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「伝える言葉」

 教育の末端に連なる者として、公教育とは全く次元の違う教育を行っているとはいえ、衆議院を通過し参議院で審議中の教育基本法の改定案(正しく改めるかどうか不明なため敢えて改定案と記す)くらいは目を通さねばならないと思い、読んでみた。ざーっと一読しただけでは、何が問題とされているか判然としない。そこで、一番問題とされている改定案第2条(教育の目標)の5を以下に引用してみる。

 第2条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。 
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 5 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

この改定案は「(伝統と文化をはぐくんできた)我が国と郷土」との表現を用いることで、「『国』に統治機構の意味を含まないことを明確にすべきだ」という公明党の主張と、「国」「愛する」などの表現を譲れない自民党の双方が歩み寄った結果であると報道されているが、「愛国心」という文言を明記しない分だけ、かえって恣意的な解釈が可能になったと言う気がしないでもない。しかし、これだけを読んだだけなら、現在の政治状況から言ってさほど突出した印象を受けないが(それが政治的に麻痺している証拠かもしれない)、現行の教育基本法と読み比べてみると、その違いがはっきりしてくる。現行の教育基本法2条には次のように書かれている。

 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。

私は今まで教育基本法というものを一度も読んだことがなかった。教育基本法など、義務教育の年限や6・3・3制を決めたものにすぎないくらいの感覚しか持ち合わせていなかった。しかし、今回初めてこの条文を丁寧に読んでみて、日本国憲法と同じ理念から書き上げられているということが痛感できた。教育基本法の改定が日本国憲法の改定にもつながってしまうという危惧も、初めて実感できたような気がする。
 
 なぜ私がこんなことを試してみたかと言えば、大江健三郎の近著「『伝える言葉』プラス」(朝日新聞社)を読んだからである。大江の著作を一冊まともに読んだのは本当に久しぶりであった。彼の著作はずっと買っていたのだが、ノーベル文学賞受賞後の彼の作品は最後までなかなか読み通すことができなかった。この本も読み始めた頃には、かつてあれほど熱中していた彼の思想に少しばかりの違和感を持たずにいられなかった。
 大江の思想は首尾一貫していて、以前私がむさぼり読んだ頃とその根幹はなんらゆるぎないものである。ならば、私の考え方、物の見方が変わってしまったのだろうか・・・。確かにそうなのかもしれない。主義主張など持たず、旗幟鮮明などしたくないと思って生きてきたつもりが、いつの間にか大江の思想を素直に受け止められないようになっていたようだ。そのことに少なからず衝撃を受けたのだが、現実に生きていると、理想ばかりを追いかけていられなくなるのかもしれない。それを当たり前だと認めるまで世間ずれしているとは思いたくないが、余り自信はない。
 しかし、読み進めるうちに、敗戦後の日本の民主化に大江の原点があるということfが再認識できた。大江健三郎も今年で70歳になった。先日読んだ「悪魔のささやき」の加賀乙彦も77歳。2人の著作から共通に感じられたのは、現在の状況をとても危ういと感じ、なんとかその流れを押しとどめたいという強い意志だった。
 大江の次の文をどう読み取るかは読者個々の思いによるだろうが、日本の良心と言うべき一人の発言として尊重しなければならないと、私は思う。(良心は己の行動を遮る邪魔くさいものだと私などはすぐに感じてしまうのだが・・)

 『この夏は、幾つかの集会で話すたびに、憲法と教育基本法を再読(りリード)しています。そして、憲法の前文と子供にもかかわる基本法とが、まさに倫理的な思いを込めて書かれているのを強く感じます。歴史にかつてない数の新しい死者を背負うようにして、戦後の日本人が作った再生ための原理を、それを打ち崩した後、日本とアジアに何が起こりうるかを考えず、改憲にのめりこもうとする政界、財界の実力者、けしかけるアメリカの高官に、私は倫理観も想像力も未熟な、危ういタイプを見ています。』
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