聖徳太子研究の最前線

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聖徳太子に関する最新の説は馬子との共同輔政説であって舒明天皇への影響に着目:鈴木明子「王権の論理と仏教」

2021年01月29日 | 論文・研究書紹介
 膨大な研究がなされてきた聖徳太子に関して新しい発見をするのは難しいことですが、視点を変えて調べ直せば、良く知られている資料からでも思いがけない事実を見出すことができます。そうした一例が、

鈴木明子「王権の論理と仏教-聖徳太子と舒明天皇-」
(『古代学』9号、2017年3月)

です。鈴木氏については、このブログでも都城に関する論文を紹介したことがあります(こちら)。その論文では、宮と寺を並列して建てるのは、聖徳太子の斑鳩宮と斑鳩寺に始まり、舒明天皇の百済宮と百済大寺および以後の天皇に受け継がれると論じていましたが、その前提となる鈴木「古代都市と聖徳太子-小墾田宮・斑鳩宮・斑鳩寺」(館野和己編『日本古代のみやこを探る』、勉誠出版、2015年)論文の方を先に紹介すべきでしたね。

 今回の「王権の論理と仏教」論文では、『日本書紀』に見える王権を支える要素について検討し、新たにそうした支えとなった仏教と聖徳太子の関係を概観したうえで、聖徳太子と舒明天皇の関係を検討しています。最近は、聖徳太子信仰に関する研究は盛んであるものの、聖徳太子そのものに関して新たな視点から取り組んだ研究論文は少ないため、この論文は2017年刊行ですが、聖徳太子に関する最近の説の代表の一つと見なしてよいでしょう。

 氏はまず、『日本書紀』における天皇の「徳」について述べた部分を検討し、そうした「徳」だけでは不十分とされていることを指摘します。「天皇個人の徳には限界があり、それによって天災が起きるものの、神祇を祀ることで災害を鎮め、また、海外の国も自ずから降伏するという『日本書紀』の論理を読みとることができる」と述べるのです。

 仏教もこの図式の中で扱われており、欽明六年九月条では、百済が丈六の仏像を造ることによって欽明天皇が「勝善の徳」を得てその屯倉の国も福を被るよう願うという願文が掲載されています。この願文は疑問のあるものですが、重要なのは、仏教的な善行が神祇を祀るのと同じ働きをするとみなされていることです。

 これは大事な指摘ですが、私のかなり前の論文、「上代日本仏教における誓願について-造寺造像伝承再考」(こちら)にも触れておいてほしかったですね。ここでの「徳」は、道徳的なものというより、 「威徳」という言葉もあるように、powerと見る方が適切です。臣下が天皇のために誓願して寺院や仏像を建立したりすれば、天皇の「徳」が増してその長寿や豊作などがもたらされ、さらにその臣下にも及んで繁栄と永続が約束されるという構造になっているのであって、これは中国北朝の造像碑文などではおなじみの図式です。

 聖徳太子については、鈴木氏は大臣蘇我馬子との「共同輔政」が基本であったと見ます。聖徳太子と馬子が推古天皇を補弼したというのは、『法王帝説』の図式です。江戸後期から明治の初め頃までは、太子は外国のけしからん仏教を導入したうえ、崇峻天皇を暗殺した馬子とともに政治をおこなったとする国学者や儒学者たちの批判が有力であったものの、近代になると太子評価が高まって大化の改新評価がらみで推古朝太子主導説が登場し、その大化の改新と太子の事績を疑うことによって戦後の古代史学が大幅に進展する一方で、行き過ぎである太子虚構説まで出てきたわけですが、一周まわって元に戻ったことになります。実際、これが最近の学界動向でしょう。

 この場合の課題は、推古天皇はどの程度政治・外交に関わり、自らの主張を通したのか、蘇我氏の血を引き、馬子の娘を妃としていた太子と馬子の力関係はどうであったのか、それは次第に変化していったのか、聖徳太子は実際には国政においてどのような役割を果たしていたのか、役割の分担具合はどうだったのか、などといった点を細かく検討していくことですね。いずれにしても、推古天皇は単なる中継ぎ、お飾りだった、開明的な聖徳太子が政治・外交などすべてを主導した、いや蘇我氏が圧倒的に優勢で実権をにぎっており、専横がはなはだしかった、などといった単純な図式で割り切ることはできないのです。

 聖徳太子の長男である山背大兄との競争に勝利して即位したため、舒明天皇については太子との関係は薄いと思われがちなのですが、鈴木氏は聖徳太子と舒明天皇の関係を見直すために、舒明天皇が田村皇子であった頃に病床の上宮太子を見舞ったところ、太子は田村皇子に熊凝寺を授け、仏教興隆と大寺の建立を遺言したとする『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の伝承に注意します。この記述は疑われることが多かったものですが、鈴木氏は、他にも聖徳太子と舒明天皇の事績における共通点に着目し、そこに聖徳太子が当時占めていた地位の大きさと影響を見出すのです。

 舒明天皇が百済宮と百済大寺を並べて建設したのは、太子の斑鳩宮と斑鳩寺の並立を受け継ぐとする鈴木氏は、その百済大寺の跡とされる吉備池廃寺は、東に金堂、西に五重塔が並び、回廊と中門で囲む(再建)法隆寺式伽藍配置であり、出土した忍冬唐草文軒平瓦は若草伽藍の笵型を再利用したとされているうえ、軒丸瓦には四天王寺と同笵のものがあったという発掘結果を紹介します。

 そして聖徳太子や当時の倭国に関する河上麻由子氏・東野治之氏などの最近の研究状況を紹介したうえで、伊与の温湯碑文をとりあげます。この碑文も疑われることの多いものですが、『維摩経』に見える奇跡や「法王」という表現を用いて書かれているとした私の『聖徳太子ー実像と伝説の間』の主張を紹介し、「これまでの先行研究においては、仏教の要素についての解明が不十分なまま真偽が論じられてきたが、これに対して氏の説は重大な見直しをせまるものとなっている」と評価してくれています。有り難うございます。このブログでの温湯碑記事は「こちら」です。

 鈴木氏はそのうえで、奈良時代の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に見える法隆寺の荘について、2箇所以外は法隆寺がある平群郡を基点して難波に至る大和川と瀬戸内海沿岸に点在しており、伊与国には14箇所もあることに注目する上原和氏などの論文に触れたのち、『釈日本紀』に引かれる『伊与国風土記』の佚文によれば、舒明天皇が皇后とともに伊与に行幸していることを指摘します。しかも、それは百済大寺の建立中の時期なのです。

 「伊与温湯碑文」では、温泉の風景を「寿国」になぞらえていますが、伊与温湯から帰還した翌月、舒明天皇は『無量寿経』を講経させていることに鈴木氏は着目し、碑文との関わりに注意します。

 舒明天皇が聖徳太子を継承しているような伝承や事績の類似は、舒明天皇が太子の長子である山背大兄を抑えて即位したことに対する弁明のような形で生まれてきたものなのか、あるいは実際にそうであったのか、今後詳しく検討していく必要があるでしょう。
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