○司馬遼太郎『故郷忘じがたく候』(文春文庫) 文藝春秋 2004.10
一昨年と昨年の暮れは、NHKのスペシャルドラマ『坂の上の雲』を楽しんで見た。原作について、いろいろ議論があることは承知しているが、私が小説『坂の上の雲』を読んだのは、ずいぶん前のことなので、あまり深く関わらないでおこうと思っていた。
そうしたら、先日読んだ和田春樹氏の『これだけは知っておきたい日本と朝鮮の100年史』が、冒頭で『坂の上の雲』を取り上げていた。一般に「司馬史観」とは、明治期の日本(日露戦争まで)を肯定的に評価し、その後はだんだん悪くなっていったと看做すものである。和田氏によれば、小説『坂の上の雲』(1968-72年発表)には、朝鮮のことは全く出てこない。出てくる朝鮮人の名前は東学党のリーダー全琫準だけで、高宗も閔妃も登場しない。日清・日露戦争とも、朝鮮をめぐって起きた戦争であるにもかかわらず、だ。
けれども和田氏は、この小説のところどころに現れる作者の感慨を手掛かりに、「(司馬氏は)すでにその途中で、この明治の人々の努力がとんでもない方向に進んでいくのではないかということを感じ始め」「最後になると、問題はロシアではなく朝鮮だとますます思うようになったのではないか」と推察する。司馬遼太郎は、『坂の上の雲』を書き始めた1968年春、慶長の役に際して日本に連行された朝鮮人陶工の子孫、14代沈寿官(ちん じゅかん)氏に会い、紀行と空想を取り交ぜた小説『故郷忘じがたく候』を書いた。「『坂の上の雲』という作品の中には朝鮮人は出てきませんが、この世界の外側に沈寿官14代が立っていて、司馬氏の方を見つめている」というのが和田氏の見立てである。
沈寿官? 私は思わず、自分の財布の中を覗き込んだ。2011年1月19日から日本橋三越で始まる『歴代沈壽官展』(※ポスターの表記に従う)の招待券を年末に手に入れたばかりだったので。14代沈寿官氏の語るところによれば、彼らの祖先は慶長の役において島津勢に捕まり、船に乗せられて薩摩(鹿児島)に漂着した。故郷の自然に似た苗代川のあたりに居を定め、祖国の言語風俗を保つことを許され、作陶の技術を活きる糧として年月を重ね、やがて薩摩の国名を冠した「薩摩焼」を生み出す。
けれども、明治後、薩摩陶業が藩の保護を離れると、朝鮮人の姓を持つ14代沈寿官氏は(たぶん13代も)、少年時代に日本人から理不尽ないじめを受けた。「自分が日本人でないなどとは夢にもおもったことがなかった」沈寿官少年は、喧嘩も勉強も一番になることで、周囲に自分の存在を認めさせていき、最後に「血というのはうそだ」という「世界のどの真理よりもすばらしい真理」をつかんだ。――と小説にはあるのだが、ここは分かりにくい。元来、司馬氏の小説は、歴史上の人物を、その細かな心の動揺まで、自家薬籠中にしているような爽快感があると思うが、この沈寿官氏の述懐に関しては、どこか真意をつかみかねている感じがする。
ふと気になって、『街道をゆく』シリーズの「韓のくに紀行」を調べてみたら、1971-72年発表だから『坂の上の雲』の執筆(連載)終盤と重なっている。小島毅氏は『父が子に語る近現代史』で、司馬氏が紀行現場のすぐ近くにある東学農民戦争の史跡を取り上げていないことを指摘しているが、司馬さんは、近代以降の日朝(日韓)関係を気にかけつつも、まだ書く準備ができていない、という自覚があったのではないか…と私は想像した。
本書には、明治初年、会津藩討伐のため奥州に派遣された世良修蔵の死を描く『斬殺』と、細川ガラシャと夫・忠興を描いた『胡桃に酒』を収録。後者は、正月に読んでいたマンガ『へうげもの』と思い合わせて、面白かった。この話は、また別稿にて。
※参考:沈壽官(15代)窯
同家の歴史についても詳しい。
一昨年と昨年の暮れは、NHKのスペシャルドラマ『坂の上の雲』を楽しんで見た。原作について、いろいろ議論があることは承知しているが、私が小説『坂の上の雲』を読んだのは、ずいぶん前のことなので、あまり深く関わらないでおこうと思っていた。
そうしたら、先日読んだ和田春樹氏の『これだけは知っておきたい日本と朝鮮の100年史』が、冒頭で『坂の上の雲』を取り上げていた。一般に「司馬史観」とは、明治期の日本(日露戦争まで)を肯定的に評価し、その後はだんだん悪くなっていったと看做すものである。和田氏によれば、小説『坂の上の雲』(1968-72年発表)には、朝鮮のことは全く出てこない。出てくる朝鮮人の名前は東学党のリーダー全琫準だけで、高宗も閔妃も登場しない。日清・日露戦争とも、朝鮮をめぐって起きた戦争であるにもかかわらず、だ。
けれども和田氏は、この小説のところどころに現れる作者の感慨を手掛かりに、「(司馬氏は)すでにその途中で、この明治の人々の努力がとんでもない方向に進んでいくのではないかということを感じ始め」「最後になると、問題はロシアではなく朝鮮だとますます思うようになったのではないか」と推察する。司馬遼太郎は、『坂の上の雲』を書き始めた1968年春、慶長の役に際して日本に連行された朝鮮人陶工の子孫、14代沈寿官(ちん じゅかん)氏に会い、紀行と空想を取り交ぜた小説『故郷忘じがたく候』を書いた。「『坂の上の雲』という作品の中には朝鮮人は出てきませんが、この世界の外側に沈寿官14代が立っていて、司馬氏の方を見つめている」というのが和田氏の見立てである。
沈寿官? 私は思わず、自分の財布の中を覗き込んだ。2011年1月19日から日本橋三越で始まる『歴代沈壽官展』(※ポスターの表記に従う)の招待券を年末に手に入れたばかりだったので。14代沈寿官氏の語るところによれば、彼らの祖先は慶長の役において島津勢に捕まり、船に乗せられて薩摩(鹿児島)に漂着した。故郷の自然に似た苗代川のあたりに居を定め、祖国の言語風俗を保つことを許され、作陶の技術を活きる糧として年月を重ね、やがて薩摩の国名を冠した「薩摩焼」を生み出す。
けれども、明治後、薩摩陶業が藩の保護を離れると、朝鮮人の姓を持つ14代沈寿官氏は(たぶん13代も)、少年時代に日本人から理不尽ないじめを受けた。「自分が日本人でないなどとは夢にもおもったことがなかった」沈寿官少年は、喧嘩も勉強も一番になることで、周囲に自分の存在を認めさせていき、最後に「血というのはうそだ」という「世界のどの真理よりもすばらしい真理」をつかんだ。――と小説にはあるのだが、ここは分かりにくい。元来、司馬氏の小説は、歴史上の人物を、その細かな心の動揺まで、自家薬籠中にしているような爽快感があると思うが、この沈寿官氏の述懐に関しては、どこか真意をつかみかねている感じがする。
ふと気になって、『街道をゆく』シリーズの「韓のくに紀行」を調べてみたら、1971-72年発表だから『坂の上の雲』の執筆(連載)終盤と重なっている。小島毅氏は『父が子に語る近現代史』で、司馬氏が紀行現場のすぐ近くにある東学農民戦争の史跡を取り上げていないことを指摘しているが、司馬さんは、近代以降の日朝(日韓)関係を気にかけつつも、まだ書く準備ができていない、という自覚があったのではないか…と私は想像した。
本書には、明治初年、会津藩討伐のため奥州に派遣された世良修蔵の死を描く『斬殺』と、細川ガラシャと夫・忠興を描いた『胡桃に酒』を収録。後者は、正月に読んでいたマンガ『へうげもの』と思い合わせて、面白かった。この話は、また別稿にて。
※参考:沈壽官(15代)窯
同家の歴史についても詳しい。