聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

藤原不比等は『日本書紀』の内容にまでは介入していない:水谷千秋「『日本書紀』の編者をめぐる諸問題」

2022年01月14日 | 論文・研究書紹介
 『日本書紀』の編纂にあたっては、権力を握っていた藤原不比等が影響力を及ぼし、藤原氏に有利なように書かせたとする見方が早くからありました。これを疑った近年の論文が、

水谷千秋「『日本書紀』の編者をめぐる諸問題」
(塚口義信博士古稀記念会『日本古代学論叢』、和泉書院、2016年)

です。

 『続日本紀』養老4年条では、舎人親王が勅を承けて『日本紀』を修し、紀三十巻・系図一巻が完成したと述べていますが、水口氏は、舎人親王は事業の総裁であって、実際の編者は不明と言うほかないとします。

 そして、『日本書紀』の天武十年三月条では、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・上毛野君三千・忌部連首・阿曇連稲敷・難波連中大形・中臣連大嶋・平群臣子首の十二名に「帝紀及び上古の諸事を記定せしめ、大嶋・子首、親しく筆を執りて以て録」したと述べており、また『古事記』序では阿礼に「帝皇の日継、及び先代の旧辞を誦せしめ」たとしているものの、いずれもこの段階では『日本書紀』のような本格的な史書の編纂がめざされていたのではないとします。

 筆をとったとされる二人のうち、子首の没年は不明であって、大嶋は持統7年3月に近い頃に亡くなったようですが、過半は天武の命以後、15年を過ぎても健在であったと水谷氏は指摘します。そして、王族が多く、石川氏(蘇我氏)・大伴氏・石上氏(物部氏)など最有力の氏族こそいないものの、伝統的な名族が多いこと、またこれまで文筆を担当してきた渡来系氏族がいないことに注目します。

 最有力でない上記の参加氏族たちが、有力氏族をさしのけて自らの氏族の伝承を国史に定着させられたとは考えがたいとし、氏族伝承が取り込まれるのは、持統5年に18氏族に対して祖先の墓記などを提出させてからのことと見ます。実際、この時の18氏には、石川・石上・大伴・春日などの最有力氏族が含まれているのです。

 『日本書紀』完成の6年前となる和銅7年(714)2月となると、『続日本紀』では、紀朝臣清人と三宅藤麻呂に「国史を撰しめ」たという記述が出てきます。清人は、翌年正月に位階をあげられたうえ、半年後に「穀」を賜っており、2年後の養老元年にも「穀」を賜っているのは、『日本書紀』編纂の褒賞と考えられており、水谷氏もこれに賛成します。

 『日本書紀』完成の翌年、養老5年(721)、「文人武人」で模範となる官人18名が表彰されていて、清人も入っています。藤麻呂が見えないのは、正八位下という身分の低さから見て、実際に執筆したというより実務の補助をしていた可能性もあると、水谷氏は説きます。もう一つの可能性は、亡くなっていたことですね。

 清人と同様に賞された文章博士は、山田史三方、下毛野朝臣虫麻呂、楽浪河内であって、加藤謙吉氏が述べているように、この人たちは『日本書紀』編纂メンバーに含まれていたと見てよいと水谷氏は説きます。新羅留学の経験を持ち、還俗して官吏となった山田史三方は、森博達さんがβ群の重要な執筆者とみなした人物ですね。

 水谷氏がさらに注目するのは、『日本書紀』完成直後の五月に16人の人物が、「退庁の後、東宮に侍せしむ」とされていることです。水谷氏は、この中には清人、三方、河内も見えているため、この16人に期待されたのは皇太子に『日本書紀』を講ずることであったろうとします。

 そして、清人に加えて紀朝臣男人も含まれており、紀氏から二人も選ばれているるのは、清人が『日本書紀』編者であったため、特例として加えられたのではないかと推測します。

 16人の名があげられたうちの最後となるのは刀利宣令です。かつて大学博士となった父の刀利康嗣は、百済滅亡時に亡命してきた渡来人と思われるため、この親子は2代にわたって『日本書紀』編纂に関わった可能性があるとします。

 『日本書紀』編纂に関わったとされる人物に太安万侶がいますが、水谷氏は、『日本書紀』と『古事記』は方針が違いすぎるうえ、『日本書紀』は『古事記』を無視しており、むしろ対立する立場にあったとし、安万侶編者説を否定します。

 『日本書紀』編纂に関与したとされる人物には、藤原不比等と接点を持つ人物が多いことは、加藤氏が触れており、加藤氏は不比等が影響力を行使したと見ていました。
 
 しかし、水谷氏は、不比等と交わっていたという上記の文人たちは、長屋王の詩宴にも多くが参加しており、不比等だけに従属していたのではないとしたうえで、『日本書紀』では不比等の父の鎌足の活躍が描かれるのは皇極紀と天智紀だけに限られており、鎌足の父の名も記されないことに注目します。

 中臣氏の場合、「中臣鎌子」が物部氏とともに仏教導入に反対したという不名誉な記述もあるため、『日本書紀』全体が藤原(中臣)氏を持ち上げ、鎌足を賛美しようとしたと見ることはできない、とするのです。しかも、肝心の不比等自身についても、持統2年に他の9人とともに「藤原朝臣史」が判事に任命されたと記されるのみです。

 これは、『藤氏家伝』では鎌足と彼が仕えた中大兄(天智天皇)を賛美することが主要な目的であるのとは大きな違いであり、水谷氏は、『日本書紀』には天智朝を賞賛する部分と批判的な姿勢を示す部分がともにあることに注意します。

 『日本書紀』編纂当時、権勢盛んであった不比等の藤原氏について考慮はされたでしょうが、『日本書紀』はあくまでも天皇家の起源とそれに従う氏族の歴史書です。内容を見ても、藤原氏のための史書とはなっていないため、不比等の役割と影響力を重視しすぎるのは『日本書紀』の本質を矮小化するものだと、水谷氏は結論づけています。
この記事についてブログを書く
« 夢殿の救世観音菩薩像が持つ... | トップ | 蘇我馬子の仏教理解は仏を神... »

論文・研究書紹介」カテゴリの最新記事