古代を考える場合、どうしても何らかの図式で眺めてしまいがちですが、その一例が、仏教導入時における排仏派と崇仏派の争いという図式です。この図式は、次第に疑われるようになっており、天皇後継者をめぐる物部氏と蘇我氏の対立という面が強かったと言われるようになっています。
この問題を再検討し、排仏派と崇仏派の争いという図式が生まれたのは明治時代以後であると論じたのが、
有働智奘「神祇と仏教伝来」
(岡田荘司編『古代の信仰・祭祀』、竹林舎、2018年)
です。この論文に続く同氏の「日本における仏教伝来の虚構と実像-近世、近代の『日本書紀』解釈を通じて-」(『古代史の海』100号、2020年8月)もこの問題を扱い、副題の面を加筆しています。
有働氏は、仏の像らしきものの鋳出されている鏡、あるいは佐波理椀や華瓶など仏具と思われるような品が6世紀の各地の古墳などから出ていると述べ、中国南朝の仏獸鏡の性格に触れたうえで、日本のそうした古墳では仏教祭祀をした形跡がないため、それらは貴重な供具として祭祀で用いられただけであって、仏教の信仰とはみなせないと説きます。そもそも、こうした鏡の像を仏と認定するようになったのは、明治以後の由。
ついで、『元興寺縁起』が538年とし、『日本書紀』では552年とする仏教公伝の年をめぐる諸説について概説し、百済の暦に基づく松木裕美氏らの548年説については論じられることが少ないと述べます。そして、古代朝鮮三国の仏教史である『三国遺事』と百済の歴代王の年表である「百済王暦」は年代が14年ずれているとし、このずれはまさに538年と552年の違いと一致すると指摘します。つまり、『日本書紀』は『三国遺事』の系列の資料、『元興寺縁起』は「百済王暦」の系統の資料に基づいている可能性があるのです。
そして、538年は百済が高句麗の圧力を受けて泗沘に遷都した年、552年は百済と新羅の国交断絶の年であることに注目したのち、近年になって百済の聖明王の即位の年が523年であることが明らかになったことから見て、聖明王26年時の日本への仏教公伝は、548年にとなると説きます。
次に、公伝をめぐる物部氏や蘇我氏の争いについて検討し、物部氏が仏教を排除したとは断定できないとします。物部氏が関与した『先代旧事本紀』では廃仏関連の記述がなく、物部氏には関連する寺があったというのがその理由です。
まず、物部氏の本拠地である渋川にあった寺は推古朝になってからの遺構であるため、守屋が創建したものではなく、物部氏が仏教を容認していたとは言えないとする説を紹介します。これについては、このブログでもとりあげました(こちら)。
ただ、有働氏は、渋川廃寺以外にも物部氏の創建と考えられる寺として、愛知県最古の寺である北野廃寺をあげ、近隣の真福寺は守屋の息子の真福が創建したという伝承があって、白鳳時代の仏頭が残っているとし、さらに物部氏の領地が多かった関東では、東日本最古の寺跡である寺谷廃寺も物部氏が関与していたことが指摘されていると述べます。
さらに、物部氏は百済との交流に関わっていた者も多く見られるため、仏教を知らなかった可能性は低いとします。また、物部氏は祭祀や軍事のほか、刑罰も担当していたうえ、仏教排除の行動は勅命によっているため、廃仏を立場としていたとは言えないとし、崇仏派とされる蘇我氏も神祇を祀っていたことを指摘します。
そこで問題になる仏教公伝をめぐる争いですが、この関連記事を崇仏派と廃仏派の抗争という形でとらえるようになるのは明治からだと有働氏は説きます。中世までの史書には、排仏・崇仏の争いとする記述は見えず、「排仏・崇仏」という用語自体、明治後期の国定教科書以前には見えない由。
このため、有働氏は、祭祀を担当していた物部・中臣氏が反対したのは、蕃神である仏陀の祭祀を宮中祭祀に組み込むことであったと推測します。蘇我氏が仏教を推進したのは、亡くなった三橋正氏が説いたように朝廷が氏族に「依託祭祀」させたものとし、敏達朝の仏教排除は、疫病をもたらした神を祓い、そうした神を信奉した人々を処罰したものと説くのです。
さて、いかがでしょう。公伝から仏教受容に至る過程を排仏・崇仏の争いとするのは、自寺の歴史と意義を強調する四天王寺などの資料に基づく面も大きいため、その図式をそのまま認めるわけにはいきませんし、この有働論文が指摘しているような面も考慮する必要があることは確かですね。
この論文では、排仏・崇仏という図式は明治以後とされていますが、上記の「日本における仏教伝来の虚構と実像」論文では、「排仏」「崇仏」という語を用いたのは、江戸時代の博学な国学者であった谷川士清の『日本書紀通証』であることを報告しています。ただ、谷川は「排仏」を儒者側の認識とするのみで神道側の認識には触れておらず、守屋については神道を守った人物としつつ、推古天皇を犯そうとした穴穂部皇子を擁護した朝敵と認識していたと述べています。
有働氏のこの2本の論文は、後代に生まれた図式であることを知らずに、その図式で割り切ろうとする姿勢の危険さを示していて有益です。ただ、氏は排仏・崇仏の図式を否定しようとして、物部氏も仏教を信奉していたことを強調しようとする傾向が見られるように思われます。
たとえば、氏は、物部氏も仏教を知っていたとする際、東日本で最も古い寺谷廃寺は物部氏が関与していたという点に着目しています。しかし、氏が依拠した酒井清治「埼玉県寺谷廃寺から勝呂は意義への変遷」(『駒沢史学』82号、2014年3月)では、酒井氏は、聖徳太子の舎人を務めた後に武蔵国造となったとされる物部連兄麻呂が比企の地を本拠地とし、そこに寺谷廃寺を創建した可能性があるとする森田悌氏の説を紹介し、「可能性の一つとして注目される」と述べていました。
これが正しい場合、寺谷廃寺は、物部氏の古くからの仏教信仰を示すというより、蘇我氏や聖徳太子の仏教興隆の動きの中で建立されたことになります。もう一つ重要なのは、物部氏とともに仏教導入に反対したとされる中臣氏が、後に藤原氏となって『日本書紀』の最終編纂時には強大となり、また熱心な仏教推進派となっていたことですね。
いずれにしても、近代以後の教科書的な図式は一度疑ってみる必要がありそうです。
この問題を再検討し、排仏派と崇仏派の争いという図式が生まれたのは明治時代以後であると論じたのが、
有働智奘「神祇と仏教伝来」
(岡田荘司編『古代の信仰・祭祀』、竹林舎、2018年)
です。この論文に続く同氏の「日本における仏教伝来の虚構と実像-近世、近代の『日本書紀』解釈を通じて-」(『古代史の海』100号、2020年8月)もこの問題を扱い、副題の面を加筆しています。
有働氏は、仏の像らしきものの鋳出されている鏡、あるいは佐波理椀や華瓶など仏具と思われるような品が6世紀の各地の古墳などから出ていると述べ、中国南朝の仏獸鏡の性格に触れたうえで、日本のそうした古墳では仏教祭祀をした形跡がないため、それらは貴重な供具として祭祀で用いられただけであって、仏教の信仰とはみなせないと説きます。そもそも、こうした鏡の像を仏と認定するようになったのは、明治以後の由。
ついで、『元興寺縁起』が538年とし、『日本書紀』では552年とする仏教公伝の年をめぐる諸説について概説し、百済の暦に基づく松木裕美氏らの548年説については論じられることが少ないと述べます。そして、古代朝鮮三国の仏教史である『三国遺事』と百済の歴代王の年表である「百済王暦」は年代が14年ずれているとし、このずれはまさに538年と552年の違いと一致すると指摘します。つまり、『日本書紀』は『三国遺事』の系列の資料、『元興寺縁起』は「百済王暦」の系統の資料に基づいている可能性があるのです。
そして、538年は百済が高句麗の圧力を受けて泗沘に遷都した年、552年は百済と新羅の国交断絶の年であることに注目したのち、近年になって百済の聖明王の即位の年が523年であることが明らかになったことから見て、聖明王26年時の日本への仏教公伝は、548年にとなると説きます。
次に、公伝をめぐる物部氏や蘇我氏の争いについて検討し、物部氏が仏教を排除したとは断定できないとします。物部氏が関与した『先代旧事本紀』では廃仏関連の記述がなく、物部氏には関連する寺があったというのがその理由です。
まず、物部氏の本拠地である渋川にあった寺は推古朝になってからの遺構であるため、守屋が創建したものではなく、物部氏が仏教を容認していたとは言えないとする説を紹介します。これについては、このブログでもとりあげました(こちら)。
ただ、有働氏は、渋川廃寺以外にも物部氏の創建と考えられる寺として、愛知県最古の寺である北野廃寺をあげ、近隣の真福寺は守屋の息子の真福が創建したという伝承があって、白鳳時代の仏頭が残っているとし、さらに物部氏の領地が多かった関東では、東日本最古の寺跡である寺谷廃寺も物部氏が関与していたことが指摘されていると述べます。
さらに、物部氏は百済との交流に関わっていた者も多く見られるため、仏教を知らなかった可能性は低いとします。また、物部氏は祭祀や軍事のほか、刑罰も担当していたうえ、仏教排除の行動は勅命によっているため、廃仏を立場としていたとは言えないとし、崇仏派とされる蘇我氏も神祇を祀っていたことを指摘します。
そこで問題になる仏教公伝をめぐる争いですが、この関連記事を崇仏派と廃仏派の抗争という形でとらえるようになるのは明治からだと有働氏は説きます。中世までの史書には、排仏・崇仏の争いとする記述は見えず、「排仏・崇仏」という用語自体、明治後期の国定教科書以前には見えない由。
このため、有働氏は、祭祀を担当していた物部・中臣氏が反対したのは、蕃神である仏陀の祭祀を宮中祭祀に組み込むことであったと推測します。蘇我氏が仏教を推進したのは、亡くなった三橋正氏が説いたように朝廷が氏族に「依託祭祀」させたものとし、敏達朝の仏教排除は、疫病をもたらした神を祓い、そうした神を信奉した人々を処罰したものと説くのです。
さて、いかがでしょう。公伝から仏教受容に至る過程を排仏・崇仏の争いとするのは、自寺の歴史と意義を強調する四天王寺などの資料に基づく面も大きいため、その図式をそのまま認めるわけにはいきませんし、この有働論文が指摘しているような面も考慮する必要があることは確かですね。
この論文では、排仏・崇仏という図式は明治以後とされていますが、上記の「日本における仏教伝来の虚構と実像」論文では、「排仏」「崇仏」という語を用いたのは、江戸時代の博学な国学者であった谷川士清の『日本書紀通証』であることを報告しています。ただ、谷川は「排仏」を儒者側の認識とするのみで神道側の認識には触れておらず、守屋については神道を守った人物としつつ、推古天皇を犯そうとした穴穂部皇子を擁護した朝敵と認識していたと述べています。
有働氏のこの2本の論文は、後代に生まれた図式であることを知らずに、その図式で割り切ろうとする姿勢の危険さを示していて有益です。ただ、氏は排仏・崇仏の図式を否定しようとして、物部氏も仏教を信奉していたことを強調しようとする傾向が見られるように思われます。
たとえば、氏は、物部氏も仏教を知っていたとする際、東日本で最も古い寺谷廃寺は物部氏が関与していたという点に着目しています。しかし、氏が依拠した酒井清治「埼玉県寺谷廃寺から勝呂は意義への変遷」(『駒沢史学』82号、2014年3月)では、酒井氏は、聖徳太子の舎人を務めた後に武蔵国造となったとされる物部連兄麻呂が比企の地を本拠地とし、そこに寺谷廃寺を創建した可能性があるとする森田悌氏の説を紹介し、「可能性の一つとして注目される」と述べていました。
これが正しい場合、寺谷廃寺は、物部氏の古くからの仏教信仰を示すというより、蘇我氏や聖徳太子の仏教興隆の動きの中で建立されたことになります。もう一つ重要なのは、物部氏とともに仏教導入に反対したとされる中臣氏が、後に藤原氏となって『日本書紀』の最終編纂時には強大となり、また熱心な仏教推進派となっていたことですね。
いずれにしても、近代以後の教科書的な図式は一度疑ってみる必要がありそうです。