小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

道真怨霊  4

2006-06-04 20:27:06 | 小説
 道真は42才の時にも、中央官庁から地方に飛ばされたことがあった。讃岐守への転任である。この人事を決したのは、ときの太政大臣藤原基経である。すなわち時平の父だった。
 讃岐への転任に際しては、道真は基経の前で、声を失って嗚咽している。その基経の息子がまたしても自分の上司なのであるから、心中おだやかでないのは道真のほうなのである。確執は親子二代にわたっているのだ。基経が死んだあと、政治力学に変化がおきたように、道真は異常な出世ぶりで右大臣にまでのぼりつめた。しかしなお、時平という最後のハードルは残っていた。
 道真と時平というふたりの大臣を比べてみると、年齢的にも革新派が時平、保守派が道真だった。しかも政治手腕は年若い時平のほうがはるかに優れていた。道真は讃岐時代も、地方行政はなかば他人まかせでほったらかし、詩作にばかりふけって、「痴人」あるいは「狂士」と陰口を叩かれている。ほんらいは政治家的な資質の持ち主ではないのに、権力の座には執着のあった厄介な矛盾を抱えている人物だった、といえる。三善清行という人物が道真に忠告していた。「学者出身で大臣になった者は吉備真備以外にない。ろくなことはないから、今のうちに足るを知って勇退し、山野に自適せよ」
 しかし、道真はこの忠告を無視した。彼は「管家廊下」という私学も経営していた。官僚養成学校である。管家伝によれば、生徒数は数百人、「さながら朝野に満てり」とある。朝廷の要所要所に生徒がいたであろう。だから道真に包容力があり、もう少し積極的にうまく立ち回れば、時平を蹴落とせたかもしれない。
 むろん、そのことに時平の方が気づいていた。だから、時平が先手を打ったのである。


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