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『上宮記』は天皇たらんとした山背大兄が聖徳太子の権威を後ろ盾にするために編纂:関根淳『六国史以前』

2022年01月26日 | 論文・研究書紹介
 これまで、聖徳太子関連の文献についていろいろ書いてきましたが、脱けていたなと気づいたのが、『上宮記』でした。名前が示すように、上宮王家の記録ですが現存せず、ごく一部が引用の形で残っているだけです。

 『日本書紀』に至るまでの歴史記録類を検討し、この『上宮記』についても詳細に論じている最近の研究が、

関根淳『六国史以前ー日本書紀への道のり』
(吉川弘文館、2020年)

です。関根氏については、以前、天皇号に関する論文を紹介したことがあります(こちら)。『六国史以前』は、刊行された直後に紹介しようと思いながら、そのままになっていました。

 さて、『日本書紀』推古28年(620)是歳条では、「皇太子・嶋大臣、共に議(はか)りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部并公民等の本紀を録す」という有名な記事があり、皇極4年(645)六月己酉条では、蘇我蝦夷が殺される際、「悉く天皇記・国記・珍宝を焼」いたものの、船史恵尺が焼かれる「国記」を取り出して中大兄に献上したとされています。

 いずれも問題の多くて議論になっている記事ですが、関根氏は、天皇記と国記は、従来の帝紀と氏族系譜を時代に合わせてバージョンアップさせたものと見ます。そして、蘇我邸にあったとはいえ、書き方から見て「天皇記」は完成していたようであるうえ、一本だけが作成されるはずがなく、朝廷に原本ないし副本があったと推測します。

 そして、新羅への出兵にあたっては各地の国造が差配した以上、徴兵を可能にするために氏族の系譜の台帳として国記が作成されていたと説きます。

 いずれにしても、帝紀・旧辞、天皇記・国記は現存しないのですが、同様に、聖徳太子が作ったという伝承も残る『上宮記』も現存しておらず、成立については、七世紀前半から平安前紀まで様々な説があるうえ、『日本書紀』講書のなかから生まれた偽書とする説もあります。

 関根氏は、鎌倉時代の『釈日本紀』に「上宮記、一云~」の形で記される系譜における父方・母方の記述のしかたから見て、『上宮記』は王統を記した帝紀であり、「一云」の資料の段階では「王」「大王」「大公主」など呼称がばらばらであることから、この時期には天皇号は確立していなかったと推測します。

 『聖徳太子平氏雑勘文』が引く『上宮記』下巻三では、太子の子たちの名が列記されており、関根氏はこれを「注」の部分と見て説明しています。その説明のうち、「法大王」について、「仏教を信仰した偉大な王」と説明しているのは不適切ですね。拙論(こちら)で述べたように、「講経に巧みなことで有名な皇子」という意味でしょう。そこに、「法王」としての釈尊のイメージも重ねてある、といった程度ですね。
 
 関根氏は、この部分で山背大兄だけが「尻大王」と呼ばれ、太子と山背大兄だけが「大王」と呼ばれていることに注意し、両者を軸とする上宮王家を称揚する意図が見られるとします。

 そして、いろいろな文献の前後関係を検討したうえで、天皇になりたくて盛んに動いた山背大兄と、そちらに王統が移ってしまうと影響力が弱まることを懸念した蘇我蝦夷の対立に触れ、『上宮記』は、山背大兄が自らの権威づけのために聖徳太子を賞賛した史書を作成させたものとし、その注は、太子信仰を生み出していっていた法隆寺の僧侶が書いたものと推定します。

 つまり、『上宮記』は、蘇我氏との関係を強調して作成された天皇記を、太子を柱とする系譜に改作したものであって、上宮王家が滅亡した後も伝えられ、後に聖徳太子伝として展開する元となったとするのです。

 『日本書紀』の厩戸皇子関連の記事は、呼称がばらばらであり、また伝記を利用した可能性も指摘されていますが、『上宮記』は、上記のような関根氏の推測から見ると、さらに詳細に比較検討する価値がありますね。 
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