小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

道真怨霊  完

2006-06-11 15:34:15 | 小説
 天神社の発祥は947年の北野神社からとされている。北野は平安京の近郊農村地であった。道真とは関係なく雷神信仰がもともとあったところらしい。2年後の949年には、道真怨霊(雷神)をたくみに政治的に利用した藤原忠平が没している。その10年後、忠平の子で右大臣となった藤原師輔が資材を寄進して本格的な神殿を作った。忠平系藤原氏の崇敬する社となってゆくのである。
 庶民はといえば、打ち続く天変地異に苦しんでいたが、せめて原因がわかれば、おののく不安も少しはやわらぐといった情況にあった。原因のわからぬ天変地異のほうが恐いのである。しかし、道真のたたりとわかれば、その怨霊を鎮めればよいという対策はとれるのであるから、なにがしかの安堵感がある。藤原氏にしても、庶民の天神信仰に同調して、道真怨霊を鎮めれば、とりもなおさず藤原氏への支持、政権の安泰につながるという局面を迎えるに至るのだ。
 987年には、一条天皇が北野天満宮に行幸、官幣社に列するようになる。
 かくて、たたる神は変容する。
 怨霊は、農耕神、至誠の神、弱者救済の神、子供の守り神、芸能の神、書道の神、さらに学問の神と変化した。とりわけ、江戸時代には寺子屋の神様として庶民に親しまれ、天神講なる催しも行なわれ、これが天神様は学問の神様という今日の信仰の対象につながっている。
 菅原道真という一個人の「御霊」は、おそらく道真のあずかり知らぬところで「怨霊」として勝手に政治の具に利用された。しかし、千年以上の歴史を閲してみると、道真のピュアな学者魂だけが天神様となったのである。
 ちなみに、歌舞伎の三大名作は「義経千本桜」に「仮名手本忠臣蔵」それに「菅原伝授手習鑑」である。義経といい、赤穂四十七士といい、そして道真といい、私たちは「悲劇」の主人公が好きである。     


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