小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

道真怨霊  3

2006-06-03 20:04:58 | 小説
『大鏡』という史書がある。11世紀に作成されたものらしいが、作者は特定されているわけではない。ともあれ菅原道真の生涯を語るとき、必ず引き合いに出される史書だ。その『大鏡』は道真とライバル藤原時平についてこう書いている。
「右大臣(道真)は才よにすぐれめでたくおはします」しかし左大臣時平は「御としもわかく、才もことのほかにおとり給(へる)により」とあり「左大臣やすからずおぼしたるほどに、さるべきにやおはしけん」道真を左遷させたというふうに示唆している。
 つまり時平がその劣等感ゆえに道真を妬んだといわんばかりである。通説でも時平の讒言によって、道真は失脚されたことになっている。その讒言とは、ときの天皇(醍醐天皇)を廃し、その皇弟である斉世(ときよ)親王を立てよう企んだというものである。斉世親王の妻は道真の娘だった。道真は天皇の義父になろうと企んだというわけだ。
 はたして、讒言であったろうか。とりあえず『大鏡』の書き方に違和感を感じるのは、時平が道真に劣等感をもついわれなどないことである。道真はたしかに学者として評価の高い人物であったが、学才で政治をするわけではない。右大臣という要職は、左大臣の補佐役である。藤原時平のほうが立場は上なのである。
 道真が右大臣になったのは55才、同時に左大臣になった時平は28才。親子ほどの年齢差がある。時平が父親のような年齢の道真に、ことさら劣等感を抱くわけもない。むしろ時平に対し腹に一物あったのは道真のほうである。なぜなら時平の父にかって道真は冷や飯を食わされているからである。

道真怨霊  2

2006-06-01 20:39:54 | 小説
 菅原道真は845年生まれで、903年に没している。宮廷政治はなやかなりし平安時代に、右大臣までのぼりつめた高級官僚である。文人あるいは詩人とも評されるが、あくまでも高級官僚ないし宮廷政治家と見なした方がよろしい。だからこそ政権闘争に敗れたのである。ライバルは左大臣藤原時平であった。
 後世、道真は流刑にあったと誤解する向きがあるが、むろん流刑などされてはいない。
   東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花
             あるじなしとて春を忘るな
 こんな歌を詠むものだから誤解されやすいのである。右大臣から九州は太宰権師(ださいのごんのそつ)に降格になっただけである。左遷ではあるが、これだって高級官僚であることに変りはない、といえる。大宰府に赴いて2年後に現地で病死した。59才だった。
 道真が赴いた大宰府南館の右郭十条の坊の官舎は荒れはてていた。遣唐使の廃止によって、使われなくなり廃屋のようになっていたのだ。遣唐使制度を廃止に追いやったのは、ほかならぬ道真であった。だから彼が始末をつけなければならなかったともいえる。
 遣唐使といえば、道真の祖父も伯父も入唐していた。いわば遣唐使の家筋に生まれた道真は彼自身、遣唐使に任命されていた。ところが、遣唐使制を廃止することによって、自らの唐への長期海外出張を忌避したのである。子供の頃からの憧れであった唐への思いを断ち切ってまで、道真にはなさねばならぬことがあった。
 宮廷における政権闘争である。