 11:36:40 | 戦後/昭和

戦争

 ~天災下の弱者~

 

 ☆初めに☆

前回の予告通り「天災は弱者を襲う」という記事になります。直接関係ないところから、コロナを読み取ってもらえれば幸いです。

昨年の10月に、千葉県柏市を代表する「専門家」(当人はこう言われるのを嫌がるのですが)、N氏へのインタビューを掲載しました。N氏はコロナへの冷静な対応について、

「今は戦争なんだ。収まるのを待つしかないんだ」

と言いました。冷静な対応が困難な現状を、戦争にたとえたのです。「誰にも止められない」「みんなが同じ方向を向いてしまっている」状況を憂えたのです。まず「天災」を戦争で考えます。戦争は人間が生んだ最悪の「天災」と言えるでしょう。

 

 1 中国残留孤児

 『ソ連兵へ差し出された娘たち』(集英社)が話題になっている。満洲の敗走で、暴行や略奪を恐れた日本の移民団が、ソ連(現ロシア)兵を「接待」するために10代後半から20代前半の女性を提供した、という史実に迫る本だ。ロシア革命当時「赤軍」と呼ばれた軍隊に対し、ボリシェヴィキは民衆からの略奪・暴行は許さないと通告した。しかしそれは、勝つか負けるか生か死かという内戦状態下のことであって、それがどれだけのものだったか疑わしい。そして第二次世界大戦終了は、それから30年後である。正規軍となった「ソ連兵」は略奪した時計を腕一杯にかけ、ジャラジャラ音を立てていたという。女子への暴行も、澤地久枝や無名の方の私家版での報告など(五木寛之も)、多くを目にした。ソ連が中立条約を一方的に破って、雪崩を打つように来ることを知った軍部や高級役人・技術者は、とっくに姿を消していて、開拓民が残された。彼らを襲った中に、多くの満州人たちがいたことは前も書いた。

 こんな結末が予想出来なかったわけではない。移民政策は「入植」と称して、現地の人間が丹念に耕作した土地を安く買い上げたり、ひどい時には取り上げた。これらを「やってることは泥棒だ」と批判したのは、満州事変の仕掛人・石原莞爾(かんじ)だ。真面目だった日本人もいた。だからその後、逃げた家族に置いて行かれた子どもたちが殺されもせず育てられ、いわゆる「残留孤児」になったと思っている。

 

 2 明治維新

 明治期は「結核」の話。当時、治療に莫大な費用を必要としたこの病気は、都会のぜいたくな連中の病気と思われていた。農村には縁のないものだった。しかしこの病気は、繊維産業の勃興(ぼっこう)と共に大流行する。始めは廃藩置県なる大ナタのせいで、今の人口に換算すれば800万という士族が路頭にさまよう。これに伴い、その子女たちの仕事先として現れたのが繊維工場だ。その後、全国に建設された新規工場の増産による大量雇用の創出がされ、農村が労働力供給の機関となっていく。どうしたものか、都会の工場から帰郷した娘たちの多くが、原因不明の病気で倒れる。きれいな山間の空気を吸っていた農村の娘たちは、工場に舞う繊維の粉塵を吸うばかりではない、劣悪な宿舎と食事という結核菌の喜ぶ環境で身体をむしばまれた。

 そんな時代のもっと前にさかのぼれば、農村で「労働力」とならない女は、生まれた瞬間「間引き」の対象となった。あるいは自分を養う家計の工面のため、そして「給料の前借」でお金を家族に残すため、お父さんお母さん行ってきますと出立した。彼女たちが両親を憎むことがなかったとは、本当の話なのだろうか。また、このような遊郭への道と比して、「結核」は近代社会のもたらした改善という見方は出来るのだろうか。いずれにせよ、明治の「貧は四百四病の一番につらいもの」ということわざは、のちの時代にも当てはまった。

 かつて世界に進出した欧米が、各地に潜伏していた風土病を持ち帰った。最近ではエイズがそうだ。以前にレポートしたが、エイズはアメリカの下層労働者がアフリカに行って持ち帰ったものだ。力の弱いエイズのウィルスは、普通は感染を広げることがない。始めは同じ注射での薬物回し打ちで、この脆弱だったウィルスが拡がる。追い打ちをかけたのが、帰国後にやった血液センターへの売血である。

 貧困は病を拡散する。いや、天災は弱者を襲うのだ。

 

 ☆後記☆

いやあ、やっぱり降りましたね。雨戸を開けてびっくり!でした。雪かきしてる間にだいぶ解けたし、金木犀の枝からも落ちてしまったけど、雪景色です。愛車もちらっと見えます

オリンピック、スノボのハーフパイプだけ見てます。あの「自由」って感じが好きなんです

あと、あの愚劣なインタビュー、どうにかなりませんかね。そっとしておくという配慮・態度があるんだということを、この連中は知りませんよね。


北野武 実戦教師塾通信七百七十五号

2021-09-24 11:15:23 | 戦後/昭和

北野武

ビートたけしの懲(こ)りない/切ない場所~

 

 ☆初めに☆

1986年のフライデー事件では「襲った方」だったのが、襲われる方となったビートたけしでした。しかし「警察から何も言っちゃいけないって言われててさ」(ニュース7デイズ)と言いながら、たけしはやはり饒舌(じょうぜつ)でした。

ビートたけしの映画は、熱烈なファンからの支持と海外からの高い評価があって、興行的には成功することが少なくとも今日まで続いている、と思われます。役者や監督というものは、売れるか否かより「この人にしか演(や)れない撮れない」が肝心なことです。ビートたけしが演る/撮る世界は、おそらくもう出てこないのではないのでしょうか。熱烈なファンとして、ビートたけしをもう一度眺めてみます。

 

 ☆『取り返しのつかない』☆

10年以上も前の小誌に寄せた自分の文を読んだら、ここの読者にも読んで欲しいという思いが強くなった。『取り返しのつかない』と題された当時の文章を、全面的に添削した。かなり削ったのだが、それでも長文となるので、よろしくです。

 

◇昔……◇

 すっかり装いを変えて、今は多くのテナントを抱えた駅ビルとなった(千葉県)南柏である。駅前ロータリーは舗装さえおぼつかなかったのが、レンガ風の石が敷き詰められ、街路樹と商業ビルが人々を誘っている。

 ついこの間まで、東口のこちら側には長屋でトイレも汲み取り式の貸家が並んでいたもので、私は4年ほど腰を落ち着けた。駅まで歩いて五分という交通至便な立地条件の物件としては、格安だったわけだ。国道六号線をすぐそばに控えた西口の駅前のアーケード街と、それは馬の背と腹を分けるような陰と陽の顕著さがあった。

 長屋に住んでいた当時、我が家に戻るには、線路伝いから少し斜めに入った暗い細い道が近道だったから、電車を使った時はその道をよく歩いた。道の曲がり角にたたずむ焼鳥の屋台。暗い道から抜けると、昔の街道の賑わいで潤ったと思われる古い商店街に出る。旧水戸街道までのわずか五十メートルにも満たない細い道沿いに、肉屋/魚屋/八百屋が、道の際まで品物や匂いをせりだしている。肉屋はクリスマスだけの特別メニューだと言って焼き豚を鍋で煮る。オーブンではなかった。八百屋は真っ赤になったトマトを持っていけと言ってくれたし、魚屋は閉めかけたシャッターを、こちらの顔を見て開けてくれた。

 南柏のこの一角を「今谷」と呼び、その昔、罪人を処刑する場所だった。霊感が強く(と自分では思っている)、「時代」を信じている自分としては、この界隈(かいわい)を通る時に感じる、まとわりつくような「風」や、ぶちまけたような夕立にであうと、「今谷」は健在だなと勝手に思っている。都会・商業資本がいくら頑張っても、駅前のきらびやかさは半径二百メートルである。細い路地に入れば、手入れのされていない生け垣や枯れた井戸がある。それらは「簡単には消せないぜ」とでも言っているかのようだ。そんな時私は、切ない気持ちと、ざまあみろという気持ちをいつも交錯させる。

 

 ◇懐古趣味ではなく◇

 ビートたけしを見ていると、「違和感の磁場」みたいなものを覗(のぞ)いているような気になる。映画でもテレビでも、本も雑誌もだ。居心地の悪さのような「違うんだ」と言いたげな、いつもきわどい語りをする。いつだったか17歳の少年たちが次々と凶悪犯罪を犯して世間をにぎわした時、雑誌で

「近所のオヤジやおばさんが子どもを不断にしつけた昔だったら起きないことだ」

みたいなコメントをした。私は強い違和感を持ったのだが、たけしは次のようなことも言う。まさに「違う」「面白くねえよ」なのだ。

「学校の服装検査でも、徹底的な服装検査の方が、おいらはいいと思うわけです。服装検査で、服からカバンから全部やる時、それをかいくぐって学校にナイフを持ち込んだだけで、そのワルは番長になれる。でも、全部自由でなんでも持ち込み可能だとしたら、そのナイフで人を刺さなきゃダメでしょう。そうじゃなければ、ワルとして英雄になれないんだから」(『巨頭会談』)

みんなで子どもを注意しましょう、子どもを良くしましょうという提言からは程遠い。私流に言えば「根性もねぇケツの青いガキが分不相応な事件を起こしてるだけじゃねえのか」と怒り心頭なのだ。いいも悪いもあるもんじゃねえ、と唾を飛ばしている。昔を懐かしみ肯定しているのではなかった。

 昔ってそんなによかったのだろうか。「粗末な服を着ていても、お腹いっぱい食べることが出来なくても、みんな笑顔だけは最高だった」(『昭和の時代』小学館)のだろうか。『昭和の時代』に収められた写真の子どもたちが恵まれていたのは間違いない。あのフレームに入らず、撮影の様子をじっと眺めているしかなかった子どもたちの姿が、私にははっきり見える。忘れもしない。辺りが長屋で当時は貧乏というか、純朴を絵にかいたような風景の中でも、更に貧乏だった我が家。ご近所はいつも年の暮れには、崩れ落ちそうな我が家に「寄贈」の味噌と醤油を、簡単なセレモニーとともに届けてくれた。そんな習慣があの時代・あのエリアにはあった。

 大卒の初任給が一万円とちょっとの時代であった。私の高校合格の祝いにと、栃木の叔父が四千円の腕時計を買ってくれた。今でいえば高校(中学)の入学祝いにスマホ、という話にしてもいい。さて、先ほどのご近所は、私が腕時計をしている、一体どうして手に入れたものかという噂をあっという間に広めた。「放っておけない」という「気遣い」は、同時に要らぬ「干渉」もした。昔ってそんなによかったのか。

 

 ◇それじゃ本当のことを言おうか◇

 いつでもそうだ、ビートたけしの映画は、負けたものへの温かいまなざしがある。そして「勝った」もの/ことへの自戒と自嘲を促す。そう言うと、ビートたけしはきっと言う。

「いや、違うんだよ。『負けた』じゃなくて、『降りた』とか『抜けた』って言わなくちゃ駄目なんだよ。今の世の中、そういう奴を見かけると『偉い』って言わなくなっちまって、逆に『そんなんじゃ駄目だ』って言うようになっちまったんだ。品がなくなっちまった」

名画『キッズリターン』のラストシーン。校庭の自転車の上で、ワルのなり損ないの片割れが、マーちゃん、オレたち終わっちゃったのかなと言うシーンだ。相棒が怒鳴って返す。何度見ても胸が熱くなる。

「ばかやろう、まだ始まっちゃいねえよ!」

自分が生きていく上で、大事にしなくてはならないことに、いつだったか気づいた気がする。「忘れられない/忘れちゃいけない」ことがある。両者とも「積極的な面」ばかりでなく「消極的な面」もあることだ。陰陽の一方を称賛したり叩いたりするもんじゃない。どっちかを忘れれば、楽観的な自画自賛か悲観的なナルシストになるしかないからだ。「じゃあ本当のことを言おうか」と居直らなくなったら、何事も始まらない。

 ビートたけしの映画を見ると、いつも励まされているような気がする。

 

☆後記☆

嵐の中の子ども食堂を中止するかどうか迷いました。でもやって良かった。

びしょ濡れになって来てくれた人。「ここ(『うさぎとカメ』)がいいんです」と言ってくれる子。

きんぴらみたいに見えますが、牛丼風豚丼です。美味しかったはず!

添え物はコーンとおかかの炒め物。おかかはカラ煎りしたんですよ!

いつもより少し少な目にしましたが、すべて「完売」です! この場を借りて御礼申し上げます。

 ☆☆

今週の「和さび」です。右上はジャガイモの細切りを揚げてバスケットにし、グラタンに仕上げました。ホタテではなかったけど……貝の美味しい具でした。右下がイカとナスの肝焼き!

一週間の間「和さび」は、店内改装のためお休みだそうです。ご贔屓の皆さん、リニューアルオープン楽しみですね!


加波山 実戦教師塾通信七百六十九号

2021-08-13 11:47:51 | 戦後/昭和

加波山

 

 ☆初めに☆

残暑お見舞い申し上げます。クソ暑い日が続きます。エアコン稼働は、今季の昼夜をすべて合計しても20時間に達していないはず。頑張ってます。アイスノンも、いい睡眠には向かないみたいで、今年は使ってません。発症して半年たちますが、70過ぎての「50肩」にもエアコンは良くない。いい今年の後半のために、頑張ってます。

旅行が出来ない今夏です。県境を越えてしまいますが車で小一時間、以前から行きたかった加波山に出かけました。激動の明治を追って、簡潔じゃまずいのですが、簡単にレポートします。

 

 1 福島県令(知事)

 猛暑の中の筑波山。青いたわわな稲穂の向こう。

近づきました。少し変わった形の筑波山ですが、真壁町方からみたもの。

この筑波連峰の一角に加波山がある。「福島事件」とされる福島・喜多方の農民たちの蜂起(ほうき)は、維新から10年以上が過ぎて起こり、栃木・宇都宮、茨城・加波山、そして埼玉・秩父の困民党へと引き継がれる。1882年~1884年のことだ。

 明治政府の富国強兵も地租改正も、小作農家を助けることなく、地主を優遇する結果となった。こんな時、福島の県令(知事)三島通庸(みちつね)が、会津三方道路(越後街道、会津街道、山形街道の3つの街道)の建設に着手。若手の労働力か建設資金の寄付を、地元の全戸に強制する。これが一連の農民一斉蜂起の原因である。ちなみに三島は、薩摩藩出身。戊辰戦争を戦い、東京の新生に活躍するのだが、どう考えても相性のよくない渋沢栄一とも交錯したはず。おそらくNHKの大河ドラマにも登場しているのではないか。

 

 2 加波山神社

 加波山神社に着いたのだが、ここが農民が蜂起した場所とはとても思えなかった。写真右手に神社の看板。

左手に神社。

詳細を聞こうにも、人っ子一人いないし案内板もない。山頂付近の加波山神社にて蜂起と、日本史資料にはある。あとでここに移されたのだと思われる。加波山の頂上は、荒れた道なき道を行かないといけない。猛暑の日差しにさっさと頓挫(とんざ)。気持ちを改めて来ないといけない。

 

 3 妙西寺

 蜂起は、福島・栃木・愛知の民権家16人の志士が「自由立憲の旗」を掲げた。厳しい罰に科せられた彼らの墓は、加波山から離れた筑西市の妙西寺にある。

門前墓地にも、寺にも人っ子一人いなかった。

いわゆる自由党左派が弾圧された一連の事件は、1886年の静岡事件で収束させられる。そして、1889年、帝国憲法が成立するのである。

 

 ☆後記☆

オリンピック終わりましたね。全部ニュースでしか見なかったけど、スケボー面白かったですね。ライバルとか敵とかない。国もない。あるのはいい演技をすること。「失敗しろ」はなく「頑張れ」がある。そんな姿がかわいらしい。なんて言うと、クレームが入るのかな。

面白いなと思ったオリンピック関連のニュースを取り上げようと思います。今日はバッハ会長の「チャイニーズ」。

謝罪したかどうか知りませんが、ずいぶんな炎上でした。ここへのコメントで注目したのは、ミッツマングローブ。「チャイニーズでなくアメリカンだったら、日本人は怒らなかったのではないか。日本人の中国に対する差別感情か優越感情が、はしなくも表れた」というもの。面白いですね。私たちの世代だったらそうかなと。若い世代はまた違うのかなとも思いました。

ごひいきの和食店「和さび」のタコ飯です。大変な中、テイクアウトで頑張ってます。「家呑みセット」も撮るんだったのに、また忘れました。セットにあった鱧(ハモ)のさつま揚げ、いやぁ美味しかった。お店で出すんなら、生で出したのだろうと。そんなお店の無念と、それでも客に美味しいものをという気持ちが感じられて……いやありがたい。

今日はまた、ずいぶん涼しいお盆だ。皆さん、お体ご自愛下さい。


父と母の路(2) 実戦教師塾通信七百六十二号

2021-06-25 11:09:17 | 戦後/昭和

父と母の路(2)

 ~「最後の皇帝」の弟~

 

 ☆初めに☆

戦時/戦後のことに関心をお持ちの方、結構いらっしゃるのですね。感想をありがとうございます。私も母も恥ずかしい勘違いをしていました。両親が結婚した時代の5月3日に、憲法記念日はなかった。当たり前です。それを私たちは「父のこだわり」などと勝手に思っていた。私はともかく、母はどうしたというのでしょう。戦後の憲法がすっかりなじんで、結婚記念日と結びつけることになったのでしょうか。私たちが話すかたわらで、父は困った顔して何十年も笑っていたのかもしれません。ご指摘ありがとうございます。それにしてもこれは、面白い偶然ですね。母は「新しい憲法」読本を、幾重にも包んで大事に持っていました。

 

 1 薄茶色のレインコートの男

 母がいつも思い出すことと言えば、という枕詞のような話。

母の話は間違いなくこの時期だった。前回書いた羽田精機の社宅で、出征する社員の壮行場面。たすきはおそらく日の丸、それをした方が戦地に出向くのだろう。その隣、写真で言うと左から二番目が父である。

 母はお決まりのように、この時の話を治安維持法犠牲者を悼む集会や歴教協(歴史教育協議会)、そして母親大会などで話した。以下は20年ほど前の、茨城県龍ヶ崎市発行「戦争体験記」に寄せた母の原稿である。一部を抜き書きます。

(五月に結婚し)……十月になり叔父叔母の元へ里帰りをしようということになり、切符を求め、お土産に竜ケ崎の野菜を送り、明日は出発だからと夫は夜七時ごろ床屋に出かけた。

 それから少し経った頃、玄関に人の声がして、出てみると知らない人が一人薄茶色のレインコートを着て立っていた。

「ご主人おられますか」と言うので不在を告げると、「どこに行かれましたか」という。私はこの時行き先を言いよどんだ。何となく言いたくなかったからだ。客は急用なので行く先を教えてほしいと何度も言うので、私は威圧感を感じ、行き先を告げた。客は頭を下げ、やっと帰ろうとしたので私はいつものように客を送って玄関の外に出て見送ったが、一人だと思った客は実は二人だったのだ。二つの自転車の影が角を曲がって行ったのを私は確かに見たのだ。「何なのだろうか、一人ではなく二人だったんだ」自問自答しながら不吉な予感が私の頭の中を走った。

 それから少したって夫は普段と変わらない様子で、でも私にはすまなそうに「会社の急用で明日の大阪行きは中止になったよ、仕方がない、もう少し先に延ばそう」と言った。私はがっかりしたが会社の用事では仕方がなかったのだ。

読者も察したはずだ。両親の兵庫・西宮行きは、直前に薄茶色のレインコートの男たちに阻止されたのだ。戦後しばらくして、我が家に人が集まった時、父がこの時のことを話したらしい。それを母が小耳にはさんだ。それは両親、いやこの場合は父親だ、父親の乗る列車は、満洲国皇帝の弟が上京する列車とすれ違うものだったという。特高(特高警察)が動いたのだ。父の話す顔は笑っていたというが、母の「身の毛もよだつ」記憶がここで刻まれる。

 

 2 『ラストエンペラー』の弟

 特高は、満州の皇帝・愛新覚羅溥儀の弟である溥傑が乗る特別列車に対し、父が何かしでかすことを予想し、阻止すべく手を打ったのだ。私が成人して後、ソ連(現ロシア)や共産党、そして満州のことを少しばかりかじったわけで、この時の出来事を母に説明する成り行きとなった。特高がやったことは「冗談ではない」んだと。彼らは、父が爆弾を放り込む可能性さえ考えていたはずだ、と。しかし、これは間違っていた。私の思い込みの強い頭は、この事実を共産党が武装闘争を掲げた「50年綱領」の時期に重ねていた。今思えば恥ずかしい、極めてアマチュアな質問を満州の研究者にあたったりした。50年という時には、現在の中国が建国されている。この時期、溥儀も溥傑も「再教育」を受けているのは、文献上でも、映画『ラストエンペラー』でも明らかだ。この時日本に溥傑はいませんよ、と研究者はあっさり言った。母の残した記録をきちんと読めば、この「身の毛もよだつ」出来事が、前回の記事で報告した通り、1943年だったことは明確だ。大体が戦後、特高は治安維持法とともに解体を命じられている(直後、これに代わる公安警察が出来るが)。

 戦時中なら、溥傑は確かに日本にいた。太平洋戦争が勃発した翌年までは満州にいたが、溥傑は日本の陸軍大に入学する1943年から次の年の1944年まで、一年間だけ日本にいた。当時、満州から東京へは大連から神戸が船、そこから東京まで列車で向かうというのが大体のルートだった。偶然だろうが、両親は溥傑の乗る列車とすれ違うはずだった。特高がそれで動いた。

 しかしこの時、父に何かを「しでかす」気はなかったと思っている。この時期、共産党は壊滅状態だった。主な指導者はソ連に逃げたり、投獄されていた。あるいは、左翼から足を洗う「転向」をしていた。1936年の4月、父が大学へ再度入学したのは、2,26事件から一か月後だ。それから3年間という期間、日本は激動のさなかだったが、父の人生では一番平穏だった期間ではなかったか、と思っている。

 父の謎は、軍需産業・羽田精機が解散を命じられた1947年以降、もっと深まる。この年、父は共産党に入党する。

 

 ☆後記☆

こども食堂「うさぎとカメ」、久しぶりの焼きそばでした。手際は慣れたものとなり、スタッフの増員もされました。

「ありがとうございました」「また来てね」 このやり取りが嬉しいです。

一番手前の段ボールは、コンニャクです。

 ☆☆

昨日から福島にいます。県境越えましたが、いいですか。3か月ぶりとなります。楢葉の渡部さんのおばあちゃん、ワクチンをすでに2回打ったそうです。元気ですよ~

我が家の庭。椿の枝を全部払ったら、初めてこんなに元気に咲きました。


父と母の路(1) 実戦教師塾通信七百六十一号

2021-06-18 11:49:06 | 戦後/昭和

父と母の路(1)

 ~本当だった交差点~

 

 ☆初めに☆

今回は大きく風呂敷を広げます。

両親、とりわけ父親のことを調べるようになったきっかけは、私が大学に入り、全共闘運動に足を踏み入れてからです。父は私が9歳の時に他界したので、本人からは何も聞けませんでした。調べ始めてから50年、文献もそうですがネットのおかげで、父親の周辺が少しずつ分かってきました。そして今回ようやく、長年解けなかった父(母)にまつわる謎のひとつが解けました。『モモ』に出てくる灰色の男みたいに、ある日我が家を訪れた男たち、その謎が解けました。緊迫した歴史の現場を見た気がしています。これからは、さらに深まった疑問を解いて行こうと思います。母が、そして父も仏壇でほほ笑んでいる気がします。

このシリーズ、長くなりますが、取り敢えず2回書きます。

 

 1 歴史修正主義

 長い能書きになる。父を語るためなので、お付き合い願います。

 以前に書いた。吉田清治なる輩(やから)が、自分で実行するには不可能だった「慰安婦狩り」を「告白」した。そのいい加減な「事実」が暴かれることによって、慰安婦そのものが「なかった」という流れに大きく加担した。また、犠牲者の多さを理由に「南京事件はなかった」とするのも同じだ。これらを歴史修正主義と呼ぶ。しかし、「あった」ものを「なかった」とする歴史修正主義は、どこにもはびこる。日本共産党もそうだ。

 現在、日本共産党は「暴力革命の方針を決めたことは一度もない」と公言している。戦後すぐ共産党は、平和的に民主的社会を作ろうした。それがソ連(現ロシア)の干渉によって、強引に党が破壊され方針が曲げられた、という。これはアメリカの「帝国日本の再生を許さない」占領政策に乗っかって「平和的に民主的社会を作ろうとした」ことを指す。それで共産党は何を思ったか、占領軍を「解放軍」と言った。「ソ連の干渉」とは、あっけにとられたソ連が、共産党を怒った(「コミンフォルム批判」という)ことを言う。事実、この民主化政策はすぐにひっくり返る。財閥の解体はストップし、争議行為も禁止となる。すべては「日本を反共の防波堤にする」ためであったことはご存じと思う。では人々にとって「民主化」とは、他人事だったのか。違う。1917年に起こったロシア革命に、世界中の人々が触発された。日本の人々も例外ではなかった。短い期間だったが、ソ連は人々の光だった。アメリカの記者ジョン・リードがレポートしたように、それは「世界を揺るがした」。また大正デモクラシー以降、すでに芽生えていた日本民衆の「民主化」への思いは、終戦後に大きく動いたのである。影響はあったとはいうものの、共産党のせいではない。

 以前、1950年の朝鮮戦争の記事で書いたが、この米ソの代理戦争とも言える戦争を契機として、北朝鮮を支援するべく、日本共産党に武装闘争の指令が下りる。ここに武装闘争を明記した「50年綱領(テーゼ)」が生まれた。

 共産党は、暴力による権力の奪取を明言したことを、歴史から葬り去ったのだ。

 

 2 父の大学時代

 父が大学に入ったのは1930年、しかし2年後に退学している。在学中、社会運動に身を投じ拷問を受け、入院治療を余儀なくされたからだ。治安維持法下です。小林多喜二たちが殺されたのは1933年、というのは参考のため。そして4年後、再入学して無事に卒業している。

大学時代に知り合ったらしい、郡司次郎生。郡司の書いた『侍ニッポン』は、父の自転車に乗せられて観に行った。別の映画だが、本人直筆の写真が残っていた。

父の社会運動が一体どんな活動だったのか、今となっては知る由もないが、獄中にいる時に救援してくれたのが、渡辺政之輔の母親だったという。労働運動の渦中、台湾で警官隊と交戦し観念、その場で自殺したのが渡辺である。ついでながら、その漢字をひとつもらったのが、私の「政人」だと聞かされて意味が分かったのは、私が高校生の頃だった。

 卒業後、羽田精機という軍事運搬用車両を作る会社に就職したのは、1939年。そして4年後、母と結婚する。一体、父のような「前科者」のもとに、どうして関西の資産家の娘が嫁いだのか、これも分からない。媒酌人となった人は、たまに家を訪ねて来ていたので、そのいきさつを聞いたこともあった気がするが、記憶にない。きっと言葉を濁したんだと思う。結婚は5月3日。法学部を出た父の思い入れなのかなどと、いつも母と話した。

 そして5か月後、ふたりの男たちが、両親の住む社宅にやって来る。

 

 ☆後記☆

コロナのことを最近語らないがどうしたのか、と言ってくださる方が結構いるのですが、関心が薄いのは今に始まったことではないのです。ワクチンなんてもっと関心がない。通知来ましたけどね。あ、そうだ。繰り返しますが「基礎疾患をお持ちの方」って、やめて欲しいなぁ。ダイヤモンドを持ってるんじゃないんだから。「基礎疾患のある方」でいいんです。

早くお店を開かせてあげて、ぐらいは思います。五輪についても、どうでもいいや、という気分です。でも、何があってもなくても、誰かのせいにするのはやめたいですね。政治家はどうにも判断が出来ない。でも、「どっちかはっきりしてくれよ」というテレビからの声に、私はもっと我慢できない気がしています。

 ☆☆

4チャンネルの「オモウマい店」見てますか。番組が面白いのは、店の味わいもだけど、コメンテーターのヒロミがいいんですね。ああいう媚びない自然なしゃべりって、出来る人ホントに少ない。ヒロミよろしく! サラメシ負けんなよ!

子ども食堂「うさぎとカメ」、明日ですよ!