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実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

NATO 実戦教師塾通信八百一号

2022-03-25 11:50:48 | 戦後/昭和

NATO

 ~ウクライナ侵攻・補(2)~

 

 ☆初めに☆

三日間の砲撃は「悲劇」だが一年間を越える砲撃は「日常」だ、と言われるような感覚が、私たちにも忍び寄っている気がしています。何とか出来ないかという気持ちが次第に希薄になり、注意力が散漫になる。その結果、送られてくる映像も「すでに見た」「見慣れた」ものとなる。ゼレンスキーの「日本の皆さんは、ふるさとに戻りたいという気持ちが分かると思う」という二日前の演説が届けているものを、しっかり受け止めなければなりません。

こんな時、私たちに出来ることはちっぽけなものです。でも、事態を見誤ることのないように、歴史の罠にはまらないように、やっておけることはある気がします。戦争は善悪を越える怖いものだという認識は、やはり忘れてはなりません。今回は、NATOが何をして来たか、いまどんなことを考えているのか、というレポートになります。

 

 1 「パンドラの箱」

 1989年~1991年のソ連(現ロシア)崩壊は、ソ連・ワルシャワ条約機構下の東欧諸国にドミノ倒しを起こす。ソ連とたもとを分かった国々が、それまで敵対していたNATOに加盟する。また、東西に分かれていたドイツの東側が、西ドイツに併合する。このことを欧米の策略だと、プーチンが言っている。この発言の意味することは、ソ連(私に言わせれば「帝政ロシア」だ。国旗も当時のものが復活した)へのノスタルジー、そして復権である。この欧米NATOの東欧への拡張に関しては、ゴルバチョフも怒りをこめて抗議する。「書面にはしなかったけれど、約束した」とウクライナ問題の、このさなかでも言っている。我々が弱っている中での出来事だ、まるで火事場泥棒じゃないか、と言っているわけである。これが表面で展開されていることだ。

 人類は様々な「パンドラの箱」を開いてきた。遠いところでギリシャ神話、近いところで戦後や中東、バルカンで発生した。「パンドラの箱」が解き放ったのは、自由や平等を求めた動きばかりではなかった。強権で抑え込まれていたのは、民族や文化、宗教の違いもあった。それらがくくりを解かれて一気に噴き出す。分かりやすい例で言うと、イラク戦争でフセイン政権が倒れた時だ。人権ばかりではない、利権や各宗派が部族間で入り乱れた。「アラブの春」は一瞬だけ希望をともした。しかし独立や自立が、簡単に進むものではなかった。米軍もまったく介入不能だった事がそれを示している。

 

 2 不可欠だった不均衡

 ウクライナと袖を接するバルカン半島はソ連解体後、この「パンドラの箱」の複雑な様相を見せた。戦後、社会主義体制のもとで連邦国家となったボスニアは多民族国家だ。人々の見た目も言語も全く同じだが、セルビア人とクロアチア人、そして「ムスリム人」(イスラム教を基盤とした民族)三つの民族で構成される。地図で分かる通り、ボスニアにはセルビアとクロアチアが隣接している。ソ連解体前、これらの国々は社会主義体制の連邦国家・ユーゴスラビア(南スラブ国)として、共存していた。

『サラエボ旅行案内』より

これらの国々が、ソ連の解体とともに独立を始める。クロアチアの独立に伴い始まった内戦に、ボスニアは動揺した。れっきとしたクロアチア人、そしてセルビア人が、ボスニアには居るからだ。ボスニア国内でクロアチア人・セルビア人・そしてムスリム人の対立を避けるためには、この三者の合意がなされるまで連邦制の維持を続けることが必要だった。しかし欧州共同体(EC)は、合意を待たずポスニアの独立を宣言してしまう。1992年のことだ。セルビア人もクロアチア人も、それぞれの土地と利権を拡げるため本国に支援を求め、ムスリム人は国外に支援を求める。ここで、2年半にわたる20万人の死者を出すボスニア内戦が始まる。1984年開かれた冬季オリンピックの会場となったサラエボを、40代以上の人間なら覚えているはずだ。サラエボは美しい山々に囲まれた、歴史的景観があふれた街だった。それが無残に破壊される。

 ここにNATOが登場する。「停戦のため」の空爆を、NATO軍は行うのである。ボスニアの独立という、戦争のきっかけを作った欧州が「責任をとる」というわけだ。平和協定は、やっと1995年に「仮調印」される。そして現在、ボスニアには5人の大統領がいる。国家連合となったボスニアでは橋を歩いて隣の国まで、マックを買いに行くことが日常となっている。

 ゼレンスキーが積極的介入を求めるが、NATO軍は今回、動こうとしない。プーチンの「第三次世界大戦」「核も辞さない」威嚇(いかく)におじけづいたこともあろう。しかし第二次世界大戦、ドイツとロシアが東欧を自分たちの「国境」とし、両方から挟み込んだ凄惨な戦争を展開したのである。その歴史が、現在も影を落としていることを押さえておきたい。(続)

 

 ☆後記☆

昨日から福島にいます。暮れに新刊を届けるため一瞬だけ訪れたのを除けば、半年ぶりとなります。しっかりと根付いた空気に触れて、落ち着こうと思います。写真は二枚とも千葉県・柏です。

これは近くの小学校。一本だけ桜が満開でした。下の写真は、増尾の城址公園。桜は全く咲いてませんでしたが、菜の花が咲き誇ってました。

先週のこども食堂の報告は、次号でしたいと思います。充実した楽しい「うさぎとカメ」でした


お墓参り 実戦教師塾通信八百号

2022-03-18 11:49:30 | 戦後/昭和

お墓参り

 ~ウクライナ侵攻・補(1)~

 

 ☆初めに☆

すっかり春めいたというのに、朝のニュースをつければ、当然ですが気分は晴れませんね。

どこからやって来たものやら、今年初めて庭に小さな水仙が咲きました。けなげで一生懸命な姿です。

ウクライナのことで二回書きました。でも、ちっとも他のことを書こうという気持ちになりません。あと何回か、ウクライナに関することを書いていこうと思います。

 ☆☆

吉本隆明のお墓参りに誘われて、初めて行きました。ウクライナのことがあって気持ちもそぞろでいたことを幸い、吉本さんの前で何かつぶやいて来ようと思ったわけです。そして、誰でもいいので何か話して来たいと思ったのです。

 

  1 イラク戦争

 築地本願寺和田堀廟所。

 佐藤栄作や樋口一葉、海音寺潮五郎や内田吐夢など、挙げればきりがないお歴々のお墓が一杯だった。ここに吉本さんのお墓があるというのも、どんなわけがあったのか。

 参加メンバーは、若くても50代前半。あとは60年安保世代に始まり、私たち68/69年世代である。なのでこれはもう、老人たちが集合&行列してのお参りである。

 吉本さんの遺影とともに、みんなで手を合わせる。

 呼びかけ人の三上治さん。ここの読者には馴染みがないかも知れないが、60年安保からずっと戦い続け、今も経産省前の反原発テントで座り込みを続けている方だ。

 前にここで少し触れたが、体さえ許すならウクライナの兵隊として志願したい、と言ったのは三上さんだ。60年代のベトナム反戦闘争のさなか、ベトナムに行って米軍と戦いたいと吉本さんに言って、優しく諭されたともいう。

 今回のウクライナからの「志願兵要請」があってすぐ思い出したのが、イラク戦争の時に高遠さんたちがゲリラの人質となった時のことだ。吉本さんがこの頃だったのだろう、多摩川のタマちゃんこと、アザラシの闖入(ちんにゅう)を取り上げて言ったことだ。

「タマちゃんを守れとか、環境汚染を何とかしろとか言ってるけど、アザラシは自分で勝手に多摩川にやって来た。汚くて嫌だと思ったら自分で出て行く。それだけのことなのに周りが勝手に騒いでいる」

大きなお世話だ、のような言い方だったと思う。高遠さんたちの行為に対して、小泉元首相が「自己責任」と言ったことが、未だに四文字熟語として残っている。また言うが、この時の米国務長官・コーリンパウエルが「立派な行いを、日本人はどうして非難するのか」と言ったのとは、見事な対照だったわけである。さて、吉本さんはどっちの方だったのだろう。恐らく、本人の意思を他人はどうこう言うものじゃない、みんな(日本)に迷惑だとか日本は国民を助けろとか、どっちも同じ土俵で相撲を取ってるのさ、という意味だったはずだ。

 実際、高遠さんは、イラクにいるのがどんなに危険なことか自覚していたつもりです、その結果について自分は責任を負うつもりでいました等ということを言っていたし、救出の直接的関与と力は、現地の部族長による「お前たちの捕らえたという捕虜が、どういう類の人たちか分かっているのか」という、ゲリラへの説得だったのである。

 いま思い出しても恥ずかしい、空港で「非国民」「自己責任」というプラカードを持って高遠さんたちを出迎えた連中は、まさに「戦争」という姿を露出していた。高遠さんは、イラクで困った少年たちにクツ(だけではない)を配っていただけなのだ。

 ウクライナ・キエフの独立広場で地元のオーケストラが、演奏会をしたという。勝利か敗北か、生か死か、賛成か反対かだけが問題になるのが戦争である。それはそれだ、しかしそうではない力を私たちは持っている、とコンサートは訴えているかのようだ。

 

 2 輸送トラック

 さて、小泉元首相のことが出たので、あの人がもたらした多くの誤解をそのままにしておく手はない。確かに、原発政策に反対と転じたのはやはり大したものなんだと思う。政治家、それも総理まで務めた人間が「間違ってました」と言えるものではない。この辺りの人柄が、人気なのだ。しかしこの人は、その他にも規制緩和と称した社会再編によって格差社会への引き金を引いた。A級戦犯なのである。そして、イラク戦争への積極的関与がある。イラク人道復興支援特別措置法を強行、今度は「閣議決定」で自衛隊派遣を決める。戦争に行くのではない、戦闘行為はいたしませんと言いつつ、危険だからといって人的な貢献はしなくていいのか等と、極めて小泉さん的矛盾溢れる熱弁を振るった。湾岸戦争で「日本は金しか出さない」と、当事国クウェートからさえ揶揄(やゆ)されたトラウマに悩まされていた時、この時に小泉劇場が開いたのだ。

 多くの苦労と運のおかげで、誰も殺さず誰も死なずにイラクに派遣された自衛官は帰国した。それが奇跡的だったことは、多くの現地レポートが語るところだ。同時に、高遠さんの例もそうだが、民間国際貢献のNGOが、この自衛隊派遣によって活動をやめ帰国している。彼らがやった支援は、例えば自衛隊がやった給水の数百倍と言われる。日本の民間貢献活動は、国際的にも相当に評価の高いものだったという。そこに重装備で迷彩服の自衛隊員がどうして行くのか、とは防衛省元幹部の発言である(『我、自衛隊を愛す故に、憲法9条を守る』より)。

 ウクライナ・キエフの国境に迫りつつ待機している軍用トラックの車列を、私たちはこの目で見た。トラックが戦闘に必要な物資を運ぶことが紛れもない軍事行動であるのを、私たちは見て疑わなかったはずだ。ところが、イラク戦争の時の小泉元首相によれば、戦闘に参加せず後ろから支援物資を運ぶだけ、これが戦闘行為と言うなら電信柱に花が咲くですよ、と今聞いたら信じられないことが言われていた。

 戦争が間近になる時、そして戦争中、国は平気でうそをつく。覚えておかないといけない。

 

 ☆後記☆

地震、びっくりしましたね。千葉県・柏は震度4だったそうですが、これでも震度4?と思うような揺れでした。あの日あの時の気持ちを思い出させる揺れでしたね。昨日、楢葉の渡部さんに電話しましたが、醤油さしが落ちたよ、と笑っててよかった。あちらは震度6ですからね。蔓延防止とやらも解除されるようだし、やっと福島に行けます。

こども食堂「うさぎとカメ」、明日ですよ~ 雨は朝には止むようです。良かった。寒の戻りでしょうか、寒いですね。トン汁で温まってくださいね


叛乱 実戦教師塾通信七百九十九号

2022-03-11 11:43:45 | 戦後/昭和

叛乱

 ~ウクライナ侵攻・下~

 

 ☆初めに☆

ウクライナは世界をひとつにしている、いや、世界がひとつにならないといけないと訴えています。皮肉なものですが、100年前に平和を訴えたのは今回の戦争の仕掛人、ロシアでした。人道回廊なる緊急避難の提案に対し、我が国に通じる道なら承認しようという盗人猛々しいロシアが、100年前は世界に平和を訴えていたのです。戦況から考えれば、ウクライナの徹底抗戦とは、100年前のロシアの「叛乱」の姿です。今回の戦争を考える上で、100年前のロシアから多くを学ばないといけないと思いました。

 

 1 戦争を考える

 ウクライナ問題を考える前に、戦争そのものについて考えたい。今回の戦争で断罪されないといけないのがロシアであることは言を待たない。それでもこんな時だからこそ、戦争がどうあっても避けられない「悲惨」を考えないといけない。この時期、東京大空襲が話題になっている。「何の罪もない市民が」「もっと早く降伏してくれれば」という言葉が毎年、紙面・画面で繰り返される。「国民はみんな戦争を嫌がっていた」とも言われる。そうなのだろうか。戦争に協力しないと非国民呼ばわりされた、それは軍部のせいであって、戦争をあおった教育のせいだという。穀物・資源を求め、国内人の流出を目的とした朝鮮・中国への侵出という前提は省くが、太平洋戦争の最終的なきっかけは、アメリカの「日本への石油禁輸令」(1941年8月)だ。勤務していた軍需工場で、私の父は通訳として重宝されていた。この事実が示すのが、戦時中もアメリカとの交易があったと理解するのは、私が社会人になってからだ。それまでも数々の経済制裁を受けていた日本が、勝負に出た。経済制裁をなめてはいけない。4か月後に真珠湾攻撃が始まる。12月8日は、日本国中が熱気の渦だった。この興奮を記した母の日記を、以前掲載した。

 今回の経済制裁でロシアはますます怒り狂う、ということを言いたいのではない。戦争のただ中にいれば、冷静な考えや判断がひどく危うくなる、ということだ。日本人が日中戦争・太平洋戦争をひどい戦争だと思うようになるのは、ついに学徒出陣というあたりになってからのようだ。それでも神風特攻隊は、子どもたちのあこがれとして、国民の英雄として1944年に登場した。

 海外にいたウクライナ人が、兵隊に志願するために次々と帰国している。その数は2万、あるいは3万と言われる。18歳から60歳までのウクライナの男子が出国禁止とは、いわば総動員体制だ。そして、徹底抗戦、最後まで「降伏しない」というゼレンスキー大統領は、90%の支持を得ている。普通ではありえないことが起こっている。これが戦争なのだろう。こんな信じがたいことを起こした原因は、プーチン以外のなにものでもない。知り合いだが、年齢さえ許すならウクライナの要請に応じて兵隊に志願するところなのだがという。このウクライナからの兵隊志願要請が、日本政府は「海外での武力行使にあたる」ため許容できないとの結論にいたった。そして先日、防弾チョッキをウクライナに供与するにあたっても、武器提供に当たらないかと、慎重に検討された。

 湾岸戦争以降、ずい分よれよれになった「戦争放棄」だが、改めて憲法9条の意味を吟味している。

 

 2 ウクライナの独立

 第一次大戦中、ウクライナの独立はレーニンが承認したという、どこかのニュース解説を小耳にはさんだ。これは正確には史実と違うはずだ。今回のウクライナ侵攻の停戦協議の会議場所にいっときブレストが浮上したが、このブレストは因縁の場所だ。ドイツがレーニン率いる革命政権(以下「ボリシェヴィキ政権」と表記)を妥協に追い込んだ場所だ。ボリシェヴィキが帝政ロシアを崩壊寸前に追い込んでいた時、ドイツ・イギリス・オーストリア・イタリアなどの帝国列強は、植民地/資源をめぐり世界を分割し大戦をしていた。しかし、帝国のひとつロシアが労働者国家になろうとした。列強は恐怖し革命に「干渉」する。帝国ロシアと戦争をしていたドイツさえ、優先順位はボリシェヴィキ政権をつぶす方になる。そこでボリシェヴィキ政権は、世界中に戦争即時全面停止(全面講和)を訴えた。訴えたのはもちろん、帝国列強にではない。民衆に対してだ。世界の人々が、この訴えに呼応する。

 「パンをよこせ」「戦争やめろ」等の抗議活動が世界中で起こり、革命を叫ぶ人々が現れた。しかし、その力は全面講和にまでは至らなかった。防戦一方だったロシアの富豪/富農たち、軍隊/将校たちの元気も回復し、コルチャックやデニキンなど将軍たちを先頭に激しい反撃が始まる。講和に応じなかったボリシェヴィキ政権も、ドイツの激しい攻撃で、首都はペトログラード(現ペテルブルグ)からモスクワに移転。仕方なく単独講和に応じる。この時ドイツの出した条件が、ボーランド・リトアニアの割譲、そしてウクライナの独立などだ。この単独講和を、おそらく「レーニンによる独立」と思ったのだろう。ドイツの占領と言った方が正しい。

 この単独講和のもたらしたことは大きい。まず言えるのは、ドイツ国内で戦争反対を担っていた左派で、ローザルクセンブルグを始めとするリーダーたちは、見るも無残な姿で処刑される。ロシア国内では戦争に疲弊しきった(その数200万と言われる)兵隊たちが、戦線から離脱する。ボリシェヴィキ政権は、軍隊の民主化を「命令第一号」で出していて、例えば隊長は「選出」されるものとなった。兵役も一時期「志願制」となった。政権が出した政策のもうひとつ、それは地主が土地を明け渡すというものだった。多くが富農から収奪を受けていた農民からなる兵隊である。戦線を離脱した兵隊が農地に帰る。

 ウクライナの首都を、キエフから移転という話が浮上した。ゼレンスキー大統領はそれを拒絶し「徹底抗戦」を表明している。ゼレンスキー大統領の最後の砦は「団結した国民」である。それをプーチンは「人々を盾にしている」と言う。二つの主張は、恐らく紙一重のところで拮抗している。プーチンは「覚悟しろ」と言っているのだ。これが一理あるなどとは言ってない。

 分断されたウクライナの人々がどんな気持ちでいるのかを思いやることしか出来ないでいる、それが「戦争反対」という私たちの小さな声なのだと思うしか出来ないでいる。

 

 ☆後記☆

核抑止の論理が目の前で実証されています。核兵器を持つということは、世界中の人々をおとりにすることです。プーチンが原発に攻撃を加え占拠したことで、今更ながら私たちは核の力と恐怖を思い知りました。原発規制項目「テロ攻撃にも耐え得る施設強化」が、いかに空しいものだったのか、今回の戦争で知ることとなりましたね。

今朝のニュースで、桑子さん、思わず涙ぐんでました。切ないですね。

二年前だったか、この写真を載せた気がします。大津川の堤防です。二年前は反対側が整備されてたところを撮りました。今年は向かいがきれいになって。春よ来い

同じく近くの梅林です。春よ来い


帝国 実戦教師塾通信七百九十八号

2022-03-04 11:49:20 | 戦後/昭和

帝国

 ~ウクライナ侵攻・上~

 

 ☆初めに☆

ロシアの提案する休戦の条件が、思い通りにウクライナを分割するのが狙いであることは間違いありません。それで早く戦果を出そうとしている。今回の戦争について早く書いて、と多くの読者からリクエストいただきました。事態の進展に気がはやりますが、どうすればいいかなんてのではない、どうなっているのかという点でのレポートになります。悲観的な内容になるかもしれませんが、しっかり見るためつかんでおきたい、と思っています。

(参考文献‥和田春樹/長尾久/松田道雄/田中克彦/高島俊男/竹内好 各氏著作 レーニン全集など)

前回の続きは、この二回の投稿が終わってからにします。

 

 1 どこまで拡げる気か 

 最初に断っておかないといけない。この「帝国」に関するレポートは、あくまで「帝国」的体質が繰り返し現れるという意味であって、その国の民衆全てがそうであるわけではない。そうでなければ「改革」やら「革命」は起きない。以上が前提である。

 ロシアの今回の侵攻は、一体どこまでエリアを目論んだものなのだろう。八世紀頃と言われるが、ノルマン族の一派「ルス族(ロス族)」がスラブ人を同化した。これが後の「ルシア(ロシア)」になる。言わずと知れたゲルマン人大移動の、約四世紀後だ。つまり、スラブ地域の民族として、あるいはノルマン入植後に土着したのが「ロシア」ということだ。こうして汎スラブ主義と言われる思想は、広いエリアを抱える。この「スラブ」を冠した国が、現在のセルビア、スロバキア、スロベニア、そして今はボスニアとなった、かつてのユーゴスラヴィアと考えれば、その広さが分かる。これが西のゲルマン世界(汎ゲルマン主義)との歴史的対立として続く。ことのついでに言っておけば、このあと南からイスラム世界が登場し、民族対立に宗教の対立が加わる。バルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」と言われるゆえんである。

 では、ロシア東部への広がりはどうか。日本で蘭学や国学が盛んだったころ、ロシアではまだ「農奴」として、人身売買が行われていた。領主に開墾するよう命じられた農地だが、納税や労働の厳しさにそれを捨てて逃亡する農奴もたくさんいた。彼らは辺境やボルガやドンの河に逃げた。そこまで追跡して来た警察や軍隊と戦うも(プガチョフやステンカ・ラージンが有名)鎮圧される。逃亡先となった地での仕事が「国境警備」だった。そして帝国の手先として、ポーランドやシベリアへ領土を広げる。最近のニュース上でよく聞く「エカテリーナ女帝」の時代だ。この女帝は東方のシベリアを越え、ベーリング海を越えてアラスカまで、そして凍ることのない海港を求めてサハリンまで進出。この時、江戸幕府・老中(松平定信)は、千島の警備を命じた。エカテリーナ恐るべし。

 暴力性・戦闘性にたけていたのが、今や農奴から帝国の先兵となったドン河沿いのドン・コサック(カザック)である。ロシア革命の発端となった「血の日曜日」(1905年)では、皇帝請願に向かった丸腰の民衆にサーベルと馬で突っ込んだのも、このコサック隊だ。このコサックがカザフ(カザック)地方として、名前を残している。ロシアはどこまで?と聞かれた時、帝国の時代を引き継ごうとするものは、以上の広大なエリアを思うに違いない。これに対抗してあるのは、汎ゲルマン主義として、世界で最も優秀なドイツ民族、という考えである。いまも繰り返し立ち現れるネオナチの台頭は、そのことを示す。

 

 2 中華

 この記事のテーマではないが、ロシア侵攻に中国がどう対応するか目が離せない。スキに乗じて台湾・尖閣諸島、そして沖縄まで虎視眈々としているという見方を、ばかばかしいとは言えない。ので、中国が自らの国土をどのように考えているか押さえておこう。前に書いたが、中華人民共和国の「中華」という呼称は国ではない。「中華」は中国を支える思想を指すもので、英語で中国が「 People's Republic of China」とある通り、中華なるものは見当たらない。差別的名称と言われる「China(シナ・支那)」は、しっかり残されている。というか、古くからの呼び名が「使ってはいけない」言葉となったのは戦後で、日本に対してである。今も蔑(さげす)みを込めて言われる「シナ人めが!」という言動を、戦争中に多くの日本人がしたからである。オメエらには言わせねえぞ、という中国の思いがある。

 シナはさておき、この「中華」がくせ者である。世界の中心はここに、という意味だ。では今度は「スラブ」でない「中華」なるものは、どこまで延びるのか。これが「東夷・南蛮・西戎・北荻(とうい・なんばん・せいじゅう・ほくてき)」という通り、どこまでも延びる。方角を示すあとの漢字の意味は、何となく分かると思うが、すべて「けだもの・虫けら・くず」といったもので、そんなものは蹴散らしてしまえというのが「中華」だと思うと、背筋が寒くなると同時に納得できるわけである。最近の南シナ海での傲慢な行動やネパールへの侵出。遠いところでは、ベトナムへの軍事介入(1979年)は、ベトナム戦争が終わった4年後である。まぁそれぞれに中国の言い分はあるのだが。そしてウィグルや台湾、香港は自国の内政問題だということになる。

 我々はすでにシルクロードで偉大な「中華」を実証している、次は「一帯一路」(習近平)というわけだ。中国にすれば、別に目新しい考えではない。帝国ロシアを上回る、広大な世界制覇路線と言える。繰り返すが、私のロシアや中国への批判は、みんな「帝国の野望」を持って突き進んでいる連中に向けている。お間違いなく。

 

 3 ロシアの人々

 もう字数が十分にかさんだので、帝国の対極にある民衆のことを少しだけ。世界中で今回のロシア侵攻に対して抗議行動が起こっている。ロシア国内も然りである。それに対して日本の軟弱な評論家どもが、ロシア国民の抗議は生ぬるいという非難を浴びせている。ナバリヌイ毒殺事件が、まだ記憶に生々しいというのに、命をかけろみたいなことまで言ってるやつもいるわけである。プーチンを批判する次期大統領立候補者という、それだけで殺される。ヨーロッパ、とりわけドイツ・メルケルの力が大きいが、ドイツで治療してなんとか助かったという事実が語るのは、ロシアの政府を批判することが「命がけ」であるということだ。ついでながら、ナバリヌイを治療したロシアの医師は、その後原因不明の急死を遂げている。パワハラのおかげで上司に物が言えないなんていう、どっかの国のレベルではない。ロシアの人々も戦っている。

 

 ☆後記☆

日本にそういう「帝国」の思想はないのか、という危惧も出て来そうですね。そう言えば「八紘一宇」なるものが、日本では良く話題になります。先日もタレントをリタイアした、無知な議員が国会で誇らしげに言ってましたね。日本が「神の国」であることには、私も異存はありません。でもそれは、日本書紀に始まるなんて新しいもんじゃない。日本の神は石や木や山に宿る。そんな風に始まり根付いてるって話は、またどこかでいたします。

次回は、帝国ロシアとロシアの人々、そしてスラブ圏の人々が現在までどう歴史を歩んできたのか、というレポートになります。引き続きよろしくお願いします。

今月のこども食堂「うさぎとカメ」まで、あと二週間となりました。会食再開しますが、皆さんきっと、お持ち帰りの方が多いのではないか、と私たちは思ってます。いずれにせよ、また皆さんの笑顔が見られることを楽しみに、あったかいトン汁を作りたいと思ってます。よろしくお願いします

チラシ裏面です。拡大して読んで下さいね。

先月の「うさぎとカメ」は、全市的に学級閉鎖が渦巻く中だったので、シチューはたくさん余るんではないか、という私たちの予想でした。しかし、いつものような「一気」ではく、切れ目なく訪れるこの日の皆さんで、シチューは「完売」となりました。小さい二人だけで来たお客さん、激しい兄弟げんかを続行しながら来てくれた五人家族など、みんな笑顔で帰ってくれて嬉しい一日でした。また、今月もおいでください


芥川賞 実戦教師塾通信七百九十六号

2022-02-18 11:18:32 | 戦後/昭和

芥川賞

 ~孤塁墜つ~

 

 ☆西村賢太☆

西村賢太が死んだ。亡くなったでなく、やはり「死んだ」のだ。タクシーの中での急変だったという。最後まで凄味があったと言うほかはない。「成功」ではなく「性交」を目指したなどと、人は言うのかも知れない。でも西村は、だからどうしたと言うに違いない。

私は西村のまとまったものとしては、芥川賞の受賞作『苦役列車』しか読んでない。でも、東日本大震災直後、風俗と満腹を求めて裏町をさまよったことを公言する、また「挫折した時にお勧めの小説を教えてほしい」という誌上相談にも、マニュアル本ばかりの世の中に言うことはないとつばをはく。そして一時期、夕方のニュース解説者だった頃は、バイトの悩みを打ち明ける女子高生に「世間知らずの甘ったれの悩み」と言って翌日には解説者をクビにされていたこと等、挙げればきりがない西村の「本音」を、私は好きだった。

石原慎太郎の推薦が無かったら、西村の『苦役列車』に出会うことはなかった。石原は2012年、芥川賞選考委員を「最近の小説がつまらなくなった」と言って辞めることを宣言した。その二か月後に、西村の作品を絶賛したのだ。酔っぱらった収監がきっかけで、西村が知ることとなった作家を忘れることは出来まい。その藤沢清造に西村が取りつかれたことを、石原はどう評価したのだろう。西村は藤沢の著作集のため「自費出版」をしている。西村がいなかったら、無名の作家なのだ。このため費やした600万円は、出版社が自己負担したらしいというのも、いかにも西村の魅力なのだ。

距離をおいてこそ、魅力を感じることが出来る。それが西村賢太だったのだと思う。さしで飲むことを躊躇させる拒絶感と、人懐こさを併せ持っていたんだと思えて仕方がない。まるで石原慎太郎を追うように死んでいる。残念だ。

 

 ☆石原慎太郎☆

死者に唾することを嫌う国民性は、石原の死後「石原節」として、肯定的にあふれ出た。民主党政権時に「尖閣列島を東京が買い取る」ことをぶち上げたことを、当時の首相が懐かしんでいる辺りは、全く絵にならない。懐かしむなら、全く解決能力の欠けていた政権で申し訳なかった、ぐらいに言って欲しかった。あるいは、そもそも中国が尖閣諸島に秋波を送るきっかけは、この海域周辺に資源のあることが判明したからだ、あの時もっと中国に毅然とした対応を取るべきだったとか……言えるわけないか。

一方その反動で、第三国発言や女性蔑視問題、障害者差別問題(津久井やまゆり園事件)などを遅ればせながら取り上げるメディアもあったりしたのだが、私が以前見た強烈な石原の「陰」は、誰も取り上げなかった。

熊本県・水俣病の患者施設を、環境大臣として石原が訪れたのは1977年だった。患者に水俣病の抗議文を手渡された石原はその夜、会見で「これ(抗議文)を書いたのはIQが低い人たちでしょう」と発言。このことで患者の前で土下座の謝罪をすることとなる。「陰」とは、土下座のことを言ってるのではない。石原が患者と初めて対面した時の映像だ。患者が不自由な身体で、石原に抗議文を手渡す場面だ。立ったままの石原は、明らかにおびえた表情で後ずさったのである。それは「畏敬(いけい)」という、相手への敬意を表すものではなかった。「恐怖」のものだった。様々な個性の強い主張を、強面(こわもて)で言って来た石原の姿は、この時完全に失せていた。この時に私が感じた「所詮は坊ちゃん・ボンボンだ」という石原への覚醒は、その後ずっと生き続ける。

そんな石原が、西村賢太を「真っ当に」評価する。『苦役列車』の解説はやっぱりいいのだ。文学の底の深さを思う。

 

 ☆『響』☆

当ブログ625号『響』が、結構読まれる日がここのところ続いた。芥川賞発表のあたりだったので、探したらヒットした、という感じだろう。原作者は、出版界の現状をよく分かってるらしい。芥川賞受賞者で、作家として今も生計をたてられてる人は、一体何人いるのだろう。私が読書特集で取り上げた芥川賞受賞作はそこそこにあるのだが、その後ほとんど生き延びていない。多くが、読者の「ないものねだり」とも言える「ニーズ」に応えようとして、安っぽいリアリティに走るからだ。「自分流」を貫いて、メジャーな芥川賞という場所に到達し出発するということをやり遂げている人は、ひと桁しかいないように思う。

もの書きのひとりとして、頑張りましょうとエールを送ります。

 

 ☆後記☆

ここのところ、私の新刊『大震災・原発事故からの復活』に、ありがたいサポートが入ってます。読者からの感想が何よりです。

「あんないい本だけど、あれは売れないな。福島のことはみんな他人事だからな」

とは、思いがけず最初に感想をくれた、剛柔流・空手道宗家の山口剛史先生です。去年暮れの電話でした。喜べない感想なのですが、やはり「いい本」が嬉しかった。ここの読者からは「もう少し内容を教えて」なるリクエストも何件かいただいてます。ということで今回、「目次」を掲載します。

改めて、まだ読んでない方、ぜひ読んで下さいね。注文は出来たら「https://bookehesc.base.shop/」まで。

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さて、こども食堂「うさぎとカメ」、明日となりました。お近くの方(遠くでもOK)、ぜひいらしてください。

お天気はいまいちみたいだけど、煮込んだ牛すじシチューであったまりましょう