今年も紅葉シーズンとなりました。御朱印巡りを兼ねて京都に行ってみましょう。
この秋の目玉はなんと言っても以前触れました山科区の特別公開。長らく非公開だった安祥寺が5月に続き特別公開となるほか勧修寺や毘沙門堂なども特別公開があります。
対象寺院からは今までお参りしたことのない本圀寺と小野随心院を、さらに北区の西賀茂にも足を伸ばしてみたいと思います。今回は前半として山科区のお寺巡りです。
JRで山科駅へ。地下鉄東西線に乗り換えます。京都駅からわずか1駅ですが観光客が少ないことが分かります。地下鉄の窓口で1日乗車券を購入しておきます。もちろん山科区内の東西線も利用できますし、区内の京阪バスも利用可能で便利なんです。
小野駅で下車、小野随心院に向かいます。
991年に仁海が創建した真言宗の大本山になります。応仁の乱で焼失してしまいますが1599年に再建、現在に至ります。
ご覧の通り青空と紅葉&黄葉とのコントラストが見事です。
随心院は絶世の美女・小野小町ゆかりのお寺とされ、小町は晩年この地で過ごしていたと言われて小町堂があります。
小野小町については百人一首に和歌を残していますがはっきりしたことが分からず、晩年についても東北に流れていった・貧しさの中で亡くなったなど諸説あるようですし、中には架空の存在であったという説まであるようです。
庭も見事です。
また本堂では本尊の如意輪観音像を公開しています。鎌倉時代の作とされており片膝をついているのが特徴で、「おぃ来たのか」と話しかけてくれているような感じもします。
随心院の御朱印です。
小野駅からは御陵駅へ。本圀寺に行ってみましょう。本圀寺は経蔵を公開しています。
日蓮宗京都八大本山の一つで、1253年に日蓮が鎌倉に開いた法華堂が起源とされています。1345年に日静が光明天皇から六条堀川に寺地を下賜され京に移転、長らくこの地にありました。1569年には本圀寺に拠していた足利義昭を三好三人衆が襲った「本圀寺の変」がありました。警備の手薄だった本圀寺が陥落するのは時間の問題とみられていましたが、織田方の奮戦で撃退に成功しています。この件があったため二条城が造営されたと言われています。
ところが戦後になって裁判沙汰になるわ日蓮真筆の曼荼羅が行方不明になるわのスキャンダルを起こすなどして本圀寺は荒廃、ついには日蓮宗の本部が住職を罷免して新たな住職を送り込み再建を図ることにしました。曼荼羅は裏の社会とつながりのある人物の手にあるのではないかと週刊誌が報じてきましたが現在に至るまで行方不明のままだそうです。
寺地を売却し山科の現在地に移転、塔頭とは離ればなれになります。その一つが先日訪れた真如院でした。こういった経緯のため本堂などはまだ40年弱と新しいものです。
山裾の分かりにくい場所にあるので御陵駅からの道のりには随所に看板が出ています。これに従えば間違うことはないと思います。
疎水に架かるこの赤い橋が見えたら正解です。この橋を渡りましょう。
入ると本堂が見えてきます。ところが柵があり直接行くことはできません。
お隣には宗祖日蓮の大きな像があります。
寺務所で受付して廊下をぐるっと歩いて本堂に入ることができます。裏手には加藤清正の廟があります。秀吉を支えた加藤清正は熱心な日蓮宗の信者として知られ、熊本にある清正の菩提寺・本妙寺は本圀寺の末寺なのだそうです。
本圀寺の御首題です。
御陵駅に戻り、西国の番外霊場である元慶寺に行ってみましょう。・・・ところが道を1本間違えてしまったようです。どうするかと思いつつ進むとこのような看板が。
大乗寺の看板です。せっかくなので行ってみましょうか。
少し歩くと入り口がありました。
大乗寺は法華宗本門流のお寺です。江戸時代初期に上京区の立本寺の南付近で創建された禅寺が発祥で、のち法華宗に変わっています。本山のないお寺でしたが江戸末期に法華宗本門流の大本山である本能寺の末寺となっています。現在地に移転したのは1980年でしたが無住のため荒れ寺となってしまい、大乗寺を再興するため1992年に現在のご住職ご夫妻が本能寺の依頼により入山しています。
副住職の奥様が出迎えてくれました。
最初は急な石段とこの山門がある程度で、しかもこの門は傾いていたそうです。檀家のないお寺だそうでご夫妻でまずは道から修復、時間がかかったもののお寺とは思えない状態だった大乗寺は徐々に境内が整えられました。「何か名物を」と譲り受けた酔芙蓉を挿し木で増やし、今は3,000本の酔芙蓉が秋になると花を咲かせるそうです。
御首題をお願いすると「お茶でも飲んでいってください」とお茶を出していただきました。御首題帳をぱらっと見て「(本能寺の塔頭の)源妙院も行かれているのね」と話してくれます。元々20歳から本能寺で奉職されていた方で、各塔頭の上人のことは全てご存知だそうです。「荒れ寺を上人と整えて皆さんに酔芙蓉を見ていただけるお寺になりました」とのこと。一つの道を信念を持って成し遂げられた方の重みのある言葉でした。
大乗寺の御首題です。
まるで誘われるかのように訪れることになったお寺でしたが、訪れて良かったと思います。上人は90歳のご高齢で最近は床で横になっていることが多いそうです。お元気で過ごしていただければと思います。
さて元慶寺へ行ってみましょう。ようやく本来の道を発見。この付近は道が狭い上に曲がりくねっており分かりにくいです。
このレンガのトンネルでJRの下をくぐれば正解のようです。
地図がないと絶対分からない道を進み、これが見えてきました。
ようやく元慶寺に到着です。天台宗のお寺です。
869年に桓武天皇の孫にあたる遍照が創建した華山寺が発祥で、877年に当時の元号を取って元慶寺となります。こちらも応仁の乱で焼けてしまい、元々あった広大な寺地の多くを失い今のような小さなお寺となっています。
今の本堂は江戸中期のものと言われています。
元慶寺は986年に花山天皇が藤原兼家・道兼の策略により退位させられ出家した場所です。出家し花山法皇となってからは西国三十三ヵ所の再興に乗り出し現在に至る西国人気を作り上げました。そのため元慶寺は西国三十三ヵ所の番外霊場となっています。
小さな境内ですが、納経所は人が多くて札所であることが分かります。
元慶寺の御朱印と御詠歌です。番外札所ですが西国ですので御詠歌も頂けます。
前半はここまで。ご紹介したお寺の御朱印情報は後半の最後にまとめてご紹介します。
この秋の目玉はなんと言っても以前触れました山科区の特別公開。長らく非公開だった安祥寺が5月に続き特別公開となるほか勧修寺や毘沙門堂なども特別公開があります。
対象寺院からは今までお参りしたことのない本圀寺と小野随心院を、さらに北区の西賀茂にも足を伸ばしてみたいと思います。今回は前半として山科区のお寺巡りです。
JRで山科駅へ。地下鉄東西線に乗り換えます。京都駅からわずか1駅ですが観光客が少ないことが分かります。地下鉄の窓口で1日乗車券を購入しておきます。もちろん山科区内の東西線も利用できますし、区内の京阪バスも利用可能で便利なんです。
小野駅で下車、小野随心院に向かいます。
991年に仁海が創建した真言宗の大本山になります。応仁の乱で焼失してしまいますが1599年に再建、現在に至ります。
ご覧の通り青空と紅葉&黄葉とのコントラストが見事です。
随心院は絶世の美女・小野小町ゆかりのお寺とされ、小町は晩年この地で過ごしていたと言われて小町堂があります。
小野小町については百人一首に和歌を残していますがはっきりしたことが分からず、晩年についても東北に流れていった・貧しさの中で亡くなったなど諸説あるようですし、中には架空の存在であったという説まであるようです。
庭も見事です。
また本堂では本尊の如意輪観音像を公開しています。鎌倉時代の作とされており片膝をついているのが特徴で、「おぃ来たのか」と話しかけてくれているような感じもします。
随心院の御朱印です。
小野駅からは御陵駅へ。本圀寺に行ってみましょう。本圀寺は経蔵を公開しています。
日蓮宗京都八大本山の一つで、1253年に日蓮が鎌倉に開いた法華堂が起源とされています。1345年に日静が光明天皇から六条堀川に寺地を下賜され京に移転、長らくこの地にありました。1569年には本圀寺に拠していた足利義昭を三好三人衆が襲った「本圀寺の変」がありました。警備の手薄だった本圀寺が陥落するのは時間の問題とみられていましたが、織田方の奮戦で撃退に成功しています。この件があったため二条城が造営されたと言われています。
ところが戦後になって裁判沙汰になるわ日蓮真筆の曼荼羅が行方不明になるわのスキャンダルを起こすなどして本圀寺は荒廃、ついには日蓮宗の本部が住職を罷免して新たな住職を送り込み再建を図ることにしました。曼荼羅は裏の社会とつながりのある人物の手にあるのではないかと週刊誌が報じてきましたが現在に至るまで行方不明のままだそうです。
寺地を売却し山科の現在地に移転、塔頭とは離ればなれになります。その一つが先日訪れた真如院でした。こういった経緯のため本堂などはまだ40年弱と新しいものです。
山裾の分かりにくい場所にあるので御陵駅からの道のりには随所に看板が出ています。これに従えば間違うことはないと思います。
疎水に架かるこの赤い橋が見えたら正解です。この橋を渡りましょう。
入ると本堂が見えてきます。ところが柵があり直接行くことはできません。
お隣には宗祖日蓮の大きな像があります。
寺務所で受付して廊下をぐるっと歩いて本堂に入ることができます。裏手には加藤清正の廟があります。秀吉を支えた加藤清正は熱心な日蓮宗の信者として知られ、熊本にある清正の菩提寺・本妙寺は本圀寺の末寺なのだそうです。
本圀寺の御首題です。
御陵駅に戻り、西国の番外霊場である元慶寺に行ってみましょう。・・・ところが道を1本間違えてしまったようです。どうするかと思いつつ進むとこのような看板が。
大乗寺の看板です。せっかくなので行ってみましょうか。
少し歩くと入り口がありました。
大乗寺は法華宗本門流のお寺です。江戸時代初期に上京区の立本寺の南付近で創建された禅寺が発祥で、のち法華宗に変わっています。本山のないお寺でしたが江戸末期に法華宗本門流の大本山である本能寺の末寺となっています。現在地に移転したのは1980年でしたが無住のため荒れ寺となってしまい、大乗寺を再興するため1992年に現在のご住職ご夫妻が本能寺の依頼により入山しています。
副住職の奥様が出迎えてくれました。
最初は急な石段とこの山門がある程度で、しかもこの門は傾いていたそうです。檀家のないお寺だそうでご夫妻でまずは道から修復、時間がかかったもののお寺とは思えない状態だった大乗寺は徐々に境内が整えられました。「何か名物を」と譲り受けた酔芙蓉を挿し木で増やし、今は3,000本の酔芙蓉が秋になると花を咲かせるそうです。
御首題をお願いすると「お茶でも飲んでいってください」とお茶を出していただきました。御首題帳をぱらっと見て「(本能寺の塔頭の)源妙院も行かれているのね」と話してくれます。元々20歳から本能寺で奉職されていた方で、各塔頭の上人のことは全てご存知だそうです。「荒れ寺を上人と整えて皆さんに酔芙蓉を見ていただけるお寺になりました」とのこと。一つの道を信念を持って成し遂げられた方の重みのある言葉でした。
大乗寺の御首題です。
まるで誘われるかのように訪れることになったお寺でしたが、訪れて良かったと思います。上人は90歳のご高齢で最近は床で横になっていることが多いそうです。お元気で過ごしていただければと思います。
さて元慶寺へ行ってみましょう。ようやく本来の道を発見。この付近は道が狭い上に曲がりくねっており分かりにくいです。
このレンガのトンネルでJRの下をくぐれば正解のようです。
地図がないと絶対分からない道を進み、これが見えてきました。
ようやく元慶寺に到着です。天台宗のお寺です。
869年に桓武天皇の孫にあたる遍照が創建した華山寺が発祥で、877年に当時の元号を取って元慶寺となります。こちらも応仁の乱で焼けてしまい、元々あった広大な寺地の多くを失い今のような小さなお寺となっています。
今の本堂は江戸中期のものと言われています。
元慶寺は986年に花山天皇が藤原兼家・道兼の策略により退位させられ出家した場所です。出家し花山法皇となってからは西国三十三ヵ所の再興に乗り出し現在に至る西国人気を作り上げました。そのため元慶寺は西国三十三ヵ所の番外霊場となっています。
小さな境内ですが、納経所は人が多くて札所であることが分かります。
元慶寺の御朱印と御詠歌です。番外札所ですが西国ですので御詠歌も頂けます。
前半はここまで。ご紹介したお寺の御朱印情報は後半の最後にまとめてご紹介します。