見もの・読みもの日記

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先頭走者の孤独/千利休(赤瀬川原平)

2010-06-24 22:04:45 | 読んだもの(書籍)
○赤瀬川原平『千利休:無言の前衛』(岩波新書) 岩波書店 1990.1

 奥付を見て「1990年刊行か…」としみじみした。勅使河原宏監督・脚本の映画『利休』に赤瀬川さんが共同脚本として参加されたのが1989年。その翌年に本書が出版された。当時、私は、尾辻克彦名義の小説や路上観察学会の活動を通じて、赤瀬川さんの名前を知っていたけれど、ええー、利休?という感じで、辛気臭い侘び・さび文化の巨匠に近づいてみる気にはなれなかった。あれから20年、ようやく私も利休の美意識に反応できるようになった。本書を読むのをずっと待ってきて、よかったのだと思う。

 利休は前衛である。前衛とは、芸術という概念をダイレクトに日常感覚につなげようという試みである。と著者は説く。本書は、千利休という人物を借りながら、著者が、さまざなま方向から「前衛とは」という命題に答えようとした1冊とも言える。

 それは、たとえば、こんな毒のある表現をも辞さない。「前衛をみんなで、何度も、という弛緩した状態が、戦後民主主義による温室効果となってあらわれている。自由と平等という、いわば戦後民主主義の教育勅語が、ふたたび私たちの頭脳を空洞化している」。最近の赤瀬川さんの好々爺然とした姿しか知らない読者なら、目を白黒するような発言だろう。

 もう少し穏やかな説明を求めるならこんな感じ。「前衛はいつも形式化を逃れながら先を急ぎ、形式の世界はまた貪欲にその後を追いかけていく。しかしそれはマラソンの先頭グループでのしのぎ合いで、後方からは何も見えない。後方を走る大半は、とにかく完走だけはしようという、眠い形式の中で動いている。それを非難することはできないだろう。形式の中に身を潜める快感というものを、人は基本的に持っているものなのである」。本書を読んでも、利休の生涯やお道具(利休好み)について、ほとんど知識は増えない。しかし、利休という思想の核心部分が、ぐいと目の前に寄ってくる感じはする。

 映画『利休』の原作は、野上弥生子の『秀吉と利休』である。この両者の名前を見たとき、多くの人々は、政治と芸術の相克を感じ取る。しかし、著者は、秀吉も大変な創造力を持つ一種の芸術家だったと考える。「金の茶室」にしても「桃山時代のアンデパンダン=北野大茶会」にしても。秀吉は利休を「挑発しがいのある存在」と感じていただろうし、利休も秀吉の挑発を楽しんでいただろう。両者の幸福なバランスが崩れていった理由を、著者はさまざまに考察しているが、私は、秀吉の創造力が、肉体の老化および権力の集中とともに枯渇していったために尽きるのではないかと思う。

 利休の美意識を説明する中で、韓国の家屋や普段使いの器の魅力に触れている段も面白かった。韓国の井戸茶碗にあこがれた日本人が、日本の陶工を韓国へ連れていったが、良いものがどうしてもできない。秘密は「土」ではなくて「人」――日本人には真似のできない、おおらかで無神経な作りが「ごろりとした力強い井戸茶碗」を生み出すのだという。ああ、だから、半島から陶工を連れてきたのかあ。しかし、その無神経な「手」の作り出した飯茶碗の美しさを見出すことができるのは、日本人の細かい神経のゆきとどいた「目」である。これもまた、前衛と呼ぶにふさわしい精神であろう。
コメント
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