小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

数学教師になった「暗殺犯」  3

2009-04-01 15:19:41 | 小説
 ロンドンで、到着後1か月半ほどして他の留学生仲間7人と一緒に撮影した大石団蔵の写真(尚古集成館蔵)がある。前列に4人、後列に4人、もちろん皆洋服姿で、大石は後列左端に、心なしか物憂げな表情をして立っている。聡明さのうかがわれる風貌だが、しかし屈託ありげな印象を与える。
 大石の足跡をロンドンに追った永国淳哉氏は、ユニバーシティー・カレッジの図書館員ジャネット・バーシル女史に大石の写真(注)を見せている。すると女史は「暗殺者といわれてみれば、たしかに少し寂しそうな面影がありますね」と言ったそうだ。団体写真の中の大石に私が抱いた印象に近いと思われる。
 薩摩藩命は「運用測量機関修行」であったから、大石がロンドンで数学を学んだことは間違いない。帰国後、彼は数学の教師になった。鹿児島県立中学造士館(旧制七校の前身)で、数学を教えたのである。
 新政府は、このときの薩摩留学生たちを新帰朝者として厚遇したはずであり、実際に仲間の森有礼や鮫島誠蔵は新政府に出仕している。
 しかし、大石は、つまり高見弥一は地方の算数教師として、地味にその生涯を閉じた。故郷の土佐に帰ることもなくである。
 おそらく、吉田東洋暗殺に加担したという負い目のようなものが彼の生涯に陰影を落としているのだ。彼の心境をうかがえる日記とか史料はなく、人生そのものが寡黙にすぎた。
 明治29年(1896)2月28日、鹿児島市加治屋町で病没。享年を記さねばならないが、さて、ここで問題がある。
 

(注)函館在住の大石のお孫さんから、土佐の郷土史家吉田萬作氏が入手した貴重な写真と永国氏は書いている。1866年に撮ったもので、ロンドン・ワトキンス写真館で撮影したものらしい。残念ながら著書に写真の掲載はない。


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