く~にゃん雑記帳

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<唐津> 唐津城は天守閣の石垣修復中 虹の松原や高島を遠望

2014年08月23日 | 旅・想い出写真館

【曳山の塗り替え作業公開、旧唐津銀行本店は地元出身の辰野金吾監修】

 唐津のシンボル、唐津城は松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸高台に位置する。別名舞鶴城。約50年前の1966年に築かれた天守閣の直下では、石垣の解体修復工事が行われていた。築城から約400年。往時を偲ばせる石垣も緩みを生じ、石材自体のひび割れや劣化も目立って、崩落の恐れが出てきたことによる。修復工事は10年がかりで、完成は2018年の予定という。

 

 唐津城の眼下東側には日本三大松原の1つといわれる「虹の松原」(国の特別名勝)が美しい弧を描いて伸びていた。初代藩主寺沢広高が植林したもので、クロマツを中心に100万本という松林が1kmの幅で5kmも続く。唐津城の北側沖合いに浮かぶ平らな島は高島(下の写真㊨)。島内にある「宝当神社」がそのめでたい社名から宝くじファンの聖地として一躍有名になった。

 

 城周辺は舞鶴公園と呼ばれる。その一角、巨樹のフジ棚の近くに歌人・斎藤茂吉の歌碑が立っていた。「松浦河 月あかくして 人の世の かなしみさへも 隠さふべしや」。1920年(大正9年)喀血後の転地療養で唐津に滞在していた時に詠んだ。城を下って中心街に向かう途中「時の太鼓櫓」を見上げていると、おなかに響く大きな太鼓の音とともに武士人形と大太鼓がせり出してきた。からくりは午前7時~午後7時の毎正時ごとに作動するという。

 

 唐津といえば「唐津くんち」が有名。唐津の総氏神、唐津神社の秋祭りで、国指定の重要無形民俗文化財。毎年11月2~4日、14台の曳山が製作年代順に、火消し装束の曳き子によって城下町を練り歩く。最も古い1番曳山は1819年(文政2年)製作の「赤獅子」。神社西側にある曳山展示場に入ると、獅子や兜(かぶと)、鯛、鯱(しゃち)などの曳山が誇らしげに鎮座していた。そこから歩いて数分の「西の門館」では6番曳山「鳳凰丸」の塗り替え作業を見学することができた。

 

 中心街の一角にひときわ目立つ欧風の建物があった。市指定重要文化財「旧唐津銀行本店」(下の写真)。竣工は約100年前の1912年(明治45年)。唐津出身の建築家・辰野金吾(1854~1919)の監修で、愛弟子の田中実(清水組)が設計を担当、京都高島屋が装飾を受け持った。辰野金吾といえば東京駅丸の内駅舎の設計で有名だが、関西にも日本銀行の大阪支店や京都支店、大阪市中央公会堂、奈良ホテルなど多くの名建築が残っている。

 

 旧唐津銀行に入ると、その辰野の胸像と共に同じく唐津出身の建築家、曽禰達蔵(1853~1937)の胸像が並んでいた。辰野と曽禰は唐津藩の英語塾「耐恒寮(たいこうりょう)」で学んだ後上京、「工学寮」(後の工部大学校→東京大学工学部)の第1期生として入学し、明治政府が英国から招聘したジョサイア・コンドルに建築を学んだ。唐津はこの2人に加え、村野藤吾(1891~1984)という名建築家も生んでいる。

 唐津が日本の近代建築史に残る建築家を輩出した背景には何があったのか。旧唐津銀行館長の北島俊和さんが「いい人物に恵まれたことが大きかった。その人物とは高橋是清です」と教えてくれた。後に日銀総裁や内閣総理大臣になったあの高橋是清である。高橋は弱冠17歳という若さで英語の教師として「耐恒寮」の教壇に立った。辰野も曽禰もその教え子である。2人に新しく東京に創設される「工学寮」への入学を勧めたのも高橋だった。高橋なくして名建築家の辰野も曽禰もなかったかもしれないというわけだ。

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