旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

台南の粽とタンツー麺、美味しいモノいっぱい

2019-02-18 19:00:00 | 台湾

「これだけ食べにまた台南へ行きたい」
帰国してからそう感想をいただいた。


小松、同意します(^.^)
その方、「台北でも食べたけれど、比較にならなかった」とのことです。
やっぱり台南が元祖だからかしらん。

「タンツー」とはもともと天秤棒のことを指すことば。
天秤棒に麺と汁と具材を担いで売り歩いていたところからこの名前になったのだそうだ。
中でも有名な店は「度小月」。 漁師が水揚げの少ない月=小月を、タンツー売りでしのぐという屋号だそうな。

↑こんなカウンターみたいな店もあるし
↓こんなしっかりした入口の店もある

それでも店内はこぢんまりしていた。

入口入ってすぐに昔ながらの雰囲気でつくっている↓

細い階段を登る↓


サイドオーダーのエビ巻、イカ、ソーセージ

デザートにフライのアイスクリーム


**
創業1872年という粽の老舗「再發號肉粽」も忘れがたい。
※お店を紹介した分かりやすいホームページ
まったくそっけない看板

写真は飾ってあるが暗い電球の店内

メニューにはちゃんと日本語がある↓

だが、文字だけ見ても大きさはわからない
↓これは特大150元(約550円)のもの

たしかにおおきいけれどぺろっと食べられました
↓ハマグリのスープもお勧めです

↓野菜に肉乗せごはんに…

麺もある
でもやっぱり粽がいちばん(^.^)
「モップつくってますね」とおもったが、これは粽のひもですね(^.^)

**
「豆花を是非たべてみてください、台南が本場だから」
昼間にガイドさんがそう言っていたのを思い出して食べてみる↓

トッピング各種あり味わいゆたかな豆腐!

また食べたいです。
***
「タピオカがたべたい」と若手が言うのでついていったら
↓これって何て読むの?

あ、「いがらし」か、なるほど(^.^)
そこで注文してつくってくれるのがこれ↓

おいしかったんだそうです~

台湾は美味しいモノにあふれております

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鄭成功と台湾島

2019-02-18 17:10:00 | 台湾
「台湾の京都」と呼ばれる台南。駅前の広場に立つ像は鄭成功↓

16世紀はじめ、長崎の平戸で日本人の母と明の官僚で商人だった父のあいだに生まれた人物。
七歳まで平戸の母の元で育ったのだから日本語もじゅうぶんに話せただろう。
※昨年、平戸で偶然に訪れた出身地の村の話をこちらからお読みください
↓台南、安平地区の徳記洋行近くにある像↓

↑首都を追われ実質的に滅亡しようとしていた明を再興すべく奮闘した。
1644年隆武帝に謁見した際に皇帝と同じ「朱」姓を賜り、本人は使おうとはしなかったが、以後「国姓爺」と呼ばれることになる。
日本の歌舞伎「国姓爺合戦」のモデルである。

が、結局大陸で勢力を回復させることは出来ず、台湾島へ撤退。
三代にわたる王朝を築いた。
台湾を辺境ではないひとつの国として認識させた最初の人物。

だから、現代でも台湾の人々に「民族英雄」として仰がれている。
↓オランダを追い出して建設した安平城にある像↓

↓台南で我々の泊まったホテル近くの「赤崁楼」には、オランダを追い出した時のオランダ人との会談がこんな銅像になっている↓

彼のファミリーは福建省の出身で、心ならずも台湾島を本拠にしたのだろうが、結果的にこの島の存在によって助けられたのだ。
なんだか蒋介石を思い出させる。

四十歳前に死去したが、息子が建てた廟が台南中心部にある。

旧市街にはたくさん廟があるので間違えないように(笑)
↓こちらはとなりにある、より目立つ別のもの↓

ランタンがならんだ通りをへだてて↓

鄭成功廟の敷地にはいるととたんにお土産物屋がたくさん開かれていた。
↓そのうしろにあるのは、あ!平戸で見た母といっしょの子供の頃の鄭成功ではないか↓

↓平戸市が贈った日本風に帯刀している像もあった↓

鄭氏の末裔は大陸にも続いている。台南と長崎と厦門を結ぶ交流が

この廟があるおかげで続けられているのだ

歴史と共に廟の姿もかわってゆくのは当然。
三百五十年前の面影が感じられるモノは残っていないのか?
解説版を読んでいると↓この石の階段は当時からのもののようだ↓

井戸も当時からあったと記載されていた。
どこにあるかと探してみると、廟を出てすぐ道路際にこんな風に残っていた↓

入る時にはちいとも気づきませんでした。
***










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾に八田與一が遺した烏山頭ダム

2019-02-18 16:00:00 | 台湾
高雄への飛行機から見えた、あのダムだ↓

今日は高雄から一時間ほどかけてやってきた
ダムが建設されて以降に、この地域は自然景観を楽しむ「シラヤ国家風景区」とされ、観光客も多くやってくる。

1930年に八田與一という石川県出身の技師が完成させた。

彼のちょっとかわったポーズの銅像がこれ↓

堅苦しい像を嫌った本人の意志で、自分がかかわったダムを見守る姿になっているのだそうな↓
↓この位置から見ると、なるほどと思う↓

兼六園の琴柱燈籠がある

★日清戦争に負けて領土を割譲することになった清の実質支配者=西大后は、台湾の割譲を麻雀しながらぽんと許可したのだそうだ。大陸国家の清にとって台湾は辺境で未開の島だったということだろう。
だが、日本にとって台湾ははじめて正式に獲得した領土。侵略者として各地で抵抗を受け続けるが、同時に精力的に開発もしていった。港を整備し鉄道を走らせ、日本から多くの人が移住した。増えた人口をまかなう農地が必要になっていった。

台湾島の中部に位置する嘉儀と台南の間にひろがる「嘉南平野」は大雨が降れば洪水、降らなければ旱魃にみまわれるきびしい土地だった。
日本政府は大学卒業したての優秀な技術者を派遣し、ダム建設を推進させた。
24歳で台湾に渡った八田與一は、34歳からの十年間を費やしてこのダムを完成させた。彼は56歳で亡くなったのだから、生涯ひとつの大仕事だったと言えるだろう。



完成した当時には「世界最大」と言われた※ダムの規模を何をもって測るかによる

堰堤の長さが1237mもあるのはロックフィル式だったから。エジプトのアスワンハイダムと同じですね。


↓記念館が設置されている

八田氏と同郷の妻はこの記念館の下にある旧放水路に身を投げた。夫が乗船したフィリピン行の船がアメリカの潜水艦に沈められ、その死が疑いようのないこととなった後。敗戦の1945年、9月だった。

当時の工事資材を運んだ機関車↓


建設には百三十四人の殉職者がでた。殉職碑には日本人台湾人の区別なく刻まれているそうだ。

堰堤の下に寄贈された南洋桜の並木道がある↓

↑二月後半、花は終わりにちかづいていた

↓不意に、北京の天壇そっくりの建物が見えてきてびっくり↓

ああ、ここはレジャーランドとしても開発されていたんだ。
↓放水溝の上を渡る吊り橋もその施設のひとつか

***

建設時に八田氏が家族が住んだ家が2011年に復元されている↓
日本家屋なのだが↓

入ってすぐ左にある応接室は洋風↓

掲げられていた八田氏の肖像画は弟さんが描いたものだと解説してくれた
↓黄色い服はこの施設専用ガイドさん

若いがそこそこ上手に日本語で解説してくれた。この蓄音機は同時代のものを設置した。八田さん、音楽聴いていたかしらん。
↓庭園の花はあとから植えたものだろう。

美しく咲いておりました
現在はなくなってしまったが、このエリアには二百を超える従業員宿舎があり、それに伴う病院や商店、学校、娯楽施設としてテニスコートに弓道施設まで設置されていたのだそうだ。労働環境を整備することも重要だと認識していたわけだ。
↓防空壕がぽつんと保存されていたのは、周囲にそういった建物があったからなのか↓

↓今はビジターセンターやお土産屋さんができております


ここにはホテルもあるし、ダムの遊覧船もある。
次回の《手造の旅》台湾で、もうすこし時間をかけてもよいかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高雄~龍虎塔と自助餐

2019-02-18 13:00:00 | 台湾
高雄を調べはじめて最初に目に留まった「龍虎塔」へやってきた。
↓赤いズボンの高雄熊も迎えてくれる

↓来てみてはじめてどんな立地にあるのかわかった

名前の通り、巨大な龍と

巨大な虎が口をあけている

龍の口から入って虎の口から出ると厄除けになるそうな。
間違えないように矢印で道案内がある↓


竜の口から入る

胴体内部には閻魔様とか↓

親孝行を勧める図

↑呉の孟宗は母の病を癒す筍を探すが季節は冬。
竹林で泣き伏すと大地が揺れて筍が姿を現したのだそうな↑

階段をのぼっていくと

龍虎の背中が迫ってくる

上階から見晴らすと、この塔が「慈済宮」と呼応して建てられているのがわかる

1979年建設。さほど古いモノではない。

虎の口から出る↓



慈済宮の方へも行ってみよう↓

受験合格を祈る人は受験票のコピーも置いていくのだそうな↓ありました


**
市内へ戻る途中で古い門があるのに気付いた↓

高雄(当時はまだ「打狗」)は十七世紀前半にオランダの手から明の末裔である鄭成功によって征服された。
この時島の各地に建設された城塞都市の面影が今も残っていたのである。
***
お昼ご飯は「自助餐」にした↓オフィスや高層マンションの立ち並ぶ一角にある

こんなスタイル↓

好きなものをとって最後にレジで支払う↓

値段が重さで決まる方式にしては肉や魚も同じようにおいている。
どうするのかと思ったら、レジの人がお盆の上をじ~っと見て値段を言うのでびっくり(笑)

↓お米は五穀米が選べる↓


午後は八田與一のつくったダムへ向かいます

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高雄~ビルの谷間の朝食屋からハマセン地区へ

2019-02-18 09:52:32 | 台湾
宿泊したSKY TOWER 85より

台湾の人は朝食を外で食べるときいていた。
ホテルを出てすぐ、ビルの谷間

朝七時すぎに行くと開店準備をしていたが、話しかけると「十分でこのテーブル用意する」と言われた

みよう見まねで注文
肉をその場で焼いて卵とはさんでくれたサンドイッチ↓

暖かくてうれしい(^.^)見たことのあるようなキャラクターの包装紙

麺類も頼んでみた。分けあって味みましょう(^.^)

↓そうこうしているうちに学校へ行く子供たちがどんどん来店↓

なるほど、この年代から朝食は外でという習慣が身についてくるのですねぇ
**
近所のコンビニも多様な食が用意されている

↓台湾リピーターの方お勧めの卵↓

日本とおなじようなおにぎりも売られていた。
多様なスナックも同じです

バス停にやってきた↓
なんだか幸せになれそうなバス↓


***
朝九時にホテル出発。午前中は高雄市内をめぐる↓
日本統治時代に大きく発展した高雄。
↓1939年に建設された市庁舎が、今では歴史博物館に使われている

↓「合馬星」と書いて「ハマセン」と読ませる地区は、日本統治時代に埋めたてられた場所
↓貨物を運ぶ線路を敷いていたので日本人が「浜線」と呼んでいたわけだ。
この通称の呼び名に中国人が漢字をあてたということ↓

古びた倉庫がずらりとならんでいた地区だったのだが

再開発されて現代アートの楽しめるおしゃれな地区になっている
↓貿易港らしくコンテナでつくられたこんなものも↓

↓きのう登った寿山からみえた操車場も今は鉄道博物館になっているそうな↓

あ!冒頭の鉄道博物館がそれだったのか。鉄道ファンでなくても楽しめそうな一角。高雄、見所増えてます。
↓これら倉庫は日本へ輸出されるバナナが大量に保管されていたという。
台湾が日本領だった時代にはおいしいバナナが日本国内で豊富に手に入ったのだが、戦争がはげしくなって輸送事情がわるくなるととたんになくなってしまったときいた。
↓今は、おいしいパン屋さんが↓世界的な賞もとったそうです

大きな壁にカラフルな絵が描かれているようだ↓行ってみよう

日本式新幹線を世界ではじめて導入した台湾新幹線は2007年に開業した↓


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする