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「いのちの食べかた」

 毎週土曜夜に放送される「スマステ」の中で、月に1度、稲垣吾郎が映画評論をするするコーナーがある。かなり前の放送で、吾郎ちゃんが「いのちの食べかた」という映画をその月の1位にしたことがあった。あまりに吾郎ちゃんが絶賛するものだから、見てみたいな、とその時は思ったのだが、あいにく私がいつも行く映画館では上映されなかったので、DVD化されるのを待つことになった。なので、昨年末、週刊誌でこの作品がDVD化され販売されているのを知った私は、早速注文した。が、なかなか時間がとれず、またそうおいそれと簡単に見ることのできる内容でもなさそうだったので、とうとう年内は見ることができなかった。正月休みに見ようとも思ったが、正月早々見るような映画でもないだろう、とまたまた日延べしてしまった。
 だが、やはり一度は見ておきたい映画だと思っていたので、この間の日曜遅くから無理やり見始めた。その内容は・・、 

『人々の生活とは切り離せない「食物」の生み出される現場を捉えたドキュメンタリー。野菜や果物はもちろん、家畜や魚までもが超効率的に生産され、人間のための食物へと姿を変えていく姿をありのままに淡々と映し出していく』

 音声も入らず、解説のテロップも流れず、ただただ食を生産する現場を延々と映し出していくだけの映画・・。途中から家に戻ってきた息子も一緒に見始めたが、東京の映画館で見たことがあって、途中で何度か眠り込んでしまった、と言っていた。確かに一つの場面が単調にしばらく映し出されるので、眠気を催すのも仕方ないかもしれない。だが、突然牛や豚のシーンや解体シーンになったりするので、その唐突さに思わず眠気は吹っ飛んでしまうのではないだろうか。
 アメリカの農業は企業的農業だ、と中学校の教科書に書いてあるし、大規模な農場で大型機械を使って取入れをする様子をTVで見たことも何度かある。だが、それは植物の栽培の話であり、植物は生き物であると言っても、動きはしないし、声を上げることもないから、ばっさり切ったり、根こそぎ抜いても植物たちの痛みが伝わってくることはない。しかし、家畜は違う。家畜には血が流れているし、感情だってある。この映画のワンシーンで、牛がされるブースに入ってくる場面がある。牛は本能的に自分の運命を知るのだろうか、恐怖におののいて叫ぶものもいるし、逃げようともがくものもいるが、係りの人がそんなことお構いなしに牛の眉間に電撃を与えると、一瞬で牛は力なく崩れ落ちてしまう。この瞬間牛という生き物は、牛肉という物体に変わってしまう。悲しい・・。さらには、皮を剥かれた肉塊を、大きな電動のこぎりで真っ二つにしていく場面まで見てくると、何とも表現できない気持ちになった。
 この映画の原題は「OUR DAILY BREAD」。それを「いのちの食べかた」という邦題にしたのは言いえて妙だと思う。私たちが日々糧としているものは、植物であっても一つの生物であることには変わりはない。植物に動物と同じような意味で「いのち」と呼べるものがあるかどうかは私には分からないが、他の有機体を体内に取り入れながら生きていくのが私たち生き物の宿命である。「食物連鎖」の頂点に立つのは人間であるから、例えば私が一日生きていくためには、いったいいくつの他のいのちを基にしているのだろう、そんなことをこの映画を見ながらぼんやり考えた。
 ここ数年「食の安全」が取り沙汰されることが多くなっているが、この映画を見た後では、「食の安全」とはいったいどういうことなのかよく分からなくなってしまった。私たちの口に入るものはすべて他の命であるから、「他の命=食」と言えるだろう。したがって、食を安全にするには他の命を安全にすることが大切となり、他の命を大切にするには、その他の命が食べているさらに別の命を大切にしなくてはいけない。さらには・・、と突き詰めていけば、私たち人間の健康を守るためには、その原初たる地球を健全な状態に保つことが必要だということに思い至る。地球環境を守ることこそが、私たちを守るために不可欠なのだ、などと少々大袈裟なことまで思ってしまったのも、この映画のもつ力に触発されたのかもしれない。

 でも、やっぱり鶏が、毛をむしられてチキンになって大量にぶら下がった場面だけは正視できずに目をふさいでしまった。本当に鶏はダメだ・・。気持ち悪すぎ!!
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