見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

名古屋で一服/徳川のまつり(蓬左文庫)+殿様、ECOを考える(徳川美術館)

2010-06-02 23:50:52 | 行ったもの(美術館・見仏)
 岐阜の華厳寺に満願お礼参りのあとは、名古屋で途中下車して、久しぶりに徳川美術館に寄っていくことにした。徳川美術館の常設展から入る。最近、戦国時代に興味が湧いてきたので、以前なら素通りしていた上り藤の馬印(徳川義直所用)とか、青貝柄の槍拵え、鷹狩道具一式にも目がとまる。特別展は、順路に沿って、隣接の蓬左文庫から紹介しよう。

蓬左文庫 開府400年 徳川美術館・蓬左文庫開館75周年記念『家康のまつり-名古屋東照宮祭礼-』(2010年5月26日~7月25日)

 近世初頭に始まる名古屋東照宮の祭礼(名古屋祭)の賑わいを紹介。関東人の私は知らなかったが、現在の「名古屋まつり」(毎年10月)の淵源と思っていいのかな。祇園祭や川越祭と同様、町ごとに趣向を凝らした山車を引き出し、巡行するお祭りで、山車の飾りつけは、林和靖、弁慶と牛若丸など、和漢の故事に基づくものが多い。森高雅筆『名古屋東照宮祭礼図巻』を見ると、山車の後ろに、雨覆いの箱や大量の番傘を担いだ人々が続くのが、なんだかリアル。先日の葵祭行列で、しんがりに救護車がいたのを思い出した。絵画だけではなく、明治時代の祭礼の古写真もあり。寛政年間作のからくり人形が残っているのにも驚いた。享保年間に新調されたため、不要になった古い人形は、別の土地の祭礼で再利用され続けたのだそうだ。

徳川美術館 企画展示『殿様、ECOを考える-自然へのまなざし-』(2010年5月29日~7月25日)

 さて、徳川博物館の企画展は、公式サイトを見たとき、動植物の絵がたくさん紹介されていたので、大名の博物学趣味の紹介か(よくある企画)と思った。ちょっと異彩を放っていたのは、最初のセクション「尾張藩と木曽山」。尾張藩初代義直は家康から木曽山を藩領として与えられる。近世初期、豊富な森林資源は、今なら大油田を所有するような価値があった。これは、玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』(講談社選書メチエ、2009)に教えられたこと。

 しかし、江戸初期は空前の建築ラッシュ(バブルだ!)が訪れ、半世紀のうちに木曽山は「尽山(つきやま)」状態となった。危機を感じた尾張藩は林政改革に乗り出し、他国(=尾張藩以外)材木商人による採材を禁じる。自国産業育成のための保護貿易主義と思えば分かりやすい。この間(かん)、豪商・角倉了以の採材に抵抗した材木奉行の原田右衛門忠政は、失脚し、死罪となった。少し調べてみると、近世の偉人として教科書にも名前の載る角倉了以に対して、原田は概して悪役のようだが(→KISSOこぼれネタ:VOL.65 中津川市特集号)、本展は、原田の所業に一定の功績を認めているように感じた。

 時代は下って、天保年間、江戸城西丸の再建計画に際しては、幕府から良材調達のため、川路聖謨が派遣される。川路は、元禄以来、尾張藩も手をつけたことのなかった御囲山(おかこいやま=保護林)から伐材を行い、尾張藩や住民の反発を招く。しかし、あまりにも険峻な奥山だったため、伐り出した木材の搬出に手間取り、西丸再建には間に合わなかった、というオチつき。ああもう、中央の役人のやることは…。

 さらに下って、維新後、尾張徳川家第19代当主・徳川義親(1886-1976)は、東京帝国大学で林政史を研究したが、同時代の史学界の理解を得られず、酷評を受けたという。詳しくはWikiで。展示ケースに置かれた義親の著書『木曽山』(1915年)は孤高の輝きを放っているかに見える。このセクションの展示品の多くは徳川林政史研究所所蔵。昔から、どうして”徳川”を冠した林政史研究所があるんだろう?と不思議に思っていたのだが、今回、尾張藩と木曽山のつながりの深さを知って、やっと腑に落ちた。

 博物学関係では、長らく尾張徳川家の秘本とされてきた『張州雑志』、尾張の本草学をリードした「嘗百社」(伊藤圭介らが参加)関係資料など。画家では山本章夫が面白いと思った。徳川慶勝(1824-1883、14代、17代藩主)も博物学好きで、顕微鏡で見たアリの拡大図を巧みな水墨画技法で写生している。貼り込み帖には、写生のほか、蝶の標本や押し花が一緒になっていて、これは資料管理者泣かせだろうなあ、と苦笑させられた。
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