千の天使がバスケットボールする

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「東京島」桐野夏生著

2009-02-09 22:58:52 | Book
そこは太平洋に浮かぶ無人島・・・だった。
清子が夫の隆と大破したクルーザーからたどり着いて後、3Kの仕事から脱走して漂流してきた日本人のフリーターが23人。そして密入国に失敗した中国人も加わり、32人の漂流者はひたすら救出の船がくるのを待つこと5年。46歳になった島で唯一の女である清子は、いつでもどこでも主役の女王様状態だった。島の若者たちは、みんな清子との性交を妄想するぎらぎらとした欲望を隠さなかったのだが、その地位も近頃容色の衰えとともに後退ぎみである。それは、島でも生存にも係ることだった。同性愛に転ぶ者あり、絶望のあまり発狂する者あり、夫の隆をはじめ不審な死を遂げる者もあり。
誰が名づけたのか、トウキョウ島。確かにものに名前がつけば、意味が生まれ、認識され、世界が確立していくのだったが。。。

無人島への漂流、そんな古典的なモチーフにも関わらず、31人の野卑な若者たちに囲まれた中年女性がたったひとりという逆ハーレム状態といった奇想天外な着想で繰り広げられるサバイバル劇は、脂ののった作家らしく筆の勢いが奔流のようにほとばしる。まさにノンストップ!しかもその過激さに永遠の乙女は圧倒されおののくばかり。なんといってもしょっちゅうおなかを壊して衰弱する夫を尻目に、蛇の皮もはいで動物タンパク質を摂取しようとする清子は、まるで白豚のように肥えていくたくましさ。おまけに島で唯一の性を最大限に利用して、自分の地位と安楽、存在意義をかけた清子は、弱っていく夫をないがしろにして次々と若者のお相手をして貪欲に性の饗宴を楽しんでいる。彼女に遊ばれた男たちは、お礼に食料などの貢物をもってくるだから、一石二鳥。文明のない島でもハーレムだったら極楽か。

女を売りにする清子だけでなく、極限の状態でたちあらわれる性欲、食欲、その他諸々の人間の欲望と本性に顔をそむける読者には、作家の大胆不敵な哄笑が聞こえてくるだろう。
そして、自然と生まれるコミュニティとそこから排除される者。リーダーとして頭角を現し、後に評判を落とすGM。性愛の対象を男に求めることによって、女不足の帳尻をうめ島の生活を慎ましく楽しむカップルたちの出現。対立する中国人たちとの不穏な空気。フォークなどの金属ものを持っている者は島では資産家になり、それらをレンタルするだけで楽をして食料を調達できる。どんな異常下でも、人間が複数共棲していくと、そこにはたとえ醜くとも自然に”社会”が成立していく。しかも、島民の心のよりどころとして寺院建設計画までもちあがる。

しかし、社会の基盤は不安定で、唯一の性を誇り君臨していたかに見えた清子も、中国人たちとの脱出失敗したことをきっかけに共同体を揺るがす争いの元と抹殺される危険性もでてきた。島のすべての男たちを喰って狂わせてきたのになんたることか。そこで幸か不幸か、予想外の事態となったある肉体の変化すら命がけで彼女は利用するのである。登場人物ひとりひとりの現象が奇異で滑稽、グロテスクでありながら、だからこそ目を開くようなリアルさに読者は作家のまいた毒にやられてしまうのである。下品な言葉遣いと描写を拒絶するもありだが、私はむしろミシュランの三ツ星レストランが並ぶ洗練された表「東京島」のアンチテーゼとしての、”文明”が笑えるくらい似合わない裏「トウキョウ島」の生命の力強さとむきだしの人間の本性を書いた点で評価したい。どんなに上品に装っても、人間の本性はわからない。これは自分への自戒だ。

中国の作家、余華が「兄弟」を書いた時に「益々多くの人が優雅さこそ文学のスタイルに慣れきってしまった時、粗野であることも同じように文学のスタイルである」と言った言葉を思い出す。平野啓一郎氏の「決壊」が、彼らしい整然とした美しい流れの文章とスタイルを捨てて、読者に投げ出すかのような文体で勝負したように、このような荒々しい剥き出しの表現がひとつの時代の潮流になりつつあるのを感じる。本書でも谷崎潤一郎賞を受賞した桐野夏生さんの勢いは、独走状態だ。

■アーカイヴ
「メタボラ」
「魂萌え!」