聖徳太子研究の最前線

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「物部氏は寺を建てていたので守屋合戦は仏教をめぐる争いでない」は誤り:山本昭「河内竜華寺と渋川寺」

2021年03月17日 | 論文・研究書紹介

 蘇我馬子と厩戸皇子などの軍勢が、仏教導入に反対する物部守屋などの軍勢と戦った際、負けそうになったため、厩戸皇子が木を削って四天王像を作り、戦いに勝ったら四天王のために寺を建てますと誓願したところ、戦いに勝利して四天王寺を建てた、というのが『日本書紀』の記述です。しかし、現在では、これはあくまでも四天王寺で語られた伝承に基づくものとし、史実としては認めない研究者が少なくありません。

 つまり、実際には天皇の後継者などをめぐる争いだったのであって、仏教は関係ないとするのです。確かに、天皇の後継者をめぐる争いが中心であったでしょうし、戦いのさなかに木を削って四天王像を作ったといった部分は、後になって生まれた伝承と思われます。

 しかし、仏教導入という点が蘇我氏と物部氏の対立の「一因」となっていた可能性は考えられます。また、古代にあっては誓願は強烈なパワーがあると信じられていましたので、戦いにあたって仏教信者が誓願すること自体は十分ありうることです(こちら)。『日本霊異記』上巻第七縁には、百済を救う軍勢として派遣されることになった備後の豪族が、無事に帰ってこれたら寺を建てますと誓願した話も見えています(こちら)。

 それにもかかわらず、仏教をめぐる対立ではなかったと主張されるのは、聖徳太子に関する記述はすべて後代の伝説・作り話とみなすのが近代の客観的な研究姿勢だと考えられがちであったためでしょう。そうした立場の研究者が自説のよりどころとしたのが、物部氏も氏寺を所有していたのであって、仏教そのものに反対していたのではないとする論文です。

 その論文とは、物部氏の本拠であった渋川にある廃寺の前身は、物部の守屋が建てた草堂的な寺だと推測した安井良三氏の論文、「物部氏と仏教」(三品彰英編『日本書紀研究 第3冊』塙書房、1968年)です。

 しかし、渋川廃寺の調査に関わった山本昭氏は、それに反論します。それが、

山本昭「河内国渋川寺について」(『帝塚山考古学』No.6、1986年1月)
同  「河内竜華寺と渋川寺」(古代を考える会編『藤澤一夫先生古稀記念 古文化論叢』、
藤澤一夫先生古稀記念論集刊行会、1983年)

です。

 山本氏は、廃寺跡から出た僅かな瓦を豊浦寺の瓦の編年と比べると、推古11年(603)頃に当たるとし、またこのあたりは四天王寺領となっている土地が多いため、守屋の田や奴の一部が渋川寺建立にあてられたと考えられるとします。そして、渋川は上宮家にとっては軍事目的も持った斑鳩寺と四天王寺を結ぶ道の中間にあるため、そこに寺を建てたのであって、「聖徳太子の計画的造寺の一つ」であり、『玉林抄』が推古天皇御願・聖徳太子建立とするのは史実を反映していると説くのです。

 なお、古代における「誓願」や「奉為(おんため)の仏教」については、私が早い時期にいろいろ論文を書いてますが(なるべくresearchmapにPDFをアップするようにしています。こちら)、「推古天皇御願」などと言われるのは、推古天皇や聖徳太子の「奉為(おんため)」と称して建立した寺が、次第に「推古天皇の御願」「聖徳太子の御願」などとされるようになっていくためです。

 ともかく、四天王寺などが、物部氏を神祇尊重の仏教反対派として位置づけたうえで、仏教を広めた聖徳太子の業績を誇張して語るようになった結果、『日本書紀』のような記述になった可能性は高いですが、少なくとも、早い時期に物部氏が本格的な寺を建てていたという証拠はないのです。自宅の一部を改造して仏像を置いた程度であれば、寺の遺跡は残りませんが。
 
 なお、平林章仁氏の『物部氏と石上神宮の古代史』「第五章 物部氏と仏教崇廃抗争の真相」(和泉書院、2019年)では、八尾市文化財調査研究会『渋川廃寺』第2次調査・第3次調査(2004年)が示す廃寺の新しさにより、山本氏と同様、物部氏が仏教信者であって寺を建てていたとする説を否定しています。

【追記:2023年3月19日】
小笠原好彦『日本古代寺院造営氏族の研究』(東京堂出版、2005年)も、「創建瓦として上宮王家と関係の深い秦氏系の軒瓦が使用されていることから見て、上宮王家の発願によって立てられた可能性が高い」(240頁注43)としています。

 

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