毎年欠かさない私のささやかなお勤め。
本日は私の父親の命日である。
思い起こせば37年前になる。
早いものだ。
私が30歳の時に亡くなっている。
残してくれた財産は貧乏な釣具屋の息子を薬科大学に行かせてくれたことかもしれない。
それが今につながっている。
私の大学入学とともに、釣具屋では学費が難しいと思ったのか花屋に転業している。
どちらもそれほど儲かる商売ではない。
従って、私の大学時代は”花売り息子”だった。
夏休みや冬休みなどは朝から生花の水替えから始まる。
葬式が入ると花かごを運んだ。
年末にはしめ飾りも露店で呼び掛けた。
根っからの商売人の子である。
そんなお金がない家にもかかわらず大学生活は“酒と女と部活“の生活を謳歌していた。
クラスでは私がいても、いなくても優しい女性が“代筆”をしてくれた。
とりあえず試験だけは絶妙にくぐり
卒業して何をするでもなく自宅の仕事を手伝っていた。
気が付くと4月も中旬を過ぎたころ先輩から「喝」が入る。
「いつまでふらふらしているんだ」
そんな先輩が紹介してくれたのが医薬品卸だった。
1年間は管理薬剤師として暇な時間を費やした。
その後の4年間は営業として医療機関を回った。
もう辞めようと当時の専務に相談すると「ちょっと待て」と言われて未開のコンサル部門を立ち上げさせられた。
10年間ほど医薬品卸のコンサル部門を担当する。
全国に見本などない。
しかも28歳の若造である。
大阪のコンサル会社で3ヶ月の研修を受けた。
毎日が新しいことへの挑戦だった。
医師を前に、病院の事務長を前に恐れを知らずに講演も行った。
38歳の時に新規事業部長になった。
誰もやりたがらない介護事業を任された。
介護保険はまだ始まっていない。
40歳になると給料が安すぎて子供たちの学費が足りない現実に気づく。
当時の社長に辞表を提出するが受け取ってくれない。
かなりの話し合いの経過の後に、おもむろに「今度、新しく薬局を始める」と切りだされた。
「それは良かったですね」と関わりたくなかった。
辞める気持ちに変わりがなかったが「社長で」の決め手に負けた。
お陰様で薬局はゼロから始まり10年間で16店舗の50億円、介護事業は道内7拠点で10億円、従業員180人の会社になった。
いい経験を積ませていただいた。
そして何よりも今の自分は尊敬する父親がいたからこそと感謝している。
ありがとうございます。
早いですね。
ありがとうございます。