旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

鄭成功と台湾島

2019-02-18 17:10:00 | 台湾
「台湾の京都」と呼ばれる台南。駅前の広場に立つ像は鄭成功↓

16世紀はじめ、長崎の平戸で日本人の母と明の官僚で商人だった父のあいだに生まれた人物。
七歳まで平戸の母の元で育ったのだから日本語もじゅうぶんに話せただろう。
※昨年、平戸で偶然に訪れた出身地の村の話をこちらからお読みください
↓台南、安平地区の徳記洋行近くにある像↓

↑首都を追われ実質的に滅亡しようとしていた明を再興すべく奮闘した。
1644年隆武帝に謁見した際に皇帝と同じ「朱」姓を賜り、本人は使おうとはしなかったが、以後「国姓爺」と呼ばれることになる。
日本の歌舞伎「国姓爺合戦」のモデルである。

が、結局大陸で勢力を回復させることは出来ず、台湾島へ撤退。
三代にわたる王朝を築いた。
台湾を辺境ではないひとつの国として認識させた最初の人物。

だから、現代でも台湾の人々に「民族英雄」として仰がれている。
↓オランダを追い出して建設した安平城にある像↓

↓台南で我々の泊まったホテル近くの「赤崁楼」には、オランダを追い出した時のオランダ人との会談がこんな銅像になっている↓

彼のファミリーは福建省の出身で、心ならずも台湾島を本拠にしたのだろうが、結果的にこの島の存在によって助けられたのだ。
なんだか蒋介石を思い出させる。

四十歳前に死去したが、息子が建てた廟が台南中心部にある。

旧市街にはたくさん廟があるので間違えないように(笑)
↓こちらはとなりにある、より目立つ別のもの↓

ランタンがならんだ通りをへだてて↓

鄭成功廟の敷地にはいるととたんにお土産物屋がたくさん開かれていた。
↓そのうしろにあるのは、あ!平戸で見た母といっしょの子供の頃の鄭成功ではないか↓

↓平戸市が贈った日本風に帯刀している像もあった↓

鄭氏の末裔は大陸にも続いている。台南と長崎と厦門を結ぶ交流が

この廟があるおかげで続けられているのだ

歴史と共に廟の姿もかわってゆくのは当然。
三百五十年前の面影が感じられるモノは残っていないのか?
解説版を読んでいると↓この石の階段は当時からのもののようだ↓

井戸も当時からあったと記載されていた。
どこにあるかと探してみると、廟を出てすぐ道路際にこんな風に残っていた↓

入る時にはちいとも気づきませんでした。
***











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