旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

余呉湖はダム湖のように使われている

2024-04-16 07:03:50 | 国内
余呉湖は琵琶湖より47m高い位置にある、周囲6㎞の小さな湖。


4月2日、最初に訪れたのは「黒田観音」。

黒田官兵衛一族の出身地と伝わる黒田村の小さなお堂※「長浜米原を楽しむ」HPにリンクします

お厨子が開くと等身大より大きなお像が姿をあらわす。

いつも観音様ばかりに目がいっていたが↑今回はこのお堂の木彫も観るべきものだと感じた。
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余呉湖へ向かう

余呉湖は賤ヶ岳によって琵琶湖と隔てられている↑「賤ヶ岳の戦い」は実際には余呉湖畔が主戦場だった。

流れ込む川はない湧水の湖…と思って湖畔の地図を見たら↓

↑なんと琵琶湖から巨大ポンプで水をひきあげているではないか↑※余呉湖と琵琶湖の間を点線のトンネルがつないでいる↑
琵琶湖がすぐ近くにあるにもかかわらず、湖北は江戸時代以前からずっと水が足りない地域だった。
杉野川、高時川、余呉川という三つの小河川からの水の取り合いで集落は常に争っていた。

1950年代、60年代、農業に加えてヤンマーをはじめとする工場もたくさん進出し、工場用水も必要になってきた。
水問題の根本的な解決のためダム建設が検討されはじめた。
画期的な解決策として余呉湖を実質的なダム湖として活用するアイデアが採用され、昭和40年から22年をかけて琵琶湖の水をひきあげて分配する現在のかたちができあがったのだった。
余呉川、高時川は幅をひろげられ取水口が整備された。

自然に見える湖の地下がそんなふうになっているとは。

日本中にある羽衣伝説発祥の地とされている。

さらに、三橋節子という画家の話をおしえていただいた。

梅原猛が彼女について書いた「湖の伝説」↑
昭和50年に、35歳で二人の子供をのこして早世した画家が、晩年の主題にしていた余呉湖。

「あの民宿に滞在していたんですよ」とガイドさんがおしえてくださった↑
骨の癌で片腕を失っても、夫の画家鈴木靖将の助けを借りて作品を発表し続けた。
今回宿泊した「紅鮎」さんに鈴木さんの絵が飾られていたっけ↓

※COREZOのページにお二人のことが詳しく書かれていました、リンクします
絶筆は「余呉の天女」。
大津に彼女の美術館がある。
※アイエム(インターネット)美術館にリンクします
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