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蘇我馬子の仏教理解は仏を神と同一視する程度のものだったか:中野聡「蘇我馬子の仏教信仰と飛鳥大仏」

2022年01月17日 | 論文・研究書紹介
 仏教伝来期については、仏教理解の程度は低いものとされてきました。欽明天皇13年に、百済の聖明王が仏像を送ってきたところ、欽明天皇がその様子がきらきらしていることに驚いて祀るべきかどうか群臣に尋ね、物部大連尾輿と中臣連鎌子が「蕃神を拝す」べきでないと反対したとする『日本書紀』の記述が影響を与えているのでしょう。

 また、この部分は、703年に訳された『金光明最勝王経』の文言によって潤色されているため、疑いがさらに増しています。

 しかし、伝来期の蘇我稲目の頃ならともかく、壮大な飛鳥寺を建立する馬子の頃の仏教理解は進んでいたはずです。馬子の仏教信仰を伝統的な祖先信仰、呪術的なものとみなすことが果たして正しいのか。この問題に取り組んだのが、

中野聡「蘇我馬子の仏教信仰と飛鳥大仏ー仏教彫像の機能からみた飛鳥時代初期の信仰ー」
(『仏教史研究』第59号、2021年3月)

です。

 中野氏は、飛鳥寺の本尊である丈六仏を、願主である馬子がいかなる宗教的機能を期待して造立したか、という観点で論じ始めます。

 飛鳥寺については、まず仏舎利を祀る五重塔の造営から始まり、推古元年に塔の心楚に仏舎利を奉納してから間もない推古4年に、早くも塔が完成したこと、また塔の回りに三金堂を配するという形式から見て、馬子がいかに仏舎利を尊重していたかが知られるとします。

 この心楚からは、古墳祭祀に用いられるのと同様の宝物が出土したため、民族的な信仰そのままと解釈されてきましたが、近年になって百済の王興寺の塔心楚埋納品が発見され、共通性が注目されるようになって見方が変わってきまました。

 つまり、きらきらした金銅の仏像にただ驚くばかりで、寺を古墳と同じようなものとみなした、といった程度の理解でなく、中国南朝の仏教を取り入れた百済の最新の仏教を導入しようとしたと考えるのです。

 中野氏は、①仏教を従来の神祇信仰の枠の中でとらえ、現世での恵みやたたりをもたらす存在と見て祀る段階、②呪術的な舎利信仰を受け入れつつ、現世?利益だけでなく来世の浄土往生をも願う段階、③経典の内容を理解し、講義・注釈をおこなって、大乗仏教に基づくおこないをする段階、に分けます。

 中野氏は、伝来期は①、次の段階を②と見、③に至ったのは当時は聖徳太子のみとし、私の論文を引いて中国の南朝仏教の影響を指摘しています。そして問題の馬子については、②の可能性があったとします。

 というのは、馬子が百済の弥勒の石像を鹿深臣から請い受けて、自発的に自邸の東の仏殿に安置して信奉したうえ、この石像が飛鳥寺の東金堂、あるいは北僧坊に祀られていたという記録から見て、史実と判断します。

 そして、当時の中国では、弥勒信仰は無量寿仏信仰と密接に結合しており、弥勒の兜率天も無量寿仏の極楽浄土も、漢民族の神仙思想の中で受容されていたことに注意します。実際、そうした銘文が高句麗の景4年(571)の金銅無量寿仏三尊像によって、朝鮮にも伝わっていたことを指摘します。

 また、馬子と舎利出現に関す奇瑞の記述は、中国の仏教文献の記述を利用して書かれていることは早くから指摘されていますが、中野氏は、それは潤色であって机上の創作ではないとするのです。そして、仏のことを「蕃神」とか「仏神」とか呼んでいるのは、祟りを恐れている者たちであって、馬子自身はそうした呼び方はしていない点に着目するのです。

 そして、『元興寺縁起』が伝える丈六光銘について中国の願文と比較するのですが、「含識」の語が龍門石窟の造像銘に見える「含生有識」と類似するとしているのは不適切です。衆生と訳されるsattvaの訳語である「含識」は、北周や隋の頃の訳経などにもごく僅かながら見えますが、この訳語を盛んに用いたのは玄奘ですので、龍門の造像銘は参考になりません。

 ついでながら、「遍及せる含識」(25頁)という読みは間違いであり、「遍く含識に及び(及ぶまで)」です。

 ただ、中野氏が南朝や百済の舎利信仰の例をあげて馬子の信仰を推測しようとしているのは有意義な試みです。

 飛鳥寺の塔心楚からは、こうした埋納物としては珍しい挂甲や馬具が出ていますが、中野氏は松木裕美氏や坪井清足氏の推定に基づき、これらは馬子が守屋合戦において使用していた可能性があるとし、そうした貴重な品によって仏舎利を供養し、蘇我氏およびその権力のよりどころであった王権(蘇我氏系皇統)の現世と来世での安寧を期待したものと推定します。

 馬子の仏教信仰を呪術的とするのは、二葉憲香氏の説の影響もあるように思われるため、戦後しばらくしての古い説ですが、いずれ二葉説を検討してみましょう。
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