小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

路通という俳人

2014-08-24 12:05:08 | 小説
 芭蕉の「奥の細道」紀行の随伴者は、よく知られているように曽良であったが、実は当初に予定されていたのは路通であった。路通と曽良が入れ替わったのである。
 この路通には謎が多い。まず出身地に定説がない。美濃、京都、筑紫と諸説ある。本名は八十村与次右衛門とされているが、齋部(忌部)姓だともいう。いずれにせよ教養があって、三井寺育ちだったという説もある。
 元禄2年12月5日付で、芭蕉が大津の医者で俳人の尚白に宛てた手紙で、路通の俳句を紹介している。

  火桶抱(い)て をとがい臍(ほぞ)をかくしけり

 そして芭蕉は、「此作者は松もとにてつれづれ読みたる狂隠者。今我隣庵に有。俳作妙を得たり」と書きつけている。
「松もと」というのは現大津市の松本のことらしい。大津で徒然草の講義をしている狂隠者が路通だった。
 注目されるのは今は路通は江戸に出て、深川の芭蕉の隣に住んでいるという事実だ。
 芭蕉と路通の関係に、ただならぬものがあるように思われる。
 その路通を、なぜ奥の細道への同行者からはずしたのか、よくわからない。わからないことだらけだが、路通にかまけていると、私の小説『芭蕉の妻』執筆が先に進まない。ひとまず路通のことは棚上げしておこうと思う。けれども、あとで微妙に路通がからんできそうな予感がしている。


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