○浅田次郎『中原の虹』1~4巻 講談社 2006.9-2007.11
『中原の虹』第1巻が刊行されたのは昨年9月。ああ、とうとう、と思って感慨深かった。しかし、全4巻が完結するのは2007年11月だという。待てない。1巻ずつ読んで、何ヶ月も続きを待つなんて絶対にできない、と思った私は、最終巻が刊行されるまで、じっと目をつぶって我慢することに決めた。そして、ようやく念願がかなう時が来た。先々週末、旅行先の奈良で第1巻を読み始め、11/8発売の最終巻をGETして一気に読み抜いた。
舞台は中国、時代は清朝末年。戊戌の変法の挫折後、光緒帝は幽閉され、命運尽きようとする大清帝国を、老いた西太后ひとりが必死に支えていた。東北(日本ふうに言えば満州)の地に突如登場する命知らずの馬賊、李春雷。『蒼穹の昴』の主人公、李春雲(春児=チュンル)の実兄である。李春雷は、ふとしたことから、馬賊の大親分(総攬把)白虎張こと張作霖のもとに身を寄せる。
物語は東北を新たな舞台とし、中国と日本を行き来して、『蒼穹の昴』の登場人物たちのその後の人生を描く。同時に、今しも長城を越えて中原に勇躍しようとする張作霖の姿に重ねて、同じように長城を越えてやってきた愛新覚羅(アイシンギョロ)家の「始まりの物語」を挿入する。
私は勤め人であるから、主たる読書時間は通勤電車の中だ。困ったことに、この小説、私はたびたび、ぼろぼろに泣かされてしまった。誰が、どの場面が、泣けるというのではない。中国の近代史そのもの、大清帝国という巨龍が、我が身を賭して生まれ変わろうとする凄絶さに泣けるのである。
いちばん泣けたのは西太后の死だった。浅田次郎さんは、いろいろ調べていて西太后に惚れたんだろうなあ。近年、中国でも西太后の悪評は大分払拭されているらしいが、ここまで愛情を注ぎ込んで彼女を描いた例は(まだ)ないだろうと思う。私は、そもそもCCTV(中国中央電視台)のドラマ『走向共和』を見て、中国近代史に魅入られ、その後に、著者の『蒼穹の昴』と『珍妃の井戸』を読んだ(本書を読んでいても、どうしてもあのドラマの俳優さんの顔が浮かんでしまう。徐世昌とか)。ドラマ『走向共和』も西太后には好意的だった。しかし、袁世凱にはかなり厳しかったと記憶する。
本作では、著者の目は「俗物」袁世凱に対しても優しい。袁世凱が皇帝を称したのは、無理やりにでも中華民族に求心力をもたらし、列強の蚕食から国土を護るためで、彼は敢えて道化になったのだ、という解釈である。自分の所業におののきながら玉座への龍陛を上がる袁世凱に、李鴻章の幻が「よくやった。わしにあと十五年の齢があれば同じことをした」と語りかけるところは、どうかなあ~。小説としてはいい場面なんだけど、歴史解釈としては受け入れがたい。浅田さん、孫文のことは、あまり好きでないみたいなのも面白い。
第4巻には、先月刊行された平野聡さんの『大清帝国と中華の混迷』の広告が挟んであって、ちょっとニヤリとした。講談社、商売うまいな。私は平野さんの著書の感想に「清朝史に興味や親近感を持つ日本人は少ないと思う」と書いたが、浅田次郎さんのシリーズがこれだけ売れていることを考えると、そうは言い切れないかもしれない。私の不明であるなら、却って嬉しい。
張作霖のことはよく知らなかったので、新たに興味を掻きたてられた。中国では、一般的にどんな評価なのかなあ。息子の張学良を主人公にしたTVドラマはあったはずだが。既に二三、参考文献をチェックしたので、これから読んでみたいと思う。馬賊については渡辺龍策『馬賊』(中公新書)がおすすめ。
社会の最下層で、ぼろ切れのように捨てられていく人々の怨嗟が凝り固まって、「千人を殺して、億万人を生かす」ひとりの凶暴な英雄を生み出すというのは、中国史を見ていると、自然と思い浮かぶビジョンなのかもしれない。諸星大二郎のマンガ『西遊妖猿伝』を久しぶりに思い出した。
『中原の虹』第1巻が刊行されたのは昨年9月。ああ、とうとう、と思って感慨深かった。しかし、全4巻が完結するのは2007年11月だという。待てない。1巻ずつ読んで、何ヶ月も続きを待つなんて絶対にできない、と思った私は、最終巻が刊行されるまで、じっと目をつぶって我慢することに決めた。そして、ようやく念願がかなう時が来た。先々週末、旅行先の奈良で第1巻を読み始め、11/8発売の最終巻をGETして一気に読み抜いた。
舞台は中国、時代は清朝末年。戊戌の変法の挫折後、光緒帝は幽閉され、命運尽きようとする大清帝国を、老いた西太后ひとりが必死に支えていた。東北(日本ふうに言えば満州)の地に突如登場する命知らずの馬賊、李春雷。『蒼穹の昴』の主人公、李春雲(春児=チュンル)の実兄である。李春雷は、ふとしたことから、馬賊の大親分(総攬把)白虎張こと張作霖のもとに身を寄せる。
物語は東北を新たな舞台とし、中国と日本を行き来して、『蒼穹の昴』の登場人物たちのその後の人生を描く。同時に、今しも長城を越えて中原に勇躍しようとする張作霖の姿に重ねて、同じように長城を越えてやってきた愛新覚羅(アイシンギョロ)家の「始まりの物語」を挿入する。
私は勤め人であるから、主たる読書時間は通勤電車の中だ。困ったことに、この小説、私はたびたび、ぼろぼろに泣かされてしまった。誰が、どの場面が、泣けるというのではない。中国の近代史そのもの、大清帝国という巨龍が、我が身を賭して生まれ変わろうとする凄絶さに泣けるのである。
いちばん泣けたのは西太后の死だった。浅田次郎さんは、いろいろ調べていて西太后に惚れたんだろうなあ。近年、中国でも西太后の悪評は大分払拭されているらしいが、ここまで愛情を注ぎ込んで彼女を描いた例は(まだ)ないだろうと思う。私は、そもそもCCTV(中国中央電視台)のドラマ『走向共和』を見て、中国近代史に魅入られ、その後に、著者の『蒼穹の昴』と『珍妃の井戸』を読んだ(本書を読んでいても、どうしてもあのドラマの俳優さんの顔が浮かんでしまう。徐世昌とか)。ドラマ『走向共和』も西太后には好意的だった。しかし、袁世凱にはかなり厳しかったと記憶する。
本作では、著者の目は「俗物」袁世凱に対しても優しい。袁世凱が皇帝を称したのは、無理やりにでも中華民族に求心力をもたらし、列強の蚕食から国土を護るためで、彼は敢えて道化になったのだ、という解釈である。自分の所業におののきながら玉座への龍陛を上がる袁世凱に、李鴻章の幻が「よくやった。わしにあと十五年の齢があれば同じことをした」と語りかけるところは、どうかなあ~。小説としてはいい場面なんだけど、歴史解釈としては受け入れがたい。浅田さん、孫文のことは、あまり好きでないみたいなのも面白い。
第4巻には、先月刊行された平野聡さんの『大清帝国と中華の混迷』の広告が挟んであって、ちょっとニヤリとした。講談社、商売うまいな。私は平野さんの著書の感想に「清朝史に興味や親近感を持つ日本人は少ないと思う」と書いたが、浅田次郎さんのシリーズがこれだけ売れていることを考えると、そうは言い切れないかもしれない。私の不明であるなら、却って嬉しい。
張作霖のことはよく知らなかったので、新たに興味を掻きたてられた。中国では、一般的にどんな評価なのかなあ。息子の張学良を主人公にしたTVドラマはあったはずだが。既に二三、参考文献をチェックしたので、これから読んでみたいと思う。馬賊については渡辺龍策『馬賊』(中公新書)がおすすめ。
社会の最下層で、ぼろ切れのように捨てられていく人々の怨嗟が凝り固まって、「千人を殺して、億万人を生かす」ひとりの凶暴な英雄を生み出すというのは、中国史を見ていると、自然と思い浮かぶビジョンなのかもしれない。諸星大二郎のマンガ『西遊妖猿伝』を久しぶりに思い出した。