千の天使がバスケットボールする

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「水滴」目取真俊著

2009-09-03 22:42:45 | Book
「徳正の右足が突然膨れ出したのは、六月の半ば、空梅雨の暑い日差しを避けて、裏座敷の簡易ベッドで昼寝をしている時だった。」

音楽家が演奏のはじまりですでに聴衆の心をつかまなければならないとしたら、目取真俊氏の小説のはじまり方には思わずうならせられる。本のタイトルにもなり、97年に芥川賞を受賞した「水滴」はこのような文章ではじまり、最初の1行で一気にひきこまれていく。収録されている他の二編の小説の幕開けも、実に絶妙なのである。。敗戦に近い沖縄の小さな島を舞台にした長編小説「眼の奥の森」の物語性に、武骨ながらも荒々しいタッチの力量を感じさせる眼取真俊氏の作品の世界にすっかり魅せられて、次に手にとったのが本書である。

出世作の「水滴」は徳正の原因不明の足の腫れにはじまり、現実か徳正の病からくる妄想なのか、戦争の闇にひきずられるような展開の悲しみをたたえた暗部と、妻のウシをはじめとした周囲の田舎ものらしい反応のユーモラスさの鮮やかな対照が効いている。

「ええ、おじい、時間ど。起きみ候れ」
 肩を揺すると枕から頭が落ち、空ろに開いた目と口から涙とよだれが垂れ落ちた。
「あね、早く起きらんな」

現代の都会に住む日本人が失った本物の自然と素朴さが生活力のたくましさが、オキナワ=戦場という負の遺産を寓話めいた”体験”を昇華させることに成功している。私も受賞に価する作品だと思う。

3編目の芥川賞受賞直後の「オキナワン・ブック・レヴュー」は、架空の雑誌に4年間に渡って連載された”書評”という形式をとって、あるあやしい宗教家の人物像と彼の思考にせまる趣向を凝らした形式が斬新である。書評の熱い狂信的な檄文とその後の成り行きと着地点には、高度な皮肉と自虐的な沖縄への思いがこめられている。作家自身が本文中の書評氏に憑依したかのような特徴のある文体は、作家としての文章力は本物という証明のようなものであり、芥川賞を受賞した後の筆ためしに合格点をもらえるには格好の仕上がりであろうか。

私が最も気に入ったのは、85年に発表された「風音」である。
村の中央を流れる入神川の河口の崖のなかばに、古い風葬場の跡が残っている。戦前までは頑丈な石段が造られていて、そこに旅発つ人を運びあげることができたが、艦砲が石段を破壊して上陸した米軍によって大量の石を運び去られてしまった今、その風葬場は誰も登ることができないままとり残されていた。
そこに安置されているひとつの頭蓋骨。その頭蓋骨から、いつのまにか高く、低く、風に運ばれて蛍火のように透明な音が漂うようになった。そして今では、すっかり村人たちにとって特別な場所にもなっているのだが。。。
著者の20代なかばのこの作品には、久々に正統派”純文学”というジャンルの醍醐味を感じる。音の正体を確かめるべき、少年たちの幼い行動という形式が、やがてそれぞれの登場人物たちの戦争体験の闇をひろげることになっていく。生き生きとした少年たちの平和な暮らしと、戦争体験者に取材する若者の底の浅い思考や”戦争”を単なる格好のネタとして扱おうとするマスコミ。沖縄の立場の苦悩という社会性をおりこみつつ、永遠にとけない謎とわずかなエロスを残しながら主役の「風音」が見事にメビウスの輪のように結実していく。いくつかのエピソードがたくみにしこまれ、白皙の青年の如き清潔感と抒情性すら漂う物語に興奮すら覚えた。「水滴」よりもはるかに素晴らしい作品である。
村上春樹氏が、ノーベル賞をとるための「素材」捜しをひねる苦労というものは、目取真俊氏にはないだろう。「オキナワ」それだけでよいのである。

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「眼の奥の森」