見もの・読みもの日記

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曲げる、向かい合わせる/屏風の世界(出光美術館)

2010-06-15 22:54:09 | 行ったもの(美術館・見仏)
出光美術館 日本の美・発見IV『屏風の世界-その変遷と展開-』(2010年6月~7月25日)

 出光コレクションより屏風の優品24件を展示。「今回の展示では、屏風を折って見たときの面白さをご紹介いたします」というのが、企画のキモとなっているのだが、そこは先入観にあまりとらわれず、会場に入っていく。

 冒頭にあったのは、伝・土佐光信筆『四季花木図屏風』六曲一双。右隻の右端と左隻の左端に緑の土坡が描かれ、中央を繊細な波紋を浮かべた水が流れている。けれども、よく見ると右隻の左端と左隻の右端、つまり「中央」寄りに署名と極め書きが記されている。解説に「右隻と左隻を入れ替えても図様が連続するのも注目される」と平然というけれど、これって立て方を間違っているんじゃないの?と釈然としない思いを抱く。

 少し進んで、狩野元信筆『西湖図屏風』の前に立つ。これも右隻・左隻の両端寄りに聳え立つ高峰を描き、中央には奥行きのある水面が広がる構図。しかし、この屏風も両隻の「中央」寄りに署名がある。これは右隻と左隻を入れ替えたら、全く風景が違ってしまうのに何故…。首をひねりながら、気がついたのは、このセクションの解説(リード)文。一双を向かい合わせて間に座ると、林和靖の好んだ鶴の声も聴こえてきそうです、云々。以前、れきはくで洛中洛外図屏風(の模本)の一双を向かい合わせに立てた展示を見たことがある。そうすると、屏風に描かれた名所の位置が、実際の風景とぴたりはまるのである。どちらが右で、どちらが左かにこだわること自体が、屏風と展示ケース越しに対峙する「平面的」鑑賞法しか思いつかない、現代人の心の狭さなのかもしれない。

 次室は物語絵と歌仙絵。『天神縁起尊意参内屏風』って面白いなあ。どうしてこの場面を大画面にしたのか、意図がさっぱり分からないところが面白い。『宇治橋柴舟図屏風』の前で、しばし足が止まる。これはもしかして、私は2005年3月以来の再会か? 舟の上で何事かささやきあう生き物のような柴の束が愛らしくて大好きなのだ。でも、ちょっと記憶と印象が違うなあ…と思ったが、あとで確かめたら、今回は六曲一双の「右」しか展示していないのである。もったいない。伝・岩佐又兵衛の『三十六歌仙屏風』も好きだ。中天に長々と伸びた上げ畳(?)に36人の歌人が、妙に人間臭い表情で一列に並んでいる。設定が無茶苦茶で可笑しい。

 いよいよ、私の好きな『南蛮屏風』の登場。華やかな衣裳の南蛮人たちを乗せた船が、白い波を蹴立てて、まさに港に入ってくるところを描いている。ここで、解説パネルにいう。金色の雲を背景とし、屏風を折って立てることで、前景の南蛮船が立体感を持って浮き上がって見える、と。何? これは本当だった。屏風の正面を行きすぎて、解説パネルの前あたりから、斜めに振り返って見るのがよろしい。または、逆に屏風の右斜め前からも、驚くほどの立体感、躍動感を味わうことができる。

 確かに屏風は、ジグザグ折りにして「立てて見る」ことで、平面とは違った相貌をつくりだす効果がある。いいなあと思った作品が、展示図録では、どうも間延びした印象で、がっかりしたこともある(不思議なことに、その逆もある)。本展の図録は、屏風を意さまざまな角度で「曲げて見た」写真を何点か収録。実験的な試みとして評価したい。

 あと楽しかったのは、小品の『歌舞伎・花鳥図屏風』。遊女歌舞伎を描いたものと野郎歌舞伎を描いたものが対になっていて、野郎歌舞伎の踊り手二人組がチョー美形。どちらにも男女の観客が描かれているが、野郎歌舞伎を見つめる男性客の視線が最も熱い。
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