千の天使がバスケットボールする

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検察審査会レポート10

2005-05-13 23:45:33 | Book
検察審査会も第2群のメンバーを迎えて、我々にとっては後半にはいることになった。
2群から審査員に選定されたが、要件を満たして免除申請される方を承認したことにより、補充員から籤であらたに審査員になるのだが、なんと今回は私が赤い印の籤をひきあて、審査員に昇格?した。議決権がある。日当もちょっとふえる。”補充員”という肩書きにちょっとプライドが不満だったが(本音)、これで審査員として遠慮なく投票できる。

さて、あらたなメンバーだが、ある一定の年齢の性別(♀ or ♂)の方たちに今回は偏っている。最初部屋に入ったときに場所が変更になったかと思ってしまったくらいだ。事務局の方のお手伝いをしたときに、そのことをお伝えすると本当に籤で決まったのですよ、ごめんなさい、と言われた。人を外見で判断するのは失礼だ。実は偏見の多い自分だからこそ、そう考えるようにしているが、今まで年齢構成、男女比、それぞれの職業がバランスよかったと思っていたので、ついひとこと言ってしまった。法律の知識は必要ない、小学校を卒業して字がよめればよいのだ。つまり民意を反映させるのだから。

検察審査会に出席するようになり、また前回の事案のような申立人から、哲学的なテーマーを投げかけられると、ずっと自問自答していた「法とは何か」そんな根本をつかまえたくなる。たまたま自宅の書棚から「法とは何か」渡辺洋三著を見つけて読んだ。1998年に改訂版がでているが、私が読んだのは2回目の改訂79年ものである。何分、当時とは世の中の人々の権利意識も大きくかわり、コンプライアンスという言葉が日常用語になりつつある時代から、内容が古臭い印象は否めないが、憲法の成り立ち、法の精神を考えるうえでの重要な過去の裁判を知ったり、それはそれでおもしろく読んだ。

法とは何かということを考えるうえでもっとも大切なことは、法の精神とは何かということにつながる。そして法の精神とはなにか、ひと言で言ってしまえば正義である、これが本編の巻頭言であり、最後までつながるテーマーでもある。正義とは普遍性もありながら、歴史とともに変化したり、また文化にも相違がある。しかし、法的正義の問題は「人間の尊厳」にかかっている。人類の歴史は「人間の尊厳」をめざす闘争なのだ。

以前、前議長から「民主主義とは何か」と聞かれたとき、ひと言で応えられなかった。しかしこの本を読んで、法の道にすすまれるお子さんをもつ議長が私に質問した真意がはっきり解った。民主主義の精神とは、国民ひとりひとりが主体的に幸福を追求する精神なのだ。だから裁判という観点からみると、国民自らの手で裁判をするという思想につながる。英米流の陪審員制度、独仏流の参審制をふまえ、ここに日本流の裁判員制度がスタートする意義があったのだ。なるほど!日本人の国民性にあわないとか、未熟な法意識では時期尚早と”寝たきり”にさせられていた国民参加、民主主義的裁判思想が期を熟して復活したのだった。さらに判決には裁判員の法解釈が反映されるから、国民も裁判の参加すべきとのこと。(だから一部、筆者と意見は異なる部分もあるが)

これは本書のほんの一部、法と手続き、現代国家と法、法解釈と続くがさすがに岩波新書だけあって、解りやすく、尚且つコンパクトにまとまている。

最後に本書でも「むすびにかえて」で紹介されている1969年提起された熊本の水俣病裁判の出発点にふれたい。
「患者家族はこの裁判を決意するまでに、長く苦しい月日を送ってきた。」
当時は水俣の地域を支配するチッソの支配下で、水俣病患者ということで悪だった。患者はチッソを阻害し、ひいては水俣市の発展を阻害さるかのようにいわれたため、患者家族は、息をひそめ、人目につかないうす暗い家のすみに患者を隠しこんだのだった。患者家族には、徹底した社会的圧迫がつきまとい、結婚できず、就職できず、こどもたちは学校でいじめられ、近所の人は声さえかけなくなった。認知患者はどうしても隠せなかった患者だった」『法学セミナー1972年10月号』抜粋
そんな患者を医師、弁護士がひとりずつ粘り強く、ほりおこし説得し、被害者の会が76年発足されたのである。こうしてチッソのおそるべきずさんな操業、労働者、住民への差別支配が浮かび上がった。

法とは何か、有名な水俣裁判がその精神を語る。