見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

書物をめぐる展覧会:第37回史料展覧会(東大史料編纂所)ほか

2016-11-14 21:53:08 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京大学史料編纂所 第37回史料展覧会(2016年11月12日~13日)

 おおよそ3年に一度、2日間だけ開催される史料展覧会。私は2010年の第35回以来になる(第36回は北海道にいた時期なので見逃している)。 今回は「史料を後世に伝える」がテーマで、史料の研究・編纂や収集・公開という史料編纂所の事業に関する展示品が、例年より多かった。嫌いなテーマじゃないけど、もう少し史料原本を見せてほしいなあとも感じた。戦時中に図書を疎開させたときの記録が興味深く、疎開先としては、長野県上田市と同伊奈郡が選ばれている。空襲が激しくなってきた昭和20年7月には、上田図書館内の図書をさらに小県郡室賀村と更級郡村上村に移したという記述を読んで、小県(ちいさがた)といえば、真田の郷ではないか、とにやりとする。あと、この時代は「個人宅の土蔵」というのがまだ残っていたんだなあ、と感慨深かった。

 「江戸名所図会」「武江年表」で知られる斎藤月岑の日記は史料編纂所が所蔵しているのだな。第1冊は、ページの上部に小さな挿絵がたくさん描かれていて楽しい。そして『大日本古記録』には、ちゃんとその絵が採録されていることをはじめて知った。近年、重要文化財の指定を受けた「慈鎮和尚夢想記」と「蒋洲咨文」は今年の見ものだろう。前者は筆跡の特徴から慈円(慈鎮)筆と推定されているそうだ。後者は、明朝の使者・蒋洲が対馬国に宛てて倭寇禁圧を求めた文書。どでかい料紙に細密な文字で記されている。1977年に購入したが、修復の目途が立たないまま歳月を重ね、2007-08年にようやく処理を施され、2010年正式に資料番号を付して入架という、展示図録に記された経緯が泣かせる。修復待ちで寝かされている史料、ほかにもあるのかしら。2013年の第36回史料展覧会で初展示されたとのこと。

国立公文書館 平成28年度第3回企画展『書物を愛する人々』(2016年10月29日~12月17日)

 旧内閣文庫の貴重書が見られるので、うきうきして出かけたら、ほとんど人がいなくて拍子抜けした。やっぱり「徳川家康」とか「たのしい地獄」に比べると「書物を愛する人々」って全然受けないのだな~。それはともかく、ゆかりの蔵書家として名前があがっているのは、市橋長昭、毛利高標、木村蒹葭堂、太田道灌、狩谷棭斎、多紀元堅、渋江抽斎。市橋長昭は、国立公文書館の創立40周年記念貴重資料展(2011年)で覚えた名前。重要文化財の宋版漢籍が並んでいる。そのいくつかには「顔氏家訓曰」で始まる大ぶりな朱印が押されていて、前回も気になったのだが、狩谷棭斎の説によれば、これは書物の価値を高く見せようとして商人が押した「偽印」だという。ええ~そんなのありか。この展覧会は、蔵書印の説明が丁寧で、とても面白かった。欠画の説明も。

 後半は、書物を守り伝える工夫を紹介。旧医学館所蔵の『黄帝内経素問』にはタバコの葉のかたちをした蔵書印が押されている。これはタバコに防虫剤の効果があったためというが、『義門読書記』の秩の内側には、本物のタバコの葉を入れた袋が張り付けられていて、びっくりした。そして、この展覧会、フラッシュを焚かなければ、どの資料も撮影自由というのが太っ腹ですごい。写真は、宋版『予章先生集』(黄庭堅の詩文集)。字が大きくて、墨の色がきれいだなあ。



印刷博物館 『武士と印刷』(2016年10月22日~2017年1月15日)

 第1部「武者絵に見る武士たちの系譜」と第2部「武士による印刷物」の二部構成。第2部だけだと地味すぎて人が来ないという判断だったんじゃないかと推測するけど、両者の関係が分かりにくくて、あまり成功していない。第2部は、戦国から江戸幕末まで、約70人の武士が刷らせたおよそ160点の印刷資料を展示する。家康の伏見版や直江兼続の直江版『文選』もあり。これらは、関ケ原と大坂の陣の間の時期に刊行されている。第1部は歌川国芳の武者絵が中心で、まだまだ私の知らないカッコいい作品があるんだな、とウットリ。
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事件の波紋を考える/相模原事件とヘイトクライム(保坂展人)

2016-11-13 21:16:23 | 読んだもの(書籍)
○保坂展人『相模原事件とヘイトクライム』(岩波ブックレット) 岩波書店 2016.11

 2016年7月、神奈川県の障害者施設「津久井やまゆり園」に元職員の男性が侵入し、重度の知的障害者を次々襲い、死者19人、施設職員を含めた重軽傷者27人となる事件が起きた。加害者は、事件の5か月前、衆議院議長公邸を訪れ、「障害者抹殺」を予告する手紙を、警備関係者に託したことが分かっている。

 とにかく衝撃的な事件だったけれど、報道を騒がせたのは数週間ほどだったろうか。すぐにオリンピックや都知事選などの新しいニュースに掻き消されて、今では(まだ半年も経たないのに)人々の関心も薄れてしまったように思う。このタイミングで、本書が刊行される意味は大きい。著者のいうとおり、「事件そのもの」の全容は、これから時間をかけて解明されていくだろう。しかし「事件の波紋」の広がり方については、解明を待つよりも、今すぐ整理や反省を加えておく必要があると思われる。

 この事件の特異性は、前述の手紙にある。加害者は「不幸を作ることしかできない」障害者の抹殺が「日本国と世界の為」であると考え、大島理森衆議院議長(と安倍総理大臣に)支援を願い出ている。根底にあるのは優生思想であり、個別のトラブルや怨恨に基づくものでないという点でヘイトクライム(憎悪犯罪)の特質を持つと著者考える。あらためて手紙のほぼ全文を読むと、錯乱や動揺はなく、理路整然と「首尾一貫した考え方」に基づいて述べているように見える。この手紙の内容を知った一部の人々、特に若者が、たやすく共感してしまう気持ちも分からないではない。

 著者は、事件に対する反応として、知的障害の子どもを持つ親たちの会「全国手をつなぐ育成会連合会」の会長・久保厚子さん、障害のある子どもを持つ野田聖子さんの話を聞く。さらに障害者当事者の立場から、「自立生活センターHANDS世田谷」理事長の横山晃久さん、日本障害者協議会代表・きょうさんれん専務理事の藤井克徳さん、東京大学教授で全盲・全ろうの障害を持つ福島智さんの意見を紹介する。

 横山さんが指摘する「施設の問題」「親の意識の問題」には、ひとことで言えない衝撃を受けた。「施設というのは特別な空間です。誰ひとり来ない。家族も友だちも来ない」と横山さんは言う。しかし障害者がそんな施設を出て暮らそうとすると、職員や家族に阻止される。障害者を社会から隔離し、見えない存在にしておきたいと思う親がいるのである。今回の事件で(一部を除き)被害者の名前が公表されなかったことについても、横山さん、藤井さんは批判的である。

 しかしまた、この現実を知ってしまうと、加害者の手紙にある「保護者の疲れ切った表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳」というのが、妄想や絵空事でないことが分かってつらい。いや、彼らに「疲れ切った表情」「生気の欠けた瞳」を強いているのは障害者の存在ではなく、原因は別にあると考えるべきだけれど。

 本書の後半は、ナチス・ドイツの障害者安楽死計画(T4作戦)について。これもいくつかの点で衝撃的だった。第一に、ヒトラーが殺害を先導したのではなく、それ以前から優生思想が世界各国に広がり、劣悪な遺伝子を消すための断種が盛んに行われていたこと、第二に、20万人以上の障害者をガス室で殺害するにあたっては、医師や看護師が積極的・主導的な役割を果たしたこと、第三に、障害者殺害によって大量殺戮の手法を確立したことが、ユダヤ人の虐殺につながったこと、などである。

 ドイツ精神医学・精神療法・神経学会の会長は、2010年にT4作戦の総括・謝罪談話を発表したことについて「自分の恩師が死に絶えてやっと言えた」と語ったそうである。ああ、人間ってこういうものだな、と絶望的な気持ちで共感する。だから戦後70年や80年で、戦争の総括は終わったとか、気軽に言ってはいけないのだ。

 そして、T4作戦が開始後1年足らずで表向き中止されたのは、フォン・ガーレンというカトリック司教が勇気ある批判キャンペーンを行ったことによる(その後も非公式な殺害は続いたと見られる)。「皆さんも私も生産的なときにだけしか生きる価値はないのでしょうか」という告発は、今なお、というより、今の時代にこそ切実に必要とされている正義だと思う。
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嫌いだけど、おもしろい/中国の論理(岡本隆司)

2016-11-11 22:20:39 | 読んだもの(書籍)
○岡本隆司『中国の論理:歴史から解き明かす』(中公新書) 中央公論新社 2016.8

 今や街の風景はすっかり現代化し、日本や欧米と何も変わらないように見える中国だが、一歩足を踏み入れると、不可解や不愉快の連続である、というのが本書のイントロダクション。また、オビやカバー折り込みの紹介には、同じ「漢字・儒教文化圏」に属しているイメージが強いため、私たちは中国や中国人を理解していると考えがちだが、実態は全然異なる、とある。そこで、中国固有の理屈のこね方を教えましょう、というのが本書の主題らしい。

 この、著者(あるいは編集者?)から見た「普通の日本人の中国認識」は、どのくらい当たっているのだろう。私は全く身に覚えがないので、非常に違和感を感じた。私は中国が「日本や欧米と何も変わらない国」や「同じ漢字・儒教文化圏」であるという意識がほとんどない。日本が日本であるように、中国は中国だと思っているから、謎も矛盾も感じないのだが…。あと「反日」なのに「爆買い」って、そんなに不可解な行動なのだろうか。

 …というわけで、なんとなく腑に落ちないまま、本論を読み始めた。はじめに中国人が歴史をどう考えてきたかを儒教との関連で述べる。次に社会制度の変遷。封建的な身分制から、宮崎市定のいう「古代市民社会」(秦漢)を経て、門閥貴族制度、科挙への転換と、長い歴史を概観する。次に中国独特の世界観である「華夷」のダイナミズムをもとに、実際の歴史の進展を跡づけてみる。ここまでは、だいたい世間に流通しているとおりの中国論で、読んでいてあまり新鮮味を感じなかった。

 「近代の到来」(19世紀)にあたって、日本と中国がとった対応の違いを比較するあたりから、少し面白くなる。同じ時期に近代化(明治維新・文明開化)を経験した日本人は、そのコースが正当で当たり前と考えがちである。そこを基準にして中国の近代化を過程は緩慢、成果も貧弱とみなしかねない。しかし「それは結果論であって、いわれのない偏見である」という箇所は、本書の中で数少ない、強く同意できた記述。オリジナルなものをおびただしく有すればこそ、どんなに優れた技術・文物でも、すぐにとびつき、直輸入するわけにはいかなかったのだ。

 それでも一部の知識人から「洋務」運動、続いて「変法」運動が起こる。「変法」の中心人物・康有為は、孔子教(儒教)を宗教とし、孔子像・孔子廟を教会に見立て、西洋式の祭祀を導入しようとした。これは、康有為の守旧的な性格の現れだと私は思っていたが、本書によれば、康有為は「西洋列強に伍していくためには、中国の人心が一体にならなくてはならない」と考え、西洋が「信仰の実践」を通じて「君臣男女」が一体となっている姿に学ぼうとしたのだという。いやこれは、本書には指摘されていないけど、伊藤博文ら明治新政府の設計者たちが、キリスト教の代わりに天皇崇拝を持ち込んだのと同じ発想ではないか、と思った。

 そして梁啓超の登場。このひとの思想と文体の新しさは、何度でも論じられるべきだと思う。まだ中国に自国を表す名前がなかった時代、梁啓超が用いた「支那」という語の清新さに触れながら、やはりそこには無理があって定着は望めないことから(日本人が自国をカタカナ語で「ジャパン」と呼ぶようなもの、という比喩は分かりやすい)、「中国」という新たな概念を提唱したことを紹介する。「支那は差別語ではない」で終わってしまう俗論に比べると(比べるまでもないのだが)公平で正当である。梁啓超の提唱した「中国」は、もはや天下の中心としての「中華」ではなく、列国の中の一国、漢人たちの国民国家 China を意味する漢訳語であった。現代中国の大衆が、この由来をどれだけ正確に認識しているかは置くとしても、わが梁啓超の目指した理想は心に留めておきたい。

 中国の20世紀については、もう少し詳しく論じて欲しかったところ。国民党と共産党がそもそも母胎を同じくする双生児のようなものであるとか、抗日戦争の総力戦の中で、歴史上はじめて「士」と「庶」が一体化したとか、示唆に富む指摘が多数あった。歴史的事実として、中華人民共和国の「人民元」誕生以前、中国各地にはバラバラの貨幣が混在していたというのはびっくりした。まるでEUじゃないか! 毛沢東のいう「階級闘争」は(マルクス主義とは無関係に)伝統中国の二元構造を一元化する試みだったが、その意思は貫徹せず、今なお中国の指導者は、腐敗官吏を叩き、格差拡大の阻止に追われている。

 最後に著者は、中国は嫌いだが、これほどおもしろい国はない、と述べる。そうかー研究者には、こういう人がいるんだな。嫌いな対象を研究をしていて幸せなんだろうか。私は、おもしろい/おもしろくないと、好き/嫌いが一致しない精神状態を想像できないので、すごく不思議だ。「反日」なのに「爆買い」より、ずっと不思議な気がする…。
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イギリスでお茶と出会う/砂糖の歴史(川北稔)

2016-11-09 23:21:54 | 読んだもの(書籍)
○川北稔『砂糖の歴史』(岩波ジュニア新書) 岩波書店 1996.7

 先日読んだ『銀の世界史』という新書は、全体として不満の多い内容だったが、ところどころ興味深い記述があった。その一例が、サトウキビから砂糖を製造するプランテーションに関する記述で、もう少し詳しいことが知りたいと思い、書店で本書を見つけて読み始めた。

 世界中の誰にでも好まれる砂糖は、お茶や綿織物と並ぶ「世界商品」の代表である。16世紀以来の歴史は、そのときどきの「世界商品」をどの国が握るか、という競争の歴史として展開してきた。という重要な認識を冒頭に示して本論に入る。

 砂糖の原料である砂糖きびは、熱帯から亜熱帯に適した植物である。砂糖きびの栽培と製糖の技術は、イスラム教徒と十字軍を通じてヨーロッパに伝播した。初期は上流階級の間で薬や権威の象徴として用いられたが、やがてヨーロッパ各国は、競って大西洋の島々で砂糖のプランテーションを行うようになり、さらに広大な栽培地を求めて、新世界に砂糖きびがもたらされた。…以上が砂糖の(ヨーロッパにおける)起源の概略なのだが、余談として、砂糖大根は19世紀に品種改良で作り出されたとか、日本は1609年に福建省から砂糖きびが伝えられたことになっているとか、書いてあることが全部おもしろい。

 砂糖きびの栽培には、膨大な人数の、命令の行き届きやすい労働力が必要であったというのは『銀の世界史』にも書かれていたとおり。それゆえ、イスラム教徒が地中海に砂糖きび栽培を持ち込んだ頃から奴隷制度と結びついていたというのは初耳で、まことに罪つくりな植物だなあと思った。「砂糖のあるところに奴隷あり」とまで言われるのか。そして、砂糖きびは土地の栽培能力を急速に失われせることから、「旅をする」運命をになった植物でもあった。

 プランテーションというのは、ほかの作物をつくらず、ただひとつの「世界商品」をつくり続ける農業や経済のあり方(モノカルチャー)をいう。その結果、社会も風景もどのように変わってしまうかが本書には分かりやすく詳述されている。また、カリブ海でプランテーションを実現するために、アフリカでは多くの奴隷が集められ、猛烈な勢いで運ばれてきた。「アフリカ社会は発展の力をまったく削がれてしまいました」「アフリカの国々が、現在に至るまで『発展途上』の状態にある歴史的理由のひとつが、ここにあります」という告発は重要である。

 ここから、砂糖と出会った三種類の飲み物の話が続く。まず「お茶」。中国のお茶とカリブ海の砂糖がイギリスで出会い、17世紀中頃から「お茶に砂糖を入れて飲む」ことが一般化する。なお、ヨーロッパでは今に至るまでお茶の木の栽培ができないというのも興味深い(もし栽培できていたら、世界の歴史は違っていたかもしれない)。次に「コーヒー」。17世紀の後半から18世紀にかけて、イギリスの都市ではコーヒーハウスが大流行した。ただしコーヒーはお茶と違って、イギリスの家庭には普及しなかった。一方、アメリカやフランスはコーヒー(カフェ)の国になった。

 さらに、特定の国に集中はしないものの、広くヨーロッパ諸国に受け入れられた飲み物に「チョコレート(ココア)」がある。チョコレートに砂糖を入れたのはスペインのカルロス一世(カール五世、16世紀)であるという記述を読んで、そうか、そもそもチョコレートと砂糖は別物なんだ!ということに気づいて、あらためてびっくりした。

 さて再びイギリスである。17世紀に上流階級のステイタスシンボルだった「砂糖入り紅茶」は、19世紀には労働者の生活必需品になっていた。砂糖入り紅茶は「元気のもと」、つまりカフェインを多く含む即効性のカロリー源であり、台所がなくてもお湯さえ沸かせれば(買ったパンを添えて)暖かい朝食の体裁を整えることができる。昼からビールを飲む習慣から労働者を引き離す効果もあった。現在でもイギリス人は世界一級の「砂糖食国民」なのだそうだ。

 しかし、イギリスでは守られすぎた砂糖の価格への風当たりが強まり、ついに奴隷制度が廃される日が来た(人道的な理由より経済的な理由らしい)。植民地のプランターたちは、労働力をアジア人の「契約労働者」(日系移民も含む)に切り替えて、砂糖生産の延命を図ったが、以前のような競争力を持つことはできなかった。なお、植民地を持たなかったプロイセンは、ビート(砂糖大根)の品種改良を進め、一時は世界的に砂糖きび糖を抜くところまで普及したが、現在は砂糖きび糖が盛り返している。むしろ今後は、低カロリーの化学甘味料のシェアの拡大が予想されている。

 私は具体的な「モノ」をめぐる歴史が大好きなので、こんなふうに要約してしまうともったいない感じがする。岩波ジュニア新書というのは、中学高校生くらいが対象だろうか。一般の新書に比べて全く遜色なく、信頼できて面白かった。
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デモクラシーの宿題/欧州複合危機(遠藤乾)

2016-11-08 21:48:58 | 読んだもの(書籍)
○遠藤乾『欧州複合危機:苦悶するEU、揺れる世界』(中公新書) 中央公論新社 2016.10

 なんだかEUが危ないらしい。大量の難民流入、頻発するテロ事件、排外主義の台頭、そしてイギリスの離脱決定と、不穏なニュースばかりが続く。あの輝かしいヨーロッパ共同体の理想はどこに行った…?というような、紋切り型の感想しか持てなかった私には、目の曇りをゴシゴシ拭われるような好著だった。

 はじめに2010年代に起きた複数の危機をおさらいする。第一に統一貨幣であるユーロの危機。2009年、ギリシャの膨大な財政赤字が明らかになり、ギリシャ国債格付けの引き下げとともにユーロの価値の下落を招いた。2015年、チプラス政権のもとで危機が再発し、一進一退が続く。第二に欧州難民危機。2015年以降、120万人を超える難民(経済的な理由で移動する「移民」も混じっている)がEU諸国に押し寄せている。特に問題なのは、シェンゲン協定の域内をテロリストが自由移動しており、その情報が各国政府に共有されていないことだ。第三は安全保障上の危機。2014年、ウクライナ危機に端を発するロシアのクリミア併合。ロシアはウクライナを脱争点化すべく、シリア危機への介入を強め、シリア空爆は、国境を接するトルコの不安定化と欧州へ向かう難民の増加を招いている。そして頻発するテロ事件。第四に2016年2月のイギリスのEU離脱国民投票。

 これらの丁寧なレビューに続き、EUの歴史を過去にさかのぼる。するとヨーロッパは、これまで危機の連続の中で「統合」という解決策を選んできたことが確認できる。欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)の設立は、アメリカがかつての敵国ドイツを支援し始めたことを脅威と感じたフランスの行動から始まった。ドイツをヨーロッパにつなぎとめることを目的に、さらに東西冷戦の中で、西側諸国の一体化を望むアメリカの圧力に応じて、ヨーロッパの統合が選択された。通貨統合は、米ドルなど域外パワーに対抗してプレゼンスを強化するプロジェクトであった。つまり、当たり前だが、政治経済上のリアルなメリットが見えていたから統合が進んだのであって、崇高で美しい理想があったから実現したわけではないのだ。

 ヨーロッパ統合は、自地域の平和(Peace)、繁栄(Prosperity)、権力(Power)を確保するため、つまり自己利益のためにしてきたことだという言い方もできる。したがって、もともとEU域外からの流入は可能な限り制限することが前提であったことを著者は指摘する。もう少し普遍化すると、デモクラシーは原理的にも歴史的にも一定の領域と構成員を前提としており、領域やメンバーシップが流動的になると、デモクラシーは不安定化する(不寛容になる)と著者はいう。これは理想論だけでは反論できない、とても重要な指摘である。

 本書を読んで、EUの危機はデモクラシーの問題に帰着するように私は感じた。現代の先進国において「正しさ」はとりあえず「みんなで決めた」ことに由来する。問題は、その民主的正統性を確保するメカニズムが一国の中でしか作動しないことだ。国民国家の場合、政策やイデオロギーで対立していても、どこかで同胞感覚が残っている。だから、たとえば日本国内で東京に集中する富を地方に移転する社会政策はあり得るが、ギリシャの財政破綻のツケをドイツやフランスの国民が負担することを承服できるか?と考えると、難しいことが分かる。

 しかし伝統的な国民国家も絶対ではない。沖縄に不利な政策が、本土における圧倒的な人口比で決められ続けたら「同じ日本人」が「みんなで決めた」というデモクラシーの感覚は崩れていくかもしれない。その点で、非常に深刻な印象を受けたのは、EU離脱決定をめぐるイギリスの政治状況である。イギリスといえば、政党政治の教科書であり、二大政党(保守党、労働党)+第三党という図式が、多様な国民の声を吸い上げ、議会を通じて統治機構に接続する役割を果たしてきた。ところが、今回の国民投票では、デマや虚偽すれすれの言説がはびこり、議会制民主主義が機能不全にさらされているという。これはかなりショック。欧州複合危機は、より大きなもの――国や世界の秩序を人為により理性的に改編できるとするリベラルな政治(理念)に打撃を与えているのではないか、と著者は指摘する。

 ヨーロッパ政治史の専門知識のない者にも読みやすく、しかもヨーロッパ問題を超えて、いろいろな示唆を受ける本だった。今、大学の教員は、英文ジャーナルに論文を書かないと業績にならないらしいが、市民のためにこういう本を書いてくれる研究者がいなくなったら、国民の政治的教養がどれだけ劣化してしまうか、考えてみてほしいと思う。
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山下裕二先生 vs 山口晃画伯トークイベント「雪舟 vs 白隠」(東京国立博物館)

2016-11-05 22:51:56 | 行ったもの2(講演・公演)
東京国立博物館 トークイベント『雪舟 vs 白隠 達磨図に迫る』(2016年11月3日 13:30~15:00)(講師:山下裕二、山口晃)

 東京国立博物館で開催中の特別展『禅 心をかたちに』の関連トークイベントを聞きに行った。山下裕二先生と山口晃さんだから、絶対面白いだろうと思っていたが、期待以上だった。トークの前にお坊さんの指導で、15分ほど椅子坐禅を体験。それから両講師の登場となる。進行の主導権を取っていたのは山下先生。まあそうだろうな。6月に藤森照信先生と山口晃さんのトークイベントを聞いたときは、年長の藤森先生が仕切っているように見えて、根が自由人なので、山口さんがハラハラしている感じが面白かったが、今回は山下先生が安定のツッコミ、山口さんが鋭いボケの関係でバランスが取れていた。

 はじめに山下先生が、スライドを使って山口画伯の画業を紹介。20年位前、山下先生は山口さんの最初の個展を見に行って、会っているのだそうだ。あの頃は極貧だけど時間はたっぷりあったよねえ、などと回想。それから『邸内見立 洛中洛外図』や富士山世界遺産センターに掲げられた『冨士北麓参詣曼荼羅』などの作品について、画伯ご本人の解説や裏話を聞く。最後に、前日の11月2日から始まったミヅマアートギャラリーの個展『室町バイブレーション』の会場風景を映して、制作が全然間に合っていないことを紹介。山口さん、会場の一角でまだ「描いている」そうで、会期の終わり(12月)には、もう少し展示作品が増えるはずとか。

 続いて「雪舟 vs 白隠」の話題に入り、雪舟の『慧可断臂図』と白隠の代表的な彩色の『達磨図』(大分・万寿寺)を示し、「どっちが欲しい?」と山下先生。山口さんは即答で雪舟を選びながら、「でも、こっち(白隠)も管理にあまり気を使わなくていいから楽かも…」とよく分からないフォローを入れるのが可笑しい。山下先生の話では、むかしこれは雪舟の真筆ではないと考える学者もいて国宝になっていなかった(僕の先生の先生、とおっしゃっていたな)、それはおかしいと言い続けて、2004年にようやく国宝指定になった、云々。そういえば山下先生は、著書『驚くべき日本美術』でも2002年の『雪舟展』の裏話を暴露していらした。それから本展には出ていないが、雪舟の代表作『天橋立図』や『秋冬山水図(冬景図)』や『四季山水図巻(山水長巻)』について二人とも熱く語る語る。この黒々した墨色が、とか、このわずかな朱線が、とか、この墨継ぎの跡が、とか、こだわりの細部を拡大したスライドもたくさん用意されていて楽しかった。

 雪舟について30分ほど語り、残り30分が白隠で、なんて的確な進行と感心したが、「白隠は10分でも」と小声で山口さん。やっぱり雪舟に対するほどの思い入れはないのだな。山下先生は、引き続き熱く語る。そういえば「東博は白隠に冷たい」ともおっしゃっていた。山下先生の好きな白隠作品を次々に紹介。『隻履達磨』『達磨像(どふ見ても)』『大燈国師像』など、これ好きなんだよ!とおっしゃる。私は、白隠の絵は受けつけ難いものもあるのだが、今回、山下先生が挙げた作品はどれも好きだ。禅宗のスタンダードである円相の横に堂々と「遠州浜松良い茶の出どこ」云々と賛をつける、というあたりで、みんなで爆笑する。いや楽しかった。

 白隠30分で予定どおりかと思ったら、本当は山下先生は、白隠の奔放不羈な達磨図が、若冲や蕭白に影響を与えたのではないか、という話までしたかったらしい。そこは駆け足になってしまったが、またいつか詳しく聞きたい。最後に『日本美術応援団』シリーズの新刊紹介で、表紙は団員3号に加わった井浦新さんと山下先生の伝統の学ラン写真。「こういうの、どうなの?」と山下先生から聞かれて「いや、(赤瀬川さんが亡くなられて)どうなるのかと思っていたら、様子のいいのがサッと入られて」と山口さん(様子のいいのってw)。「入る?」と迫られて「じゃ、団員2.8号くらいで」と答えていらした。おお、ぜひ三人でトークセッションを。しかし「日本美術応援団」が世に出た頃は、こんなに日本美術が注目される時代が来るなんて、思ってもいなかったなあ。

 これにてトーク終了と思ったら、「ささやき女将」みたいなのが舞台袖にいて、色紙を差し出し、山口画伯に「達磨図」を描かせる! うわ、初めて見るけど「席画」ってやつか。ここからは写真撮影OKで、ぜひ皆さん、SNSで発信してください、とのことなので、載せておく。



※会場の様子と山口画伯が描いた「達磨図」はこちら(公式ホームページ)。

 なお、今回のトークイベントは全席指定の予約制(有料)だった。個人的には何時間も並ぶより、こちらのほうがいいと思う。しかし、トークイベントのチケットが「展覧会の鑑賞券付」であることが分かっていなくて、展覧会を見ずに帰ってきてしまったのは大失態。いや~『慧可断臂図』が後期出品なので、行くなら11月8日以降と決めていたもので。

 本館はいろいろ珍しいものが出ていた。特集展示『歌仙絵』(2016年10月18日~11月27日)には、佐竹本が5件(坂上是則、住吉大明神、小野小町、壬生忠峯、藤原元真)。安土桃山~江戸の書画が、狩野派描く「帝鑑図屏風」や「歴聖大儒像(孔子)」などを小特集していたのも面白かった。
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2016年10月@関西:正倉院展(奈良国立博物館)

2016-11-04 22:44:59 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良国立博物館 『第68回正倉院展』(2016年10月22日~11月7日)

 今年も正倉院展に行ってきた。前日の土曜日からJR奈良駅前に宿泊。翌日、ちょっと気を抜いて、朝8時頃、奈良博に到着したら、折り返し列の最後尾くらいに並ぶことになった。そして、さらに折り返した外側の列がぐんぐん伸びていく。係員さんが気を使って、必ず二人ずつ詰めて並ばせているので、いつもより人口密度が高い気がした。

 8時50分頃、列が動き出し、どうやら待ち時間なしで会場に入ることができた。二階に上がったところで会場案内図をさっと確認する。帰ってから気がついたが、この図(PDF)、ホームページで公開されるようになったのか。ありがたい。今年の見もの『漆胡瓶』は第1会場(東新館)にあることを把握。会場内はそこそこ混んでいたが、まあ例年並みなので、心を落ち着けて、基本的に最初から見ていく。

 まず「聖武天皇ご遺愛の品々」で、象牙製の尺、鯨骨製の尺、銅鏡とその箱。板締め染めの屏風『鳥木石夾纈屏(とりきいしきょうけちのびょうぶ)』は、どことなく西域の香りを感じさせる。そして『漆胡瓶』は1998年以来、18年ぶりの出品だそうだが、私は東博の『皇室の名宝』で2009年に見ているはずである。草花や鳥・蝶・鹿などを描いた愛らしい文様は、かなり見えにくくなっており、白黒写真やエックス線透過写真のほうが、往時の華やかさをうかがわせる。重さ760グラムというのは、この大きさとしては軽い作りだろうか? 同じ重さに作ったレプリカがあれば、持ち上げてみたい。

 「献物に関わる宝物」として各種の箱や台など。イグサを編んだ楕円形の箱は弁当箱みたいだった。『縹地唐草花鳥文夾纈絁(はなだじからくさかちょうもんきょうけちのあしぎぬ)』は20センチ四方ほどの断片だが、水色地に蔓草模様と水鳥(鴨?)がプリントされていて可愛かった。『赤紫臈纈絁几褥(あかむらさきろうけちあしぎぬのきじょく)』は絣のような幾何学模様だと思っていたが、図録で拡大写真を見たら、小さな魚と水鳥が連続プリントされている! あとは管楽器など。

 第2会場(西新館)の最初の部屋は「聖武天皇一周忌斎会と法会の荘厳」の特集だった。『大幡残欠』『大幡の脚』『大幡脚端飾』等の展示品は、錦や組紐でつくられた、それ自体美しい布製品なのだが、これを頭の中で組み合わせると、途方もなく巨大な「大幡」が現れてくる。全長13~15メートルに及んだと推測されている。その他、天平伽藍の供養と荘厳に用いられた品々では、鈴鐸類(鈴、鈴形の玉)が小特集されていて面白かった。梔子形とか杏仁形とか、瑠璃玉つきの鈴というのもあるのだな。

 西新館の後半では『撥鏤飛鳥形(ばちるのひちょうがた)』3件が印象的だった。象牙を削って作った小鳥(3センチくらい)に彩色を施す。1羽は青く、2羽は赤っぽい色だった。腹の部分に2つの穴を穿ってあるので、糸か紐を通して衣服に縫い付けたのか。詳しい用途は不明だというが愛らしい。文書類は、写経所の環境改善を求める上申書が出ていて面白かった。仕事着を新しいものと交換してほしいとか、月に五日の休暇を確実に与えてほしいとか、三日に一度、薬として酒を飲ませてほしい、とか。解説によれば、下書きであることは明らかで、実際に提出されたかどうかは不明と慎重な見解である。確かに、憂さ晴らしの戯れ書きだっかもしれないなあ。
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週末は滋賀:つながる美・引き継ぐ心(滋賀近美)+大津の浄土宗寺院(大津歴博)

2016-11-03 22:59:08 | 行ったもの(美術館・見仏)
滋賀県立近代美術館 企画展『つながる美・引き継ぐ心-琵琶湖文化館の足跡と新たな美術館』(2016年10月8日~11月23日)

 日曜日は早起きして正倉院を見て(後述)、そのあと、滋賀県に向かった。たまに関西に来たときは、見たいものから見ておくことにしている。本展は、平成20年(2008)に休館した琵琶湖文化館の収蔵品を中心に紹介するもので、前後期で75件を展示する。同館の収蔵品は、現在の県立近代美術館を再整備し、平成32年(2020)3月に開館する「新たな美術館」に引き継がれることが決まったそうだ。休館前の琵琶湖文化館は、二、三度訪ねただけだが、とても好きなミュージアムだった。収蔵品の落ち着き先が決まったことは喜ぶべきだろうが、再開の日を待っていただけに残念でもある。琵琶湖文化館のホームページは、休館後にぐんぐん充実して、情報発信はすごく頑張っていたのになあ。

 さて、展示会場の導入部は、琵琶湖を象徴するような深いブルーで飾られていた。冒頭に登場するのは、聖衆来迎寺の銅造薬師如来立像。左手に茶壺みたいな薬壺を掲げ、右手は体の側面で衣の端を握っている。田舎育ちの子供みたいに頬っぺたが膨らんでいて、小さな唇に浮かんだ笑みが愛らしい。収蔵品の中でも屈指の古さを誇る、奈良時代(8世紀)の像。今、自分のブログを検索したら、琵琶湖文化館の休館直前の特別展でも目を留めていた。

 それからしばらく仏像・神像が並ぶ。ずんぐりした体に強い霊力を感じさせる、東南寺の地蔵菩薩立像は私好み。仏具の数々も美しい。国宝『透彫華籠』は何度も見ているけど、斜めのガラス板に立てかけ、適度な照明が当たって、夢のようにキラキラしていた。『透彫華鬘』は、ちょうど正倉院展で見た鈴を思い出した。次の部屋に進むと、本展のポスターにもなっている正法寺の帝釈天立像(木造、平安時代)。帝釈天にしては眠たそうな表情で、戦闘意欲が全く感じられない。髪を高く結い上げ、衣の肘と広い襟ぐりにフリルがついている。襟元は片側だけ天衣で隠していて、左右非対称なところがお洒落。長幅寺の鉈彫りの阿弥陀如来像もいいなあ。御上神社の小さな神馬と馬丁像もいい。これらは「海外の展覧会等で公開された収蔵品」というカテゴリーで展示されていた。

 また、琵琶湖文化館とのかかわりを具体的に示した展示品も多く、大雨で付近の山が崩れたときに同館に一時避難したとか、ふだんは寄託されているが祭礼のときは戻されるとか、大きな不動明王坐像(伊崎寺)が同館職員の手で山道を下ろされたとか、ひとつひとつのエピソードが心に沁みた。あわせて、近年の指定文化財も展示されており、五百井神社の男神像は、平成25年(2013)9月の台風18号で本殿が押し流されたが、奇跡的に土砂の中から発見され、平成27年(2015)に県の指定文化財となったものだという。いろいろな物語があるものだ。

 絵画では、大清寺の『千手観音二十八部衆像』(鎌倉時代)が美しかった。桃色の蓮華座の上で、肉付き豊かな腕をくねらす千手観音坐像が色っぽい。画面の上部に風神雷神がいるが、左が風神、右が雷神なのだな。成菩提院の『普賢十羅刹女像』(南北朝時代)もいいものを見た。恐ろしげな正法寺の阿吽面(阿形と吽形の面、室町時代)は、琵琶湖文化館で見た記憶がなかったので、ちょっと驚いた。

 近世ものでは『山法師強訴図』(江戸時代)が面白かった。こんな屏風があるのか。展示品は左隻で、大きな屋敷の門前に、画面右から神輿と武装した山法師たちが進んでくる。屋敷を警護する武士の集団は、向かい蝶の紋が見えるのだが、平氏なのかな? でも笹竜胆(源氏)ぽい紋も見える。右隻は延暦寺の所蔵で、雲母坂を降りる神輿が描かれているそうだ。残念だが、私の大好きな曽我蕭白の『楼閣山水図』は後期展示のため見られず。紀楳亭の『蓬莱群仙図』も後期か~。また、会場内に飾られていた琵琶湖文化会館の大きな写真(秋の夕景)が懐かしくて、しみじみ眺めてしまった。もし取り壊されるなら、その前に一度、中に入れてほしい。

大津市歴史博物館 第71回企画展『大津の浄土宗寺院 新知恩院と乗念寺』(2016年10月15日~11月27日)

 同館は大津市内の浄土宗寺院に伝来する寺宝調査を継続して行っており、今回はその中から、大谷山新知恩院(伊香立下在地町)と香光山乗念寺(下百石町、現:京町)の歴史と宝物を紹介する。新知恩院は、以前、鎌倉時代の小さな木造釈迦涅槃像が見つかって、同館で展示されたときに名前を覚えた。乗念寺は全く記憶になかったが、地図を見たら大津の町中なので、大津祭に来たときに近くを通っていると思う。

 全体に文書の多い地味な展示だったが、新知恩院については、南北朝時代の『十六羅漢図』や室町時代の『観音・李白・陶淵明図』(なんだその三幅対は?)など絵画が印象的だった。南宋時代の『六道絵』は6幅をレプリカも含め2幅ずつ展示。私が見た「天道」「人道」は、水陸会のための絵画っぽくて面白かったが、図録を見ると「畜生道」がかなり異色。

 乗念寺は多様な阿弥陀来迎図多し。彫刻では、高い冠をかぶった、平安中期の木造聖観音立像がひときわよかった。実はこれも琵琶湖文化館の寄託品だったもので、調べたら、やっぱり私は休館前の特別展で出会っている。この日、ご縁があって観音様に招かれたみたいで嬉しかった。

 図録は『新知恩院』『乗念寺』それぞれA5サイズの小型本で出ていた。この「大津の浄土宗寺院」シリーズ、これからも続くのかな。こういう出版のしかたもいいと思った。
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週末は和歌山:蘆雪溌剌(和歌山県博)+城下町和歌山の絵師たち(市博)

2016-11-02 22:51:11 | 行ったもの(美術館・見仏)
和歌山県立博物館 特別展『蘆雪溌剌(ろせつハツラツ)-草堂寺と紀南の至宝-』(2016年10月18日~11月23日)

 奈良での仕事にかこつけて、週末は関西を周遊してきた。土曜日は、まず和歌山へ。京都の画家・長澤蘆雪(1754-1799)が、白浜町の草堂寺をはじめ、紀南(和歌山県南部)地域に残した作品を紹介する特別展を見る。私は蘆雪大好き!なので、これまで2000年の『長澤蘆雪展』(千葉市美術館)も、2006年の『応挙と蘆雪』展(奈良県立美術館)も、2011年の『長沢芦雪』(MIHOミュージアム)も見ている。もちろん本展も見逃すわけにはいかないと思って、早くからチェックしていた。

 和歌山県立博物館には何度も来ているが、いつもだいたい仏教美術が目的だったので、今回はちょっと勝手が違う。まず、いちばん広い展示室に墨画の襖が並んでいた。草堂寺の襖絵である。「朝顔に鼬図」、おすましするイタチがかわいい。「竹鶴図」の鶴の足元には「蛙図」。牛と子牛、子犬、サル、虎、鳩など、このひとは大きい動物も小さい動物も大好きだったんだなあと感じる。妙に巧い「雪梅図」があると思ったら、これは師匠の応挙の作品だった。全体として、ずいぶん劣化が進み、描線が見えにくくなっているものもあるのが気になった。

 第2室以降は、草堂寺関係の文書・棟札・扁額・仏像などが並んでいて、え?蘆雪の作品はこれだけ?と一瞬ガッカリした。しかし、展示を見ていくと、草堂寺が宝永4年(1707)大地震と津波に襲われたこと、天明6年(1786)に再建された本堂に蘆雪が作品を残したこと、そもそも応挙が若い頃に草堂寺第五世の棠陰和尚と「本堂に揮毫する」約束をしたことがあり、その約束を果たすため、弟子の蘆雪を派遣したことなどが資料からよく分かって興味深かった。1707年の宝永地震といえば、最近読んだ『南海トラフ地震』の一例で、いつまた来るか分からないものじゃないか、と思うとぞっとした。また次の大地震・大津波が来たら、蘆雪の襖絵が後世に残るか分からないなあと思った。ちなみに会場に置かれていた小冊子「先人たちが残してくれた『災害の記憶』を未来に伝える」IとIIをいただいてきた。

 絵画では、若冲の彩色画『鸚鵡図』と墨画『隠元豆・玉蜀黍図』(ともに草堂寺所蔵)を見ることができて、思わぬ得をした気分。後者は、この春、東京都美術館の若冲展で大混雑の中で見たもの。なお、天明年間、草堂寺六世の寒渓和尚が若冲作品を出羽国の人から入手し、知人に与えたという話が文書に残っているそうだ。「海運を通じてこうした文物の往来があったのだろうか」と図録の解説にあるのが興味深い。

 再び蘆雪に戻ると、成就寺の襖絵『唐獅子図』12面はいいわ~。獅子がみんな豚鼻。中央で立ち上がってたてがみを逆立てている一匹はゴジラみたいだ。草堂寺の『四睡図』は府中市美術館で見て、印象的だったもの。いつどこで見ても幸せな気分になれる。持宝寺の『十六羅漢図』、草堂寺の『唐人物風俗図』2幅など、私は蘆雪の描く唐人(中国人)の図が好きだ。自由でやんちゃで無作法で、いかにも中国語のおしゃべりが聞こえてきそうな表情をしている。このひと、絶対、水滸伝とか稗史小説が好きで、今なら武侠ドラマの話で意気投合できただろうなあと妙に親近感が湧く。それにしても、紀南の蘆雪ゆかりの寺は、まだ無量寺しか行ったことがない。ほかもぜひ行ってみなくちゃ(いつまであるか分からないと思って)。

和歌山市立博物館 特別展『城下町和歌山の絵師たち-江戸時代の紀州画壇-』(2016年10月22日~11月27日)

 この日は蘆雪展以外ノープランだったが、市立博物館でも面白そうな展示をやっていることが分かって、寄ってみることにした。和歌山には何度か来ているが、市立博物館は初めてである。南海の和歌山市駅からすぐで、立地はいいが、なんだか古くて暗くて辛気臭い建物だなあと思いながら中に入った。

 しかし展示は面白かった。江戸時代の和歌山ゆかりの画家の作品など186件を展示。徳川幕府の御用絵師の流れをくむ紀伊狩野家(へえ、そんなのがあったのか)、紀州藩のお抱え絵師たち、来和(和歌山に来た)の有名画家たち、さらには紀州のお殿様も作品も。紀州の文人画家の一押しは祇園南海のようだが、私はこのひとはよく知らない。桑山玉洲は好きだ。『雲鶴暁清図』はたぶん府中美術館で見たことがある。『野馬図』は初見で、同時代の中国絵画っぽいと思った。

 大勢の画家を取り上げるため、ひとり1、2作品しか紹介されていないのだが、気になる画家と作品にたくさん出会った。順不同で、笹川遊原とか阪本浩雪とか塩路鶴堂とか森月航とか。珍しい題材だと思ったのは、お抱え絵師の岩井泉流の『遊豫画苑』で、紀州六代藩主・宗直の狩猟三昧を描いている。展示されていたのは「海驢(アシカ)狩」の場面で、小舟で海中の岩山に渡り、アシカの群れに鉄砲を向けている。え?どこの話?と思ったけど、1800年代には、紀伊半島の近海にもアシカがいたらしい。展示図録は労作だが、もう少し図版が大きいとよかったのに、と思った。
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描かれた衣食住/文明開化がやって来た(林丈二)

2016-11-01 22:42:43 | 読んだもの(書籍)
○林丈二『文明開化がやって来た:チョビ助とめぐる明治新聞挿絵』 柏書房 2016.10

 ここに開化のチョビ助あり、として明治9年の「東京絵入新聞」に登場するのは、西洋かぶれの知ったかぶりのおっちょこちょいらしい。著者は自ら知ったかぶりの「チョビ助」を名乗って、明治時代の新聞挿絵を題材に、だいたい百年から百四十年くらい前の日本人の生活を覗き見ていく。私たち現代人は、明治の生活を知っているようで、意外と細部を正確に知らないこと、その知らないことの手がかりが、新聞挿絵に豊富に残されていることが分かって、非常に面白かった。

 たとえば、明治20年「絵入朝野新聞」に描かれた「真夏のもてなし」。金満家の主人が座敷で客人と対座している。畳の上にはソーサーとカップ。そうか、ちゃぶ台はないのだ。カップの中身はコーヒーか紅茶か。実はコーヒーの流行のほうが早く、日本で美味しい紅茶が飲めるようになったのは明治19年頃からだという。ココア(チョコレット)を飲むようになったのも同時期から。明治22年「江戸新聞」には、夏の「氷屋」の店先が描かれている。「アイスクリーム金四銭」はだいぶ庶民的な値段。ビール瓶も見える。初めて見たのは太い胡瓜形(糸瓜に近い?)をしたラムネの瓶。今知られているビー玉の栓が入ったラムネ瓶は、明治20年頃から登場したのだそうだ。

 「食」以上に興味深かったのは「衣」に関する話題。明治の男たちが、こんなに帽子好きだとは知らなかった。やっぱり、髷を切ったあとの頭が寂しかったのかなあ。和服にトルコ帽とかナポレオン帽(ヘルメット帽)とか…あやしすぎる。さらに明治の男はマフラーやショールを首に巻くのも大好き。女物にしか見えない派手なチェック柄のショール(しかもお洒落な房つき)を肩に羽織っていたり、なぜか小さなハンカチーフを首に巻いて結んだ例も、たくさん採集されている(女性もあり)。私たちは、明治時代の服装というと、非常に典型的な例しか浮かばないので、もし明治時代を舞台にしたドラマや映画に、こんな珍妙な風体の人物を登場させたら、非難ごうごうになるのではないかと思う。

 もちろん新聞挿絵に描かれたものが、全て一般化した風俗だったとは断定できない。そこは著者も慎重である。明治26年「やまと新聞」には、西南戦争にからむ小説で、どう見てもスリッパを履いた看護婦さんが、室外に出て、ふつうの地面に立っている姿が描かれている。果たして、こんなことがあり得たのか?という疑問から始まる、明治時代の「履き物」に関する考察はとても面白い。西洋人の邸宅で、主人は当然、室内で靴を履いているのに、客の日本人(和装)は履き物を脱いで足袋になっていたり、日本人どうしが西洋間で対面する図で、えらそうな主人はスリッパを履いているのに、格下の訪問者はスリッパを出してもらえず、靴下姿だったりする。結局、最初の挿絵はスリッパを「つっかけ」代わりに使ったのだろう、という解釈に落ち着く。

 自転車に乗る女性(特に女学生)の話も面白かった。女学生について、野口孝一著『銀座物語』によれば、東京築地にあった居留地に宣教師カラゾルスが英学塾を開いたところ、どうしても英語を学びたいと思った女子が男装をして入って来たため、心を動かされたカラゾルスの妻ジュリアが、同じ築地居留地内にA六番女学校を開いた。これが日本で最初の女学校である、と紹介されている(173頁)。びっくりした。実はこれ、私の母校の創立物語で、中学高校時代に何度も聞いた覚えがあるのだが、出典である書籍の名前を知ったのは初めてである。記念に記録しておく。

 明治37年「東京朝日新聞」は、自転車の女学生が電車(路面電車)とスピード競争をしてみせたことを記事にしている。むかしから「活発女子」はいたのだな。そして、大阪の娘は「昔の娘の風」があるが、東京の女学生は「ツンとしていて、男らしきに過ぎる」と言われていたのは面白い。それって、御一新以前からの江戸っ子気質だと思うけどな。

 最後に「住」は、貧乏人の長屋暮らしについて詳しい。江戸時代から「長屋の犬」というものがいて、誰が飼っているというわけでもなく、長屋の番犬として住人たちと共存共栄の関係にあったという。北斎や国芳の浮世絵に描かれている犬って、そういうことだったんだな、と納得。本書のように歴史的な図像が豊富な図書は、何かの参考になると思って買うのだが、読みものとしては、あまり面白くないことが多い。しかし、本書は読みものとしても無類に面白くて、得をした気分だった。挿絵を描いた画工の名前(国松、洗耳)も少し覚えた。
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