聖徳太子研究の最前線

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倭国では「王」も「大王」も「皇」も「大皇」もオオキミ:冨谷至「天皇号の成立」

2022年01月23日 | 論文・研究書紹介
 前回の続きです。

冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』「第八章 天皇号の成立」
(臨川書店、2018年)

 冨谷氏は、「天皇」の語が見える法隆寺金堂薬師如来光背銘については、670年の若草伽藍焼失後になって追刻されたとする説に賛成しつつも、表記が「治天下天皇」「大王天皇」「治天下大王天皇」とあって統一されていないため、「確立した称号表記になっていなかった」と推測します。

 この銘が律令制以前のものであることは竹内理三氏が早くに指摘したことですが、問題は、こうした過渡期の用例がいつ頃生まれたかですね。これらのおかしな表記については、後代の偽作だとする証拠とされることが多かったのですが、律令制で天皇の称号が確定した後になって、このような奇妙な表記を用いて偽作することは考えにくいです。

 冨谷氏は、最近は、「天皇」の語は天武朝初期には用いられていたとする説が有力になっているとしたうえで、光背銘が追刻されたのは若草伽藍焼失後だとしても、「大王天皇」という呼び方はその前からあったと考えることも可能とします。

 ただ、冨谷氏は、天寿国繍帳銘については不明な点が多いため、天皇号登場の資料として用いることはできないとし、船王後墓誌についても、天武朝末年以前頃の追葬時のものとする説に賛成します。

 論争が重ねられてきた野中寺金銅弥勒菩薩台座銘のうち、「詣中宮天皇」の部分については、漢代の行政文書には「詣官」という表現が頻出するため、「中宮天皇」と呼んでいるのではなく、「中宮に詣る。天皇~」と切って読むべきだとします。

 そして、像自体は早くに造られていたとしても、銘は「皇后」や「皇太后」の称号が定められ、その機関である「中宮」成立するのは、飛鳥浄御原令からと考えられるため、銘はそれ以後と見られると論じます。

 「天皇」の前に「天王」が使われていた可能性があるとする説については、冨谷氏は否定し、元の称号は「大王」であって、『日本書紀』はそれを「天皇」と書き換えたとしたうえで、「王」や「皇」の「和訓に注目します。

 つまり、倭国では首長は「オオキミ」と呼ばれており、これを漢字表記する際、「王」や「大王」という文字を使っていたのであって、『万葉集』頃には「皇」「大皇」も「オオキミ」にあたる語として用いられているという点です。

 倭国では、中国の南朝に朝貢して皇帝から「倭王」の称号を与えられていた五王時代と違い、「王」号を忌避するようになりますが、その際、「王」も「大王」も「皇」も「大皇」も「オオキミ」の漢字表現として使われていたことが、「大王」が「天皇」へと移る際の潤滑油になったとするのです。

 その結果、7世紀の倭国では、自分たちも「皇帝」が君臨する中国のように諸国を支配下に置いている大国なのだという自覚に基づいて「天皇」の語が造られ、新たに「スメラミコト」という訓をあてたうえで、中国とのやりとりに際しては、「皇」の字を使うことを避け、「スメラミコト」の漢字音写である「主明楽美御徳」を用いるようになったとするのです。

 ただ、「スメラミコト」という呼称の由来については定説がないとするのみで、独自の説は示されておらず、仏教的世界観に基づくとする森田悌氏の主張にも触れていません。また、「天皇」という漢字表記と「すめらみこと」という和訓が同時に作成されたかどうかは明確に示されていません。

 結論として「確実にいえること」として、天武朝には天皇号が登場しており、皇后の語も大宝令に先立つ飛鳥浄御原令に存在していたが、推古朝・天智朝に既に登場していたことを示す資料はない、と述べています。

 さて、どうでしょう。倭国は隋に対して仏教外交をしようとしていたのですから、森田説の是非はともかく、「天皇」という号について仏教の面から考察することはあっても良いと思うのですが。

 「天王」や天皇号については、近年では三浦啓伯氏が精力的に書いていますので、近いうちにそれを紹介することにします。三浦氏も仏教には触れてませんが。