見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

異能の人/140年前の江戸城を撮った男 横山松三郎(江戸東京博物館)

2011-01-24 23:21:50 | 行ったもの(美術館・見仏)
江戸東京博物館 企画展『140年前の江戸城を撮った男 横山松三郎』(2011年1月18日~2011年3月6日)

 看板の特別展よりも、私が楽しみにしていたのはこっち。幕末から明治にかけて活躍した写真家、横山松三郎(1838-1884)を紹介する企画展である。私が彼の作品を初めて見たのは、たぶん東博16室(歴史資料)で2006年6月27日~8月20日に行われた特集陳列『日本の博物学シリーズ・日本の城郭』だと思う。私は、このシリーズ、ほぼ欠かさず見に行っているのだが、レポートは忘れてしまうことも多い。にもかかわらず、確認できたのは、東博が当時の紹介ページを残しておいてくれたおかげ。嬉しいっ!

 上記のページにも掲載されている、明治4年(1871)撮影の『旧江戸城写真帖』にはびっくりした。まるで化け物屋敷のような荒廃ぶりである。ただ、このときは、撮影を実現させた蜷川式胤の名前だけ印象に残って(さすが、文化官僚としていい仕事するなあと思って)、撮影者・横山松三郎の名前は記憶に残らなかったような気がする。

 横山の名前に再び出会ったのは、神奈川県立近代美術館(葉山)で行われた『画家の眼差し、レンズの眼』展。ここで初めて、横山ら初期の写真家が、同時に洋画家でもあったことを知る。「目に見えたものを残す(再現する)」アート(技術/芸術)という点で、写真と洋画に大きな懸隔はなかった。

 それにしても不思議な人物だ。だいたい、択捉(えとろふ)生まれって…そんな僻地に生まれて、のちには箱館に移住したにしても、どうやって当時の最先端技術に触れ得たのか、と思って、年譜を読んでみると、安政6年(1859)に箱館は開港してるのか。京都や大阪より、かえって世界に近かったんだな。にしても、文久4年/元治元年(1864)には上海に渡航して、欧米の洋画・写真を見聞している。なんつー行動力。当時、新しい日本の政治体制の実現のために命をなげうつ人々もいたが、こんなふうに、自分の学びたい「技術」を求めて、ひょいと海を飛び越えていく若者もいたのだ。

 展示作品は、まず人物像。横山が自分の興味で撮っているのか、当時の写真にしては形式ばっていなくて、被写体の表情がやわらかい。セルフポートレートはかなりオシャレ。自分のスタジオ風景を残しているのも面白い。明治2、3年の日光撮影時も、撮影隊の仕事の様子を写真に残している。岩の上で意気揚々と帽子を振る横山の姿が微笑ましい。写真機指物師と題した、ちょんまげ姿の職人を写した写真もあって、彼の写真術に対する愛着を感じさせる。

 江戸城撮影では、360度のパノラマ撮影も試みている。のちに気球に乗ってみたり、サイアノタイプ(青写真、日光写真)、カーボン印画、ゴム印画など、さまざまな技法を試し、最後は「写真油絵」という、ほとんど反則みたいな超絶技巧の技を生み出す。これって、日本画や中国絵画でいう「裏彩色」だと思った。

 展示品は、国立博物館蔵と江戸東京博物館蔵に加えて、個人蔵の比率も高い。最後の雑誌『方寸』(明治41年5月)に掲載された追悼記事は、ものに構わなかった横山の人となりを伝えていて面白いので、ぜひ足をとめてお読みください。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女たち、男たち/「江~姫たちの戦国~」展(江戸東京博物館)

2011-01-24 00:16:26 | 行ったもの(美術館・見仏)
江戸東京博物館 特別展『江~姫たちの戦国~』(2011年1月2日~2月20日)

 後述の企画展が見たくて飛んで行ったのだが、ついでなので、特別展も見ておくことにした。2011年NHK大河ドラマ『江』にちなんだ展覧会である。ドラマのほうは、初回で早くも脱落してしまったが、展示は展示として楽しめるだろうと思って会場に入った。

 冒頭に、初(常高院)に宛てた江の消息。気取った散らし書きでなくて、素直で読みやすい筆跡だと思った。岐阜の栄昌院に伝わったというので、なぜ岐阜?と思ったら、もとは7人の侍女たちが常高院の墓所を守って小浜に庵を結び、栄昌院と称していたが、明治になって、よんどころない事情で岐阜に移ったそうだ(→小浜の常高寺ホームページ)。累代にわたって、ひっそりと女主人の位牌を守り続けた尼僧たちと、それを根底から覆しかけた明治維新の社会の激変を思うと、いろいろと感慨深い。

 教科書などで見たことのある、『浅井長政夫人(お市)肖像』(重文、~1/23展示)は、桃山時代の作とは信じがたいほど色あざやか。面長できりりとした目鼻立ちが、やっぱり信長の肖像に似ている(ちなみに、パネル展示だけだったが、妹のお犬も面長)。上衣は純白、腰に巻いているのは、打ち掛け型の小袖らしい。Wikiに、桃山時代の小袖は「南蛮貿易によるキリシタン文化の影響も受け、特に紅を多用した大胆で派手な柄・色使いの物が多い」という。なるほど。どうも時代劇ドラマが描くこの時代の女性は、ピンクだの萌黄色だの可愛い系に走って、こういう衣装を再現してくれないなあ。同幅は高野山持明院の所蔵(ふだんは霊宝館寄託)。次に高野山に行くときは、ここの宿坊も候補にしよう。

 展示後半では、江と秀忠の子女たちが紹介されていた。彼らの運命も多彩である。千姫(天樹院)、三代将軍家光、後水尾天皇に入内した東福門院和子。娘が入内したと知って、江に源氏物語の明石の上のイメージを重ねてしまった。でも後水尾天皇って女性関係が派手で、おしのびで遊郭にまで出かけたというから、母も娘も悩ましかっただろう。大坂夏の陣の悲劇のヒロイン・千姫は、その後70歳まで存命したとか、秀頼の怨霊に悩まされた彼女のために怨霊鎮めを行った尼僧の慶光院周清とか、当時の女性にもさまざまな生涯があって、誰が幸せで誰が不幸だったかは、ひとくちに言えないことを感じた。

 さりげなく展示されている史料だが、小浜市教育委員会所蔵の『山中橘内書状』(天正20年=1592年5月18日)は面白すぎる!! 山中橘内(長俊)は秀吉の右筆。→「若狭小浜のデジタル文化財」のサイトに「組屋家文書」として紹介されている、たぶんこれだと思う。内容は「秀吉のアジア支配構想」というべきものであって、北京に後陽成天皇を移すこと、北政所も北京に呼び寄せること(とあったと思う。田中裕子の西太后を想像してしまった)、日本との窓口は寧波とすること、朝鮮攻めの諸将は中国の西寄りに領地を得させ、さらに天竺攻めの機会を窺うこと、等々が書かれていた。誇大妄想と言われるけど、けっこう綿密な構想があったんだなあ、ということに驚いた。無責任だけど、面白い。誰か、この構想が実現するという設定で、SF歴史小説を書いてくれないかなあ…。

 もうひとつの企画展『140年前の江戸城を撮った男 横山松三郎』については、稿をあらためて。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする