JF4CADの運用日誌2.5

アマチュア無線局JF4CADの活動内容紹介ブログです。

長崎御朱印巡り①

2024-07-26 | 御朱印めぐり
4月の福岡移動は2泊3日の真ん中の日が雨になりましたので昨年に引き続き長崎の御朱印巡りに行ってみたいと思います。

まずは天神の高速バスセンターから「九州号」に乗りましょう。西九州新幹線より安いし電源もWiFiもある、天神からですと長崎までの所要時間はほぼ変わりませんからJRを使うと損します。

2時間少々で長崎駅前の県営バスターミナルに到着。どうやらこのバスターミナルは現在地での建て替えが決まったようです。周辺の事業者と共同で複合ビルを建設するそうですが、具体的な完成時期は決まっておらず、建て替えの間の仮バスターミナルをどこに置くかも未定のようです。

見えている階段を上がるとお土産屋さんがあり、ここのレジで路面電車の1日乗車券を買うことができます。


購入後すぐには電車に乗らず山側へ。福済寺があります。

1628年に創建された黄檗宗のお寺です。キリスト教の禁教令が出され寺請制度(どこかの寺の檀家になる制度)が長崎在住の中国人にも適用されたため、彼らのための寺院として中国人僧侶の覚海が創建しています。1945年の長崎への原爆投下により本堂などを焼失しています。

鐘楼は門を兼ねており、この鐘は長崎に原爆が投下された11時2分に犠牲者の供養のため鳴らされるそうです。

元の本堂跡にあるのがこちらの大観音像です。お堂を兼ねた亀の上に乗っているのが特徴で、1979年に完成しています。この大観音像、実はユニークな特徴があります。

何と観音像の中にフーコーの振り子があります。フーコーの振り子は長い振り子を揺らすと次第に振動面が変化することにより地球の自転を証明するものです。観音像の体内であれば風を受けませんから実は理想的な環境のようです。福済寺のフーコーの振り子は長さ25.1mで日本最大級のものですが、残念ながら現在は故障中です。

福済寺の御朱印です。


電車に乗って浜町のアーケードへ。早めのお昼です。

今回はメイジヤのトルコライスです。70年以上の歴史がある洋食屋さんです。

カレーピラフにスパゲティにとんかつ、さらにハンバーグの乗った「よくばりトルコ」にしました。ハンバーグが自慢料理だそうで、トルコライスにもハンバーグを乗せているそうです。確かに美味しいハンバーグでした。

続きます。
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名古屋大曽根御朱印巡り③

2024-06-22 | 御朱印めぐり
名古屋大曽根のの御朱印巡り、出来町通りに戻り、バスで移動します。

出来町通りは全国でも名古屋だけにある基幹バスが走る通りです。通常路線バスは一番左端(歩道に近い)レーンを通行しますが、基幹バスは一番内側のレーンを走行し、路面に打たれた鋲や色を変えた舗装でバス専用のレーンとしています。路面電車をそのままバスに置き換えたようなスタイルで、停留所同士の間隔を広げて所要時間を短くしています。

しかしながら停留所は道路の中央に島状に設置されるため、一般のバスでは運転席側に降車できないことから、バス停の前後で車線が屈曲することになります。車両に特別な設備が不要で、地下鉄の建設費よりも遙かに安く作れますが、車線数の多い道路でないと一般車の渋滞を招く上に道路構造を大きく変えないといけないため名古屋以外では普及しなかった面白いバスです。


バスを降りて東界寺に向かいます。

1728年に尾張徳川家6代藩主・徳川継友の母であった泉光院が創建した真言宗豊山派の寺院です。本尊は継友の父である3代藩主・徳川綱誠の念持仏であった薬師如来で、鎌倉時代の運慶作とされています。10代将軍の徳川家斉には53人の子供があったとされますが、綱誠も40人(男22人・女18人)の子だくさんであったそうです。継友は十一男にあたり、ケチと言われながらも1.3万両あまりの黒字を残し藩財政の立て直しに成功しています。はしかのため39歳で死去し、十九男の宗春が7代藩主となっています(4代~7代までが綱誠の子)。

山門は2017年、本堂は1995年にそれぞれ建て替えられたものです。

東界寺の御朱印です。現在のご住職は先日熱田でお参りした弥勒院がご実家だそうです。


締めは六所神社です。

創建は12世紀末とされますが実態がよく分からないそうです。文献に登場するのは17世紀後半からのようです。境内は森になっていたと言われます。1967年に現在の社殿が完成しています。

六所神社の境内には「龍神社」があります。すぐ近くにはバンテリンドームがあり、龍神社の話を聞きつけたドラゴンズ球団の社長がお参りしたところチームが連勝したのだそうです。この日はドームでオープン戦の開催日でしたが、残念ながらお参りしているファンはいなかったです。ちなみにこの日はロッテと1-1で引き分けだったそうです。ファンの方、ぜひ龍神社で必勝をお願いしてからドームへどうぞ。

六所神社と兼務社の白山神社の御朱印です。


雨が降って寒いため今回はここまで。大曽根駅が近いのでJRで帰宅しましょう。

今回はご紹介しませんでしたが徳川公設市場など庶民的なスポットもあり、この界隈は町歩きにぴったりだと思います。


今回の御朱印情報です。
山田天満宮  3種を授与所で授与(境内社含む)。オリジナル御朱印帳あり。
片山八幡神社 1種を社務所で授与。
徳源寺    2種を寺務所で授与(1種は書き置きのみ)。
建中寺    1種を寺務所で授与。
東界寺    1種を庫裏で授与。
六所神社   2種を社務所で授与。兼務社白山神社の御朱印も対応。
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名古屋大曽根御朱印巡り②

2024-06-21 | 御朱印めぐり
名古屋大曽根の御朱印巡りの続きです。

芳光の向かいに徳源寺があります。通りの向かいにあるのですが、名古屋は車社会で片側3車線以上の道路が多いので歩行者には全然優しくありません。

徳源寺は1592年に織田信長の次男信雄が熱田に創建した宝泉寺を起源とする臨済宗妙心寺派のお寺です。1662年に昭和区に移転した際に「徳源寺」と改名、その後雲水修行の道場が設けられ、修行寺院となっています。

1945年の名古屋大空襲で本堂などを焼失、1953年に再建されています。出来町通りの整備などで寺地を提供していますが、現在も境内は広いです。現在も修行のため雲水さんが全国から集まるそうです。

徳源寺の御朱印です。


さらに南に行くと建中寺があります。

1651年に徳川光友が創建した浄土宗のお寺です。代々の尾張徳川家の菩提寺になっています。

1785年の大曽根大火に巻き込まれて多くの建物を焼失、その後復興されています。名古屋大空襲では大きな被害はなかったものの、戦後の名古屋市の都市計画に対して寺地を提供、隣接する東区役所や東海高校などの敷地は元は建中寺の寺地でした。さらに南の寺地を公園として提供し、門だけがポツんと残された建中寺公園となっています。本堂は1787年に再興された際のものです。

建中寺の御朱印です。


建中寺の元の門前(建中寺公園に残された門の前)は筒井町商店街となっています。大須観音の門前に大須商店街ができて賑わったように筒井町商店街も賑わったそうです。戦火を免れた筒井町商店街ですが、モータリゼーションの波には勝てず広大な駐車場を持つ郊外店に押されて衰退しますが、老舗が集まっており町歩きの定番スポットになっています。

ちょうどお昼時ですし、雨が降って寒いのでうどんの「岩正」へ。名古屋めしの一つ、味噌煮込みうどんの名店です。1902年の創業で、現在はお昼時のみの営業です。

親子味噌煮込みうどんです。土鍋の中でグツグツと煮立って体が暖まります。味噌煮込みにはたまごが欠かせませんよね。

もう一つ、「筒井松月」へ。「あやめ団子」を名物としている和菓子屋さんです。こちらも1928年創業の老舗です。

小ぶりの団子を4つ串に刺してあり、上下を餡で覆っています。餅と団子との中間のような食感で滑らかなお団子です。今も手作りだそうで美味しかったです。

それでは後半へ。続きます。
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名古屋大曽根御朱印巡り①

2024-06-20 | 御朱印めぐり
こそこそ続けている名古屋の御朱印巡り、今回は大曽根周辺です。区で言えば北区や東区にあたるエリアです。

大曽根は中心の栄から言えば北東にあり、JR中央本線・名鉄瀬戸線・地下鉄名城線が集まっており、バンテリンドームの最寄り駅にもなっています。名古屋城から言えば鬼門(本来は北東:大曽根は実際には東~東北東)にあたる土地ですので、鬼門除けの寺社が点在しているのが特徴です。


振り出しはJR大曽根駅から。

名古屋駅から栄を避けるように鶴舞や千種を経由し大曽根に至ります。名古屋-大曽根間は快速も全駅に停車しますが、新型の車両で揃えており普通でも時速130kmの高速運転を行っています。ちなみに快速の通過駅は中津川までの間でたった4駅しかないそうです。

大曽根から名鉄線の高架沿いに北に歩くと山田天満宮があります。山田は付近の地名で、1955年に名古屋市に編入されるまでは西春日井郡山田村であったそうです。

1672年に尾張徳川藩の2代藩主である徳川光友が太宰府天満宮より分霊し創建、学問の神として、また鬼門除けとしてこの地に鎮座しています。

境内の金神社・御嶽神社の御朱印もいただけます。

こちらが御嶽神社です。

こちらが金神社です。

山田天満宮の御朱印です。

金神社・御嶽神社の御朱印です。


次は少し歩いて片山八幡神社へ。

1171年に「大曽根八幡社」として創建、その後1584年に小牧・長久手の戦いで焼失し荒廃、熱田神宮の預かりとなっていました。その後1695年に徳川光友により再興されています。

1945年の名古屋大空襲により再び焼失し、1950年以降順次再建されています。さらに1996年に大改修を行っています。

片山八幡神社の御朱印です。


南に進んで出来町通り沿いに芳光があります。

名古屋は和菓子の人気が根強いのですが、こちらは特にわらび餅で知られています。1964年創業で、初代は京都の塩芳軒で修行されたとのこと。確かにお店のマークや売り方は塩芳軒に近いです。わらび餅、中のこしあんがちょうどいい甘さで美味しかったです。

続きます。
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名古屋熱田御朱印巡り③

2024-03-26 | 御朱印めぐり
名古屋熱田の御朱印巡り、熱田駅前まで戻ってお昼は「みどりや」で。

味噌カツがメインですが、冬はカキフライがあります。名古屋ですので味噌カキフライもあります。これにしましょう。

結構大きなカキフライで満足です。ちょうど1,000円でした。


お腹を満たしたので〆は高座結御子神社へ。

こちらは熱田神宮の境外摂社です。熱田神宮と同時期の創建とされるもののはっきりせず、9世紀の文献に出てくることから、遅くともこの頃には存在したと考えられます。信長が修理したなどの記録が残るものの、いつ熱田神宮の境外摂社になったかなど明らかになっていません。熱田神宮とその摂社の歴史については今も解明されていないことが多く、高座結御子神社についても祭神が途中で変わっているなどの謎が残されています。

本殿は1945年の熱田大空襲で焼失し、1963年に再建されています。

高座結御子神社の御神印です。


熱田にはまだまだ御朱印を頂けるお寺が残っています。少し時間をかけて回りたいと思います。


今回の御朱印情報です。
弥勒院     1種を庫裏で授与。
清雲寺     5種を庫裏で授与。書き置きのみ。
秋葉山円通寺  2種を授与所で授与。書き置きのみ。
熱田神宮    1種を授与所で授与。オリジナル御朱印帳あり。
八剣宮     1種を授与所で授与。
上知我麻神社  1種を授与所で授与。
高座結御子神社 1種を授与所で授与。
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名古屋熱田御朱印巡り②

2024-03-24 | 御朱印めぐり
名古屋熱田の御朱印巡り、熱田神宮に行ってみましょう。

社伝では113年に創建されたとされ、天照大神や素戔嗚尊、日本武尊などを祀っています。素戔嗚尊が出雲で八岐大蛇を退治した際に大蛇から見つかったとされる草薙神剣をご神体として祀っています。草薙神剣は天皇の地位の象徴である三種の神器の一つですが、本物は熱田神宮のご神体であり、皇居には形代(レプリカ)があるとされます。

ちなみに承継者である天皇陛下ですら三種の神器を見ることができないのだそうです。

こちらは信長が桶狭間の戦いで勝利したことへの礼として奉納した塀です。熱田神宮の宮司は千秋家が務めていますが、戦国時代には社領を守るため兵力を持っており、当時の千秋季忠も織田方として参戦しています。信長が善照寺砦に着陣したのを見て佐々政次と共に今川に攻め入ったものの討ち取られたとされています。信長は季忠の子である季信に対し所領を安堵しています。

現在の本殿は1955年に完成したものです。熱田には太平洋戦争中に海軍の航空機などを製造していた愛知航空機(愛知時計電機の分社)の工場があったため熱田神宮も空襲に巻き込まれ、先代の本殿は1945年に焼失していますが、ご神体は無事で、飛騨高山に避難させたそうです。

熱田神宮の御神印です。熱田神宮では御朱印を御神印と呼んでいるようです。


実は正門のところにこのような看板が出ています。

こちらの八剣宮と上知我麻神社も御神印を頂けるのです。

こちらが八剣宮です。708年に創建されたとしており、熱田神宮と全く同じ日に同様の神事を行う別宮だそうです。熱田神宮同様に時の権力者から保護され、1893年に現在地に移転しています。2013年には改修が行われています。

こちらが上知我麻神社です。

創建についてははっきりせず、江戸時代には「源太夫社」として熱田区伝馬一丁目付近、東海道と美濃への道の分岐点にあたる場所にあったようです。その後戦災復興に伴い現在地に移転、本殿は1965年に完成しています。

八剣宮と上知我麻神社の御神印です。


熱田神宮の名物と言えば「あつた蓬莱軒のひつまぶし」「宮のきしめん」などがありますが、お土産は「きよめ餅総本家のきよめ餅」が知られています。

お土産に買って帰りましょう。

まだまだ続きます。
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名古屋熱田御朱印巡り①

2024-03-22 | 御朱印めぐり
ちょこちょこ続けている名古屋の御朱印巡り、今回はその佳境と言える熱田区を回ってみたいと思います。

熱田は熱田神宮のお膝元で、江戸時代には「宮」と呼ばれた海に面した宿場町で、当時熱田神宮は岬の突端にあったそうです。東海道はここから名古屋を経由せず「七里の渡し」で桑名まで海路となります。

宮の宿場は規模が大きく、賑わった熱田は経済力があったことから「熱田百ヶ寺」と呼ばれるほどお寺が多いのも特徴です。そのため熱田神宮以外にも御朱印を頂ける寺社が多いのです。


振り出しはJR熱田駅です。普通しか停車しないので名古屋か金山で乗り換えとなります。

お隣の金山駅は東海道線と中央線に加え名鉄線や地下鉄も乗り入れる大きな駅ですので、熱田駅は小さな駅になっています。

駅からすぐが熱田神宮の北端にあたりますが、ぐるっと反時計回りで南にある正門までお寺を回りながら進みましょう。


まずは弥勒院から。真言宗豊山派のお寺です。

1532年に焼失した際に史料が失われ寺伝がはっきりしないのですが、現在の名古屋城三の丸の地にあり、斯波氏の祈願所となっていたとされます。1538年に再興されたものの名古屋城築城にあたり廃寺となりますが1629年に再興、1685年に熱田の現在地に移転しています。

本堂は1959年の伊勢湾台風で被害を受け、その後再建されたものだそうです。熱田区では伊勢湾台風による高潮で当時の人口の8割が被災したとされています。本尊は弥勒菩薩です。

弥勒院の御朱印です。お茶を頂きました。ありがとうございました。


次は清雲寺です。

1610年に清雲上人が芳池院として創建した西山浄土宗の寺院です。1816年に康空澤存が荒廃した本堂と庫裡を修繕した際、寺院名を清雲寺と改めています。1945年6月の熱田大空襲により焼失、その後再建されています。

西山浄土宗も浄土宗系の宗派ですので阿弥陀如来が本尊です。御朱印は1945年以降行っていなかったそうですが、近年約70年ぶりに再開したそうです。

清雲寺の御朱印です。


さらに進むと秋葉山円通寺があります。曹洞宗の寺院で、大きな本堂が目印です。

尾張の豪族であった尾張氏が熱田神宮の神宮寺として開いたとされています。14~15世紀にお寺としての整備が行われ、さらに1757年にも整備が行われています。しかしながら1891年の濃尾地震や1945年の熱田大空襲で被害を受け、仮本堂が1960年に再建され、さらに1985年に現在の本堂が完成しています。

本尊は釈迦如来です。

秋葉山円通寺の御朱印です。


それではいよいよ熱田神宮です。続きます。
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香川西讃御朱印巡り③

2024-03-16 | 御朱印めぐり
香川西讃の御朱印巡りの続きです。

今日は丸亀からの高速バスを利用する予定なので海岸寺駅から丸亀へ。時間が残っているので市内中心部にある妙法寺に行ってみましょう。

妙法寺は8世紀に行基が現在の観音寺市に創建した寺院で、その後日蓮宗に改宗しています。長宗我部元親の侵攻で焼失し1959年に現在の観音寺市役所の近くに移転、さらに1597年に藩主生駒親正の命により丸亀の現在地に移転しています。しかしながら妙法寺は日蓮宗でも池上本門寺や京都の妙覚寺と同じ不受不施派に属していたため、幕府からの弾圧を恐れて1669年に天台宗に改宗し、山科の毘沙門堂の末寺となっています。

生駒氏にかわって丸亀藩主となった京極家から保護を受け、1766~1768年に俳人で画家の与謝蕪村が讃岐に逗留する際に妙法寺にも滞在し絵を残しています。

蕪村が残した絵や小堀遠州作と伝わる庭は拝観できます。お願いしたら名誉住職(先代住職)が案内してくれました。名誉住職によると現在も不受不施派の本山である岡山の妙覚寺(江戸時代に禁教となった不受不施派を明治に再興するにあたり不受不施派の中心であった京都の妙覚寺にあやかり名乗ったお寺)を訪れるなど日蓮宗とは僅かながら縁は残っているそうです。

太平洋戦争の空襲被害がなく本堂や蕪村の絵などは残ったそうです。本堂の襖絵だった蕪村の「寒山拾得図」、庭のソテツを描いた「蘇鉄図」などを鑑賞できます。寺に残された6点の蕪村の絵は一括して国の重要文化財に指定されており、現在はデジタル複製されたものが飾られています。

妙法寺の御朱印です。

今は街中の大きくはないお寺ですが、蕪村の絵や小堀遠州の庭などを見ることができるのは驚きでした。


今回の御朱印情報です。
琴弾八幡宮  1種を社務所で授与。
観音寺    1種を納経所で授与。
神恵院    1種を納経所で授与。観音寺と一緒にもらえます。
本山寺    6種を納経所で授与。
海岸寺大師堂 2種を納経所で授与。不在の場合は本坊へ。
海岸寺本坊  1種を納経所で授与。大師堂の御朱印も可。
妙法寺    1種を拝観受付で授与。
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香川西讃御朱印巡り②

2024-03-14 | 御朱印めぐり
香川西讃の御朱印巡り、お次は70番の本山寺です。

観音寺駅のお隣の本山駅が最寄りです。

出入口が駅舎の端っこにありますが、真ん中付近にはかつてJR四国が経営していたパン屋さんがありました。跡地を借りる人もないのでしょう。

駅から寂しい参道を歩くと本山寺の五重塔が見えてきます。五重塔は1910年に完成したものです。

本山寺は807年に創建された高野山真言宗のお寺です。

空海が刻んだとされる馬頭観音が本尊です。馬頭観音を本尊とするお寺は西日本では珍しく、四国霊場では本山寺のみ、西国でも29番の松尾寺だけです。兵火にかからなかったため1300年に完成した本堂が今も残り国宝に指定されています。

本山寺の大師堂です。

納経は本堂の北にある納経所で行っています。

リストを出してわかりやすくしています。

本山寺の御朱印です。

本山寺の御影です。


本山駅に戻り次は海岸寺を目指します。国道11号や高松道は鳥坂峠を通過しますが、予讃線は詫間から海沿いを回り込んで多度津に抜けています。その道すがらの海岸にある駅とお寺があります。

海岸寺駅で下車します。

海岸寺は807年に空海が創建した真言宗醍醐派の寺院です。海岸寺は本坊が駅前の道の突き当たりにありますが、奥の院が別にありそちらから先に行ってみましょう。予讃線の踏切を渡った先です。

奥の院が別にあるのはここが空海の生まれた地とされているからで、生誕地に大師堂を置いています。空海の生まれた場所については善通寺の西院だともされており、古くからどちらが正当か論じられてきました。善通寺西院のある場所は佐伯氏の屋敷のあった地で、ここで母の玉依御前が空海を産んだとするのが善通寺の主張、海岸寺奥の院のある場所は玉依御前の実家があった場所で、玉依御前が実家に戻って空海を産んだといのが海岸寺の主張です。これについては江戸時代に「善通寺は誕生所、海岸寺は弘法大師出化初因縁の霊跡とする」との裁決を嵯峨御所(大覚寺)が下し決着しています。

ともあれ海岸寺は古くから番外札所になっており、四国霊場別格18番となっています。


それでは本坊へ。

こちらには本堂があります。1856年に完成したものです。隣には鉄筋のユースホステルもあるようです。

右が海岸寺大師堂、本堂の御朱印です。

海岸寺本堂の御影です。恐らくモノクロ写真から起こしたものでしょうが、珍しい御影です。


さらに続きます。
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香川西讃御朱印巡り①

2024-03-12 | 御朱印めぐり
少しずつ続けている四国の御朱印巡り、今回は香川の西讃を中心に回ってみます。

西讃地方は三豊市・観音寺市などで、難所の鳥坂峠で善通寺や多度津などの中讃地方と分かれています。このため高松などとは文化がやや異なっています。

それでは観音寺駅からスタートです。

駅から少し歩くと財田川を渡る三架橋が見えてきます。

現在の三架橋は1935年に完成し、90年近く現役で活躍しています。幅が7mしかないので歩行者用の橋が脇にかけられています。ちなみに観音寺駅の屋根の飾りは三架橋をイメージしたものだそうです。


三架橋を渡ると小さな山があり、琴弾八幡宮の境内になります。

琴弾八幡宮は703年に創建された神社で応神天皇などを祭神としています。日証が宇佐八幡宮を勧請したとされています。大相撲の佐渡ヶ嶽部屋の力士は全員しこ名に「琴」が付きますが、これは観音寺市出身の初代琴錦(のちの初代佐渡ヶ嶽親方)に因んだものだそうです。琴錦のしこ名は琴弾八幡宮に因むとのこと。

本殿は山の上にあり、381段の長い階段を上る必要があります。

やっとこさ本殿です。

琴弾八幡宮の御朱印です。


琴弾八幡宮の社務所で観音寺への道を聞いて少し進むと名物の銭形が見えます。

寛永通宝の砂型で、八幡宮の山から見ると円形に見えるよう実際には楕円で作られているそうです。

山を少し下ると観音寺の境内です。観音寺市の市名の由来になっています。

観音寺は703年に創建された真言宗大覚寺派の寺院です。琴弾八幡宮を創建した日証が琴弾八幡宮の神宮寺として創建した宝光院が起源で、807年に空海が伽藍を整備し観音寺となっています。空海ゆかりの寺ですので四国霊場69番札所になっています。

ここまでの話であればすんなり分かりやすいのですが、観音寺にはもう一つ四国霊場の68番札所の神恵院があり、四国では唯一1つのお寺に2つの札所が存在しています。68番は元々琴弾八幡宮でしたが、納経は観音寺で行われていたようで少なくとも江戸時代から2つの札所が存在していたことになります。明治の神仏分離により移さざるを得ず、68番は観音寺の院号であった神恵院を名乗ることとなり、観音寺の薬師堂を神恵院の本堂としています。

観音寺の本堂です。1677年に完成しており、国の重要文化財に指定されています。

こちらが大師堂です。

神恵院の本堂は2002年に移転し、こちらのコンクリート打ちっ放しのモダンなお堂になっています。

もちろん神恵院の大師堂もあります。

納経は2つ一緒に行うことができます。もちろん納経料も2つ分になります。

観音寺と神恵院の御朱印です。

観音寺の御影です。

神恵院の御影です。

続きます。
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