誰もが知っている史料をどう読むかが重要であるということの前振りです。今回、とりあげるその史料とは、『上宮聖徳法王帝説』、それも、欽明天皇に始まる天皇の系譜について述べたのち、これらの五人は「他人を雑えることなく天下を治む(無雑他人治天下也)」と説いている文です。
有名な箇所であって、解釈は様ざまですが、聖徳太子との関係に基づいて書かれていると論じた近年の論文が、
水谷千秋「付論 『上宮聖徳法王帝説』の「無雑他人治天下也」について」
(水谷『日本古代の思想と天皇』、和泉書院、2020年)
です。
『帝説』の冒頭部では、聖徳太子の父母や兄弟、太子の妻子たちについて述べたのち、欽明天皇が宣化天皇の女子である石姫を娶って生まれたのが敏達天皇であり、欽明が蘇我稲目の女子である堅塩媛を娶って生まれたのが用明天皇と推古天皇、また欽明が堅塩媛の同母妹である小姉君を娶って生まれたのが崇峻天皇、その姉が太子の母である間人王であると述べた後、「右の五天皇は、他人を雑える無く天下をおさむ( 五天皇無雑他人治天下也)」と説いています(実際には、音写漢字を用いていますが、わかりやすい人名表記にしてあります)。
問題は、宣化天皇は、「右五人」に入っていないことです。つまり、欽明・敏達・用明・崇峻・推古だけが同じ系譜に属すとされているのです。蘇我氏が関わっているのですが、蘇我氏の血を引かない敏達天皇が入っているため、蘇我系王族の系譜と見ることはできません。
これについて、欽明天皇を祖とする系譜であることが注目され、仁藤敦史や義江明子氏は、この段階に至って世襲の王権が形成されたことを意味するとします。
水谷氏は、両氏の指摘の意義を認めたうえで、それだけではなく、この系譜は「聖徳太子に関わるもの」という点に注意します。『帝説』では、これらの五天皇について、注で聖徳太子との続柄が記されているためです。
まず、欽明は、「聖王(聖徳太子)の祖父」、敏達天皇は「聖王の伯叔」、用明天皇は「聖王の父」、推古天皇は「聖王の姨母」、崇峻天皇は「聖王の伯叔」と記したうえで、「右の五人は~」と述べているのです。
この文脈からすれば、太子から見てすべて親族であって「他人」は一人も含まれていないことになります。このことは、「太子が当時の王統の正統ともいうべき立場だったこと、本来は天皇になるべき生まれであったことを示唆しているのであろう」というのが、水谷氏の解釈です。
水谷氏のこの主張は、『宋書』倭国伝では、五王のうち珍と済の関係が記されていないため、この段階では大王は世襲ではなく、上記の欽明天皇から世襲が始まったとする仁藤氏・義江氏の説に対する反論でもある由。難しい問題ですが、『帝説』の記述はあくまでも聖徳太子を基準として述べられたものである、という点は重要ですね。