○嵐山光三郎『文士の舌』 新潮社 2010.12
出先で読む本が切れたので、手近の本屋に飛び込んで買った。家につくまでの30分ほど持てばいいので、肩の凝らない食道楽エッセイを選んだつもりだった。そうしたら、意外とズシリと腹にひびく読み応えだった。
本書は、明治から平成までの作家24人が愛した料理店を、その名物料理とともに語ったもの。しかし、駆け出しのライターが、ネットでちょっと「取材」をして、「小説家○○のエッセイにも登場する名店○○のオムライス」とか、したり顔で書くグルメ記事とは、根本から趣きを異にする。著者は、おそらく取り上げる文士のことを徹底的に調べ、作品を読み尽くして「この一店」を選んでいる。だから、「この一店」「この一皿」は、文士が最期に食べた料理になることが多い。
林芙美子は、「名料理店を食べ歩く」の取材で銀座の「いわしや」を訪れ、つみいれ、南蛮漬け、酢の物、いわしの蒲焼を食べ、そのあと別の鰻屋で、鰻の蒲焼と車海老を食べ、自宅に戻って、お汁粉を食べた。夜になって苦しみ出し、吐瀉して帰らぬ人となった。うらやましいほどの大往生である。
三島由紀夫は、市ヶ谷の自衛隊駐屯地に乗り込む前日、鳥割烹「末げん」に「盾の会」の隊員4名とあらわれた。その2日前には家族を連れて来店している。「末げん」は三島の父が贔屓とし、家族団欒の思い出深い店だった。家族の記憶を断つために「盾の会」隊員との最後の晩餐が必要だったのではないか、と著者は推測する。
永井荷風は、通い慣れた洋食店「アリゾナ」で昼食中に発病して歩行困難となり、自動車で市川の自宅へ帰った。2ヵ月ほどの病臥の後、孤独に没した姿を発見されたときは、吐いた血にまじって、近所の大黒屋で食べたカツ丼の飯つぶが散っていたという。
文士と食欲といえば、正岡子規の『仰臥漫録』が思い浮かぶ。子規は病人だったので、旺盛な食欲が奇異に感じられて人目を引くのだが、だいたい文士という連中は、食べることに対する執着が、人一倍強いと見て間違いような気がする。食欲はエロス(生と性の欲望)に直結しており、エロスは文学の重要な源泉だった。少なくとも近代文学においては。
斎藤茂吉の鰻好きは可愛らしく微笑ましいが、高村光太郎の大食いと愛欲生活になると、ちょっとまがまがしさを感じさせる。晩年にはようやく「野獣のような食欲」を飼いならしたようだけど。岡本かの子の「どぜう」談義も、鬼気迫るものがあって怖い。
このほか、登場する文士は、谷崎潤一郎、川端康成、坂口安吾など。冒頭の「文豪」鴎外、漱石は別格として、そのあとは、いかにも「文士」と呼ぶにふさわしい顔ぶれで、「食」の話題以外にも、いろいろと興味深い人となりを知ることができる。特に老いて以降のエピソードが、いずれもいいなあ。昭和の「文士」遠藤周作、水上勉、山口瞳などになると、さらに編集者としてその謦咳に接した著者の思い出話が加わる。
冒頭に各店の「この一皿」の写真つきだが、どれもフツーの料理にしか見えないところが味わい深い。
出先で読む本が切れたので、手近の本屋に飛び込んで買った。家につくまでの30分ほど持てばいいので、肩の凝らない食道楽エッセイを選んだつもりだった。そうしたら、意外とズシリと腹にひびく読み応えだった。
本書は、明治から平成までの作家24人が愛した料理店を、その名物料理とともに語ったもの。しかし、駆け出しのライターが、ネットでちょっと「取材」をして、「小説家○○のエッセイにも登場する名店○○のオムライス」とか、したり顔で書くグルメ記事とは、根本から趣きを異にする。著者は、おそらく取り上げる文士のことを徹底的に調べ、作品を読み尽くして「この一店」を選んでいる。だから、「この一店」「この一皿」は、文士が最期に食べた料理になることが多い。
林芙美子は、「名料理店を食べ歩く」の取材で銀座の「いわしや」を訪れ、つみいれ、南蛮漬け、酢の物、いわしの蒲焼を食べ、そのあと別の鰻屋で、鰻の蒲焼と車海老を食べ、自宅に戻って、お汁粉を食べた。夜になって苦しみ出し、吐瀉して帰らぬ人となった。うらやましいほどの大往生である。
三島由紀夫は、市ヶ谷の自衛隊駐屯地に乗り込む前日、鳥割烹「末げん」に「盾の会」の隊員4名とあらわれた。その2日前には家族を連れて来店している。「末げん」は三島の父が贔屓とし、家族団欒の思い出深い店だった。家族の記憶を断つために「盾の会」隊員との最後の晩餐が必要だったのではないか、と著者は推測する。
永井荷風は、通い慣れた洋食店「アリゾナ」で昼食中に発病して歩行困難となり、自動車で市川の自宅へ帰った。2ヵ月ほどの病臥の後、孤独に没した姿を発見されたときは、吐いた血にまじって、近所の大黒屋で食べたカツ丼の飯つぶが散っていたという。
文士と食欲といえば、正岡子規の『仰臥漫録』が思い浮かぶ。子規は病人だったので、旺盛な食欲が奇異に感じられて人目を引くのだが、だいたい文士という連中は、食べることに対する執着が、人一倍強いと見て間違いような気がする。食欲はエロス(生と性の欲望)に直結しており、エロスは文学の重要な源泉だった。少なくとも近代文学においては。
斎藤茂吉の鰻好きは可愛らしく微笑ましいが、高村光太郎の大食いと愛欲生活になると、ちょっとまがまがしさを感じさせる。晩年にはようやく「野獣のような食欲」を飼いならしたようだけど。岡本かの子の「どぜう」談義も、鬼気迫るものがあって怖い。
このほか、登場する文士は、谷崎潤一郎、川端康成、坂口安吾など。冒頭の「文豪」鴎外、漱石は別格として、そのあとは、いかにも「文士」と呼ぶにふさわしい顔ぶれで、「食」の話題以外にも、いろいろと興味深い人となりを知ることができる。特に老いて以降のエピソードが、いずれもいいなあ。昭和の「文士」遠藤周作、水上勉、山口瞳などになると、さらに編集者としてその謦咳に接した著者の思い出話が加わる。
冒頭に各店の「この一皿」の写真つきだが、どれもフツーの料理にしか見えないところが味わい深い。