旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

カイロアンのメディナ(旧市街)を散策

2019-03-11 16:00:00 | チュニジア
旧市街のホテルに早めに到着するのは、自分の足でメディナ(旧市街)を歩く時間がほしいから。

アーチをくぐれば旧市街

路地を歩けば必ず出会う


「あ、そのままそのまま」↓

↓「こうですか?」

**
午後のグランド・モスクへは入れないがゆっくり見上げてみたい

時代も分からない名もなき墓標が集う


モスクや廟は街のいたるところにある宗教都市カイロアン。
SIDI「聖なる」××と書かれたこの小さなドームも。





通りかかった少年↓「写真撮ってとって」

有名観光地エリアだけガイドさんに連れられて歩くだけでは本来の街の姿は見えてこないから。良くも、悪くも…

突然こんな場所に遭遇

ゴミがどのように捨てられているか、処理されているのかは、その都市や国の真実を如実に表してしまう。

**
夕食はホテルのバッフェにした


チュニジア産のワインもちゃんとあるのです↓

MAGONはなかなかおいしかった(^.^)




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カイロアン(=ケロアン)預言者の友人の墓

2019-03-11 12:00:00 | チュニジア
Sidi Sahabは「聖なる友人」という意味。廟は預言者ムハンマドの友人だったアブー・ザマ・エル・ペラウィが葬られている。
彼はいつも預言者の髭を三本肌身離さず持っていたので、ここは「床屋のモスク」とも呼ばれている。

ということは、イスラム教が誕生した七世紀からの場所、ということになる。どこかに当時からのものが残っているのだろうか。

中に入っていく↓

↓装飾はタイルでオスマントルコ時代の雰囲気




中庭はスペインに残る雰囲気


ストゥッコ装飾はスペインのアルハンブラなどを思い出させる。

すでにヨーロッパのバロックも感じられる。
年代を調べてみると17世紀にオスマントルコのベイ(地方領主)がマドラサ(イスラム教の学校)を敷設して、大幅に増築していたのだった。
預言者の誕生祭には割礼や婚礼が行われるのだそうだ。

では、その「預言者の散髪屋」の廟のもともとはどこだったのか?
↓回廊の一角、異教徒が入っていは行けない奥がそれだった↓

一千年以上の間、八角形の墳墓にシンプルな覆いをかけただけの場所だったのである。

観光していた別のアラブ系の女性たちが「写真撮って」とやってきました(^.^)


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カイロアン(=ケロアン)最初の水源はメディナ(旧市街)にあった

2019-03-11 11:00:00 | チュニジア
1.3㎞×1.7㎞ほどの城壁に囲まれたカイロアン(=ケロアン)メディナ(旧市街)の入口

↓チュニジアはイスラム国だが女性の服装にはそれほどうるさくない

↓城壁に掲げられた文章はカイロアン市が国に対して意見をするものだった。

ガイドのシュクリさんによると、「預言者ムハンマドの誕生祭の日と選挙の日が近いのはよくない」と、滔々と論旨が述べられているのだそうな。さすが宗教都市カイロアン(^.^)
垂れ幕の下に世界遺産のマークがかくれております↓


↓門をくぐってすぐの様子

そこから近いレストランで簡単に昼食にした


**
旧市街を歩くと、同じお菓子がそこここの店で売られている↓

○マクロウドという、

中にディーツのジャムがまるで「あんこ」のようにはいっている

種類もかたちもいろいろある。

***
路地の突き当りで「水源」に出会った↓

○ビル・バルータと呼ばれている↓
「ビル」が井戸で「ルータ」は犬の名前だそうだ

日本の某ガイドブックには「預言者ムハンマドといっしょに旅をした犬の名前とか」と書かれていたが、ほんとにそうかしらん?
ムハンマドは「猫派」だったにちがいない
※だから、イスラム教では猫は可愛がられ、犬は邪見にされることになったのでしょうに

階段を上がって井戸の管理人にも訊ねてみよう。

あがっていくと↓ラクダがいた!

「壁に下がってさがって」と言うと、ラクダに井戸の周りを歩かせはじめた


※ここにラクダが井戸から水を汲む動画をご覧いただけます


↓しばらくすると水があがってきた↓二十メートル下からだそうだ

ガイドさんから井戸の管理人に犬のことをきいてもらった。
「ルータはウクバといっしょにやってきた犬で、この泉をみつけたんだ」とのこと。
この街の成り立ちをぱっと理解できた気がした。
★伝説
ルータが見つけた泉には、金のゴブレットが浮かんでいた。
「これはメッカのザムザムの泉で失くしたものにちがいない。この泉はメッカとつながっているのか!」
ウクバ将軍はここに街を築くことにした。
カイロアンは神がえらんだ土地なのである。


約二百年後に巨大な貯水槽が建設されるまで、こういう湧水でやりくりしていたのかしらん。
***

さらに歩いていくと、パッタンパッタンと機織りの音が聞えてきた↓

のぞいてみると、どの家でも日本で見るのと同じような機織り機があって、かならず男性が機械をあやつっていた。

我々観光客が通りかかるとことさら音を出して立ち寄らせようとするのです(^.^)

****
↓三つ扉のモスク

日本の某ガイドブックには「三つの扉はそれぞれ男性用女性用子供用」と書かれていたが、ほんとにそうかしらん?子供用といって、母親といっしょのこどもをわざわざ引き離して別の扉から入らせるとは思えない。
ガイドのシュクリさん曰く、別にそんなこと決まっておらず、集まってくる人が多いと真ん中以外の扉もあけるだけだそうな。なるほど、その方が自然です。


チュニジアは猫が圧倒的に多い



↓結婚式や割礼式に持っていく手土産なんだそうな


↓今日のホテルはメディナ(旧市街)に隣接したカスバという名前の元要塞↓
↓今も城壁の中の城壁にかこまれている

入口↓

中にはにはこんなプールが↓

↓ウェルカムドリンクといっしょにあのお菓子「マクロウド」が出てきた(^.^)


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カイロアン(ケロアン)の貯水槽

2019-03-11 10:00:00 | チュニジア
川の流れていない平原の中、海岸から四十キロ以上も内陸に位置するカイロアン(ケロアン)がどうしてイスラム王朝の首都であり続けたのか不思議だった。
↓旧市街から五百メートル程のところにある9世紀に建設された貯水槽を見て少し納得した

AD856-863年にかけて、このような水槽が十四もあったのだそうだ。

水源は直線距離で23km離れたシュリシラ山から約40㎞の道のりを水道管で引いてきたそうだ。
古代ローマの水道橋の知恵はイスラム王朝にも引き継がれていたということになろうか。
1961年に改修されて、現在でも利用され続けているので現役の貯水槽なのである。

★それでも、この水槽が完成する以前のカイロアン(ケロアン)がどんな水源に寄っていたのか?
※市内を見学してあとから理解することになる

「アグラブ朝の水槽」の立派な入口

小さな土産店のおじさんがオイルをいっしょうけんめい売りについてくる

↑この日本語の文字は明らかに日本人の書いた文字。今回日本からの一般グループをいくつもみかけた。同行している添乗員さんが書いてあげたんでしょう(^.^)

**
イスラム教は最初の王朝であるウマイヤ朝の始祖ムワイーヤと息子のヤズィード一世の治世にアフリカ侵攻をはじめる。
軍団を率いてやってきた将軍ウクバによってAD670年に建設されたアフリカ最初のモスク↓

現在見られるこの建物は、AD863年アッバース朝下に改修されたもの↓
↓街の壁がイコールモスクの壁になっており、外側に初期につくられた名前の無い墓が並んでいる↓



↓このモスクはチュニジアでは珍しく異教徒も中庭へ入れてくれる↓
↓大通りから

中へ入ってみよう。そこには広々とした別世界がひろがっていた↓

中庭から見上げたミナレット↓

↑手前に見えるのは浄水装置
↓この時代には雨水をためる水槽が地下にあったのだそうだ↓

浄化され溜められた水をくみ上げる井戸が三つ見える↓

長い年月つるべによって削られた跡↓今でも水をくみ出す装置がつけられている

↓ミナレットからは一日五回の礼拝を促す声がムワッジンによって叫ばれていた筈だが…

今のような時計のない時代、どうやって「その時」を決めたのだろう?
↓その答えが階段のついた台の上を見ればわかる↓

なるほど!日時計をつかっていたのか

↓ミナレットの基部には9世紀に改修される以前、8世紀に建設されたとされる部分が残る↓そこには古代ローマやキリスト教時代のモニュメントが組み込まれている↓

↓上野写真左側の碑文を拡大したところ


↓周囲の回廊を支える柱は古代ローマの遺跡から再利用されたもの






キリスト教時代の「十字架」を削ったと思われる部分↓

↓この回廊アーチはスペインのアンダルシア地方でみかけるものとそっくりだ↓


イスラム教徒しか入れない礼拝所も外から写真を撮るのはOK
↓正面がメッカの方向を示すキブラ

↓より美しい古代の柱が並んでいる

↓これら赤い絨毯は未婚の女性が奉納する習慣があるのだそうだ


・・・続く




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ローマの水道~ラ・マルガ、ザグワン、ドゥッガ

2019-03-11 09:21:31 | チュニジア
切れ切れになった水道橋が延々と続いている。
建設がスタートしたのはハドリアヌス帝時代の紀元後128年とされる。

水源からカルタゴまで132㎞、ローマ世界最長の水道。
地下に敷設されているのはそのうち24㎞だけ。地上部分がこれだけ長い水道は珍しい。

水源は直線距離で70㎞ほど離れたザグワン山↓カルタゴ遺跡に大雑把な地図が示された地図があった↓
↓写真いちばん下にザグワン山1,295mと書かれている

↓チュニスからカイロアン(ケロアン)への道でその山が見えてきた↓標高八百メートル付近が水源となっているそうな

フェニキア人の紀元前二世紀までのカルタゴでは、水源は雨水と湧水だった。
海辺の都市カルタゴにローマ人の好む大浴場をつくるなど、これではとても不可能である。

アントニヌス・ピウス帝の大浴場はハドリアヌス帝の建設した水道のもたらした水で実現したのだ。

ローマの主要都市には必ず十分な水が供給される仕組みがある。いや充分な水が供給されたからこそ主要都市になり得たと言って良いだろう。

ザグワン郊外の水道橋は鉄道線路が横切るので壊されている場所もある↓

ちょうどやってきた



↓すぐ近くに軍施設がある場所もあるので写真撮影にちょっと気を遣ったりする


↓落ちてしまったアーチの跡がこんな風に延々と続いている姿は、土地開発が進んでしまったヨーロッパでは見られないものだろう。
北アフリカにおいても、ここが野原の真ん中という風情ではなくなっていく日がくるだろう↓

**

前日、カルタゴ遺跡からチュニス市内への途中ラ・マルガで水道の貯水槽遺跡があった↓

↓水道が運ぶ水はところどころでこういった施設に溜められ、沈殿・浄化させてからその地域へ配送されていた

この場所、発掘されて見えているのはごく一部で、全体で1㎞になる広さがあったとされている。

***
同じ施設が内陸の都市遺跡ドゥッガにもあってびっくり↓
標高六百メートルほどの丘の上から斜面に建設された街↓
↓この門を出たところ

↓街のすぐ外側だった

アーチが落ちて半分埋まってしまっているが、ラ・マルガで見た構造がどんなものだったのか理解できた↓

かまぼこ型の屋根にはところどころに明り取りの丸穴が開いていたのだ

水道施設は内部をしっかり掃除しなくてはならない。メンテナンスがなければ維持できない。

↑細い方の穴型送水管

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