戦争
~天災下の弱者~
☆初めに☆
前回の予告通り「天災は弱者を襲う」という記事になります。直接関係ないところから、コロナを読み取ってもらえれば幸いです。
昨年の10月に、千葉県柏市を代表する「専門家」(当人はこう言われるのを嫌がるのですが)、N氏へのインタビューを掲載しました。N氏はコロナへの冷静な対応について、
「今は戦争なんだ。収まるのを待つしかないんだ」
と言いました。冷静な対応が困難な現状を、戦争にたとえたのです。「誰にも止められない」「みんなが同じ方向を向いてしまっている」状況を憂えたのです。まず「天災」を戦争で考えます。戦争は人間が生んだ最悪の「天災」と言えるでしょう。
1 中国残留孤児
『ソ連兵へ差し出された娘たち』(集英社)が話題になっている。満洲の敗走で、暴行や略奪を恐れた日本の移民団が、ソ連(現ロシア)兵を「接待」するために10代後半から20代前半の女性を提供した、という史実に迫る本だ。ロシア革命当時「赤軍」と呼ばれた軍隊に対し、ボリシェヴィキは民衆からの略奪・暴行は許さないと通告した。しかしそれは、勝つか負けるか生か死かという内戦状態下のことであって、それがどれだけのものだったか疑わしい。そして第二次世界大戦終了は、それから30年後である。正規軍となった「ソ連兵」は略奪した時計を腕一杯にかけ、ジャラジャラ音を立てていたという。女子への暴行も、澤地久枝や無名の方の私家版での報告など(五木寛之も)、多くを目にした。ソ連が中立条約を一方的に破って、雪崩を打つように来ることを知った軍部や高級役人・技術者は、とっくに姿を消していて、開拓民が残された。彼らを襲った中に、多くの満州人たちがいたことは前も書いた。
こんな結末が予想出来なかったわけではない。移民政策は「入植」と称して、現地の人間が丹念に耕作した土地を安く買い上げたり、ひどい時には取り上げた。これらを「やってることは泥棒だ」と批判したのは、満州事変の仕掛人・石原莞爾(かんじ)だ。真面目だった日本人もいた。だからその後、逃げた家族に置いて行かれた子どもたちが殺されもせず育てられ、いわゆる「残留孤児」になったと思っている。
2 明治維新
明治期は「結核」の話。当時、治療に莫大な費用を必要としたこの病気は、都会のぜいたくな連中の病気と思われていた。農村には縁のないものだった。しかしこの病気は、繊維産業の勃興(ぼっこう)と共に大流行する。始めは廃藩置県なる大ナタのせいで、今の人口に換算すれば800万という士族が路頭にさまよう。これに伴い、その子女たちの仕事先として現れたのが繊維工場だ。その後、全国に建設された新規工場の増産による大量雇用の創出がされ、農村が労働力供給の機関となっていく。どうしたものか、都会の工場から帰郷した娘たちの多くが、原因不明の病気で倒れる。きれいな山間の空気を吸っていた農村の娘たちは、工場に舞う繊維の粉塵を吸うばかりではない、劣悪な宿舎と食事という結核菌の喜ぶ環境で身体をむしばまれた。
そんな時代のもっと前にさかのぼれば、農村で「労働力」とならない女は、生まれた瞬間「間引き」の対象となった。あるいは自分を養う家計の工面のため、そして「給料の前借」でお金を家族に残すため、お父さんお母さん行ってきますと出立した。彼女たちが両親を憎むことがなかったとは、本当の話なのだろうか。また、このような遊郭への道と比して、「結核」は近代社会のもたらした改善という見方は出来るのだろうか。いずれにせよ、明治の「貧は四百四病の一番につらいもの」ということわざは、のちの時代にも当てはまった。
かつて世界に進出した欧米が、各地に潜伏していた風土病を持ち帰った。最近ではエイズがそうだ。以前にレポートしたが、エイズはアメリカの下層労働者がアフリカに行って持ち帰ったものだ。力の弱いエイズのウィルスは、普通は感染を広げることがない。始めは同じ注射での薬物回し打ちで、この脆弱だったウィルスが拡がる。追い打ちをかけたのが、帰国後にやった血液センターへの売血である。
貧困は病を拡散する。いや、天災は弱者を襲うのだ。
☆後記☆
いやあ、やっぱり降りましたね。雨戸を開けてびっくり!でした。雪かきしてる間にだいぶ解けたし、金木犀の枝からも落ちてしまったけど、雪景色です。愛車もちらっと見えます
オリンピック、スノボのハーフパイプだけ見てます。あの「自由」って感じが好きなんです
あと、あの愚劣なインタビュー、どうにかなりませんかね。そっとしておくという配慮・態度があるんだということを、この連中は知りませんよね。