30数年ぶりの再読。
社会科学の方法とは、どのようなものかを、マルクス、ヴェーバーの所説を丁寧にパラフレーズした本。「方法」という用語がつかわれているが、その内容はもう少し広く、「方法」の周辺にあるものも取り入れてある。1969年代に行われた講演をおこして印刷物になっていたものが一冊に編集されている。
マルクス、ヴェーバーの理論に関わる多くの誤解を解きほぐすこと、ヴェーバーの見地を紹介すること、デフォーの「ロビンソン・クルーソー」から当時のイギリスの社会を浮き彫りにすることなどが、最初の「社会科学の方法-ヴェーバーとマルクス-」の内容の眼目である。
著者は『資本論』を読み込んで、マルクスが価値形態論などで物と物との関係を論じながら、あるところにまでその論述が進むと人間と人間との関係を登場させ、この過程を繰り返して一歩一歩具体的人間の姿を表象していこうとしている姿勢に共感をもっているようである。マルクスとヴェーバーの理論には意外と重なる部分がある。この点も著者が強調していることである。マルクスは社会構成体の土台(生産的諸関係)に重きをおいていたのは事実だが、上部構造の自律性を承認していたふしがある。ヴェーバーも経済的利害関係の規定的役割を認めていた。しかし、どちらかと言うと文化的領域の役割の解明に研究の重点があった。
「ヴェーバー社会学における思想と経済」ではヴェーバー宗教社会学が宗教(思想)と経済との緊張関係が展開されているとし、そこにおける3つの柱を理念、内的-心理的な利害関係、外的-社会的な利害関係とにみ、理念と利害状況の緊張が利害状況のなかへ影を落とすと、それは内的-心理的な利害関係、外的-社会的な利害関係との緊張関係としてあらわれ、これが現実の歴史世界のダイナミックスの要素となるという示唆を与えている。
「ヴェーバーの『儒教とピューリタニズム』をめぐって-アジアの文化とキリスト教-」では、文字どおり、儒教、道教を中心としたアジアの宗教西欧キリスト教に備わっている共通性(二重構造)と差異性が論じられ、それぞれの地域の社会構造に与えた影響、果たした役割を解説している。
「経済人ロビンソン・クルーソウ」で著者は、デフォーが『漂流記』で描こうした対象、すなわち当時のイギリスの国富と未来をを担っている人(中産者的生産者層)々の生活様式を明らかにしている(その対極でジョナサン・スウィフトが『ガリバー旅行記』でかれらの闇の部分を描いたことを指摘)。経済人ロビンソン・クルーソウは、その頃大量に見出された経済的に合理的な行動をする人間の典型(金儲けだけが上手な単なる企業家でなく、もっと高いヴィジョンをもつ「経営者」)だったとのことである。
若いころ読んだ時の傍線がかなりあった。いいところに線を引いているところもあれば、読み落としていたらしいところもあった。いい読書追体験だった。
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