【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

大正時代の女性だけの社会主義者の会

2010-02-17 01:07:57 | ノンフィクション/ルポルタージュ
江川昭子『覚めよ女たち~赤瀾会の人々』大月書店、1980年

 赤瀾会(せきらんかい)は今までほとんど知られることがなかった大正時代の女性社会主義者の会です。

 これに先立って当時の東京には、社会主義を標榜する思想家グループがいくつもあり、有名なところでは大杉栄を中心とする労働運動社、山川均・菊栄夫妻が主宰する水曜会、高津正道などの早稲田派の自主会などがありました。

 赤瀾会の母体は北郊自主会で、後者は主に時計工組合(ナップボルツ時計工場の労働者が組織した急進的な労働組合)と北風会(アナーキスト系の思想家ッグループ)などの人々が集まった自主的研究グループでしたが、女性もここに参加していました。九津見房子、伊藤野枝、堺真柄、橋浦はる子、秋月静枝らです。

 女性ばかりの集まりに名称を、ということで九津見が赤瀾会(「瀾」は「さざなみ」の意味)を提案し、それに決まったとのことです(p.22)。42名くらいの会員がいて、簡単な綱領のようなものもあったようです(p.23)。

 この赤瀾会が世間の注目を集めたのは、1921年の第2回メーデーにメンバーが参加し、警官と衝突し、参加した女性が全員が検束されたという事件によります。社会主義者にたいする支配階級の弾圧は厳しく、赤瀾会は中心人物であった九津見房子の離京、高津多代子のお目出度誌事件、堺真柄と仲宗根貞代の軍隊赤化事件が重なってその年の秋には空中分解、自然消滅しました(p.177)[23年山川菊栄の八日会に引き継がれる]。

 その理由は弾圧の厳しさが客観的な要因であったが、赤瀾会に参加した女性はほとんどが男性の社会主義者の身内(妻など)であり、理論的な立場からの行動というより多分に情緒的であり、また労働者、一般人とのつながりが弱かったという点にあったからのようです。

 著者は従来還り見られることもなく、歴史の荒波のなかに消えていった赤瀾会の足跡をたどり、その結成から50年ほどたって生存していた方々を探し出し、インタビューを行って本書をまとめました。8年ほどもかかった大きい仕事でした。

 登場する方々の名前を一覧しておきます。堺真柄・為子、高津他多代子、橋浦はる子・りく、仲宗根貞代、伊藤野絵、九津見房子、北川千代、山口小静、林てる、秋月静枝、中村しげ。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿