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煬帝は「海西菩薩天子」と言われて不快だった?:冨谷至「日出る国の天子」

2022年01月20日 | 論文・研究書紹介

 倭国が隋の皇帝を「海西菩薩天子」と称したのは、こちらも仏教再興に努める海東の菩薩天子ですよという自覚に基づくものであり、その自覚は、大乗仏教の信者をすべて「菩薩」と呼んで心構えを説き、「在家菩薩」が国王となった場合になすべき訓戒も説いていた『優婆塞戒経』に基づくことは、論文として発表し、このブログでも紹介しました(こちらや、こちら)。

 その論文が刊行される3年前に刊行されたものですが、「海西菩薩天子」について論じた章を含む本が出ています。

冨谷至『漢倭奴国王から日本国天皇へ』
(臨川書店、2018年)

です。中国法制史の研究者である冨谷氏は、「第七章 日出る国の天子ー遣隋使の時代」「第八章 天皇号の成立」で聖徳太子に関わる問題を論じていますので、この記事では、第七章について紹介し、次回で第八章をとりあげます。

 面白いのは、各章の冒頭では、その章でとりあげる問題について、2社の高校の歴史教科書の記述を載せてあり、現在はどう教えられているかを示していることです。

 さて、開皇20年(600)の遣隋使については諸説様々であり、国書に触れられていないということで正式な使者ではないとする説もありますが、冨谷氏は、『隋書』では倭王が「使いを遣わして闕に至らしむ」としている以上、正式の使者と見るべきだとします。

 そして、次回の遣隋使の使者が、「海西の菩薩天子」が仏教を盛んにしていると聞いたと言上し、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」で始まる国書を呈したため、煬帝は「之を見て悦ばず」と記されていますが、この点について、冨谷氏は「煬帝に聞いてみなければわからない」としたうえで、『日本書紀』に載っている煬帝の返書に着目します。

 「皇帝、倭皇に問う」で始まる返書では、「知るに、皇は海表に介居し~」と述べています。「倭皇」は「倭王」、「皇は」は「王」が本来の表記だったろうという通説に冨谷氏は賛成し、「知るに~」というのは、六朝・隋の書簡で用いられる、来書の内容を反復確認する常套表現であって、特に上位の者が下位の者に対する返事で使い、下位の場合は「承るに~」とすると指摘します。

 そして、煬帝が怒ったのは、隋を「日没処」と呼んだことより、「日出処天子」として「天子」の語を用いたことだとします。隋の文帝の娘を妃としていた突厥の可汗(王)であった沙鉢略が、「天の生みし大突厥天下賢聖天子……書を大隋皇帝に致す」として「致書」の形で送った国書に対し、文帝は「大隋天子、書を大突厥~沙鉢略可汗に貽(おく)る」と返事しており、突厥には「天子」の号を認めておらず、同等の「書を致す」でなく、下位に対する「書を貽る(貽書)」の表現を用いていることに注意します。

 突厥は中国から見れば蛮夷ですが、強大であったうえ、文帝の娘を嫁がせているという関係でもあるため、文帝は沙鉢略が突厥の伝統に基づいて「天子」と名乗ったことをとがめてはいませんが、自分側としては「天子」の号は許さないのです。

 冨谷氏はさらに、煬帝を不興にさせた可能性がある表現として、「海西菩薩天子」という表現に注意します。というのは、これだと皇帝は菩薩ということになり、実際に梁武帝以来、南朝では「皇帝菩薩」の語が用いられたものの、北朝では「皇帝=如来」とすることがしばしばあったからです。隋は北朝の系統であって南北統一したのだから、煬帝は「菩薩天子」では不満だったのではないか、と推測するのです。

 また、煬帝が仏教を保護するだけでなく、統制もおこなっていたことに注目します。しかし、煬帝は、梁武帝以来の伝統を守り、自ら「菩薩戒弟子皇帝」と称しているため、この推測は当たらないでしょう。

 冨谷氏は、倭国は状況をあまり把握しておらず、その言辞は「誤解を与える箇所が少なくなく、あまりに不用意、脇の甘い表現が多いことは、否めない」と評します。中国との国交が断たれていた期間が長く、国交再開にあたって自ら「王」と名乗って臣属しようとしてはいなかったものの、「ことさら上下関係からの脱却と対等の確立を意識した」のではないだろうと推測するのです。私の考えもこれに近いですね。

【追記】
冨谷氏があげていた『魏書』「釈老志」では、北魏の皇帝自身が「自分は如来だ」と言っているわけではないと書いたのですが、北周の廃仏の場合は、武帝は帝王こそが如来で王公は菩薩だと称して教団仏教の権威を否定していますので、その部分は削除しました。ただ、煬帝は仏教を復興させる一方、税金逃れなどが目立つ仏教界に統制を加えたことは事実ですが、基本的には梁の武帝以来の伝統に順っており、北周の武帝を思わせる言動はしていません。

【追記:2023年1月19日】
冒頭の文章の一部が抜けていたのを訂正しました。

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