【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

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橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』講談社新書、2011年

2011-10-22 00:09:04 | 科学論/哲学/思想/宗教

                            ふしぎなキリスト教

 本書はキリスト教についての対談集ですが、通読してキリスト教について体系的に理解することができました。大澤さんがいろいろな疑問(素朴な質問、専門的な質問)を橋爪さんに向けるという形をとっています。質問が的確だし、回答が丁寧、比喩もつかってわかりやすいです。

 学んだことをいくつか箇条書きします。ユダヤ教とキリスト教との違いはない(一神教)、ほとんど同じ、違うところはキリストがいるかどうか(預言者がいらなくなった)、だけとのこと。
 Godと人間は「契約」(「条約」のようなもの)で結びつくよそよそしい関係、しかしキリストは「愛」をのべて大転換が起こったそうです。
 原罪とは「人間の存在自体が間違った存在」だということ、行為に先立つ存在の性質を言います。神の契約を守れない人間は、キリストを救い主だと受け入れることで特別に赦されたのです。
 この世が不完全なのは楽園でないからであり、それが人間に与えられた罰です、そのような不完全な世界で神の意志に反しないようにつとめていくのが彼らの役目、信仰とは不合理なことをあくまでも合理的に、つまりGodとの関係によって解釈していくこと、試練とは現在を将来の理想的な状態への過渡的なプロセスと受け止め、言葉で認識し、それを引き受けて生きること。
 偶像崇拝が禁じられているのは、それをつくったのが人間だからです。また、イエスが処刑されたのは神の子となって神を冒瀆したからですが、罪状の認定はかなり微妙らしいです。というのはイエス自身は自分を神の子とはおもっていなかったからです(正当な裁判があったかどうかも怪しいところである)。
 他にとくに興味を引いたのは、キリスト教には神の法(その一部が自然法)を認めており、これは宇宙をつくった設計図で、人間はこれを理性によって発見できる(数学、論理学として)ことになっている点です。
 また東方教会(ギリシャ正教)と正方教会(ローマ・カトリック)への分裂でキリスト教の役割が大きく異なることになり、前者では世俗の権威(皇帝)と宗教的権威(教皇)とが一元化されたようですが、後者では分裂しました。
 また前者では聖書(旧約聖書はヘブライ語で、新約聖書はギリシャ語で書かれていた)の翻訳が認められましたが、後者ではそれが認められなかったことも、キリスト教のふたつの流れに大きな影響を与えたようです。

 本書を読んでキリスト教への大きな疑問のいくつかが氷解しました。

 付言すると、Amazonのレビュー欄では本書に対する読者の反響が大きく、低い評価を与えている人もかなりいます。それらに耳を傾けると、本書にはキリスト教に対する誤った理解、間違いがあるようです。わたしは聖書をまともに読んだことがないし、クリスチャンでもないので、著者たちが聖書やキリスト教について一部誤解しているとの見解については、その当否を見極めれません。ただ、上記でわたしが本書から学んだこととして書いた点にかかわる否定的コメントはなかったようです。


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