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謎の古代文明タルテッソスはなぜ突然消えたのか、未解読の文字も、2700年前に西欧で最盛期

2024-09-06 | 先住民族関連

ナショナルジオグラフィック9/5(木) 17:45

スペインのカディス港にある灯台と要塞は、かつてフェニキア人の世界の西の限界を示していた。(CAVAN IMAGES/AGE FOTOSTOCK)

 歴史家たちは、紀元前に繁栄していた古代社会タルテッソスがなぜ消えたのかを、今日に至るまで完全には説明できていない。発掘調査により、一夜にして消滅したかのようなこの先進的な多文化文明のことがより詳しく明らかになるにつれ、新たな疑問が生じている。

ギャラリー:謎の古代文明タルテッソス、未解読の文字も 写真と画像21点

 ヨーロッパ南西部のイベリア半島の南海岸沿いで勢力を拡大したタルテッソスは、紀元前10世紀に同半島に初めて到達した航海商人の集団であるフェニキア人と強いつながりがあったと考えられている。

 フェニキア人は、現在のレバノン、シリア、イスラエル北部の出身であり、熟練した船乗りかつ商人として地中海全域で知られていた。しかし、統一王国を作ることはなかった。彼らは非常に美しい紫色の染料を作ったことから、「紫色」を意味するギリシャ語にちなみ、ギリシャ人によって「フェニキア人」と名付けられたという説がある。

 タルテッソスは、フェニキア文化がイベリア半島の先住民の文化と融合して生まれたと考えられている。ただし、フェニキア文化の影響を受ける前からタルテッソスは存在していた可能性があると考える学者もおり、新たな発見によってその議論に拍車がかかっている。

タルテッソスの伝説

 物語にタルテッソスが登場するのは、紀元前7世紀半ばまでさかのぼる。

 ギリシャの商人コラエウスが、現在のトルコ沖にある故郷サモス島から出航した。エジプトに向かう途中、コラエウスの船は東からの強風にあおられ、地中海を西に進み、ジブラルタル海峡の東端にある岬「ヘラクレスの柱」を越えてしまった。

 コラエウスと仲間の船員たちは、ギリシャの商人たちには知られていなかった「商業の中心地」タルテッソスに到着した。コラエウスはタルテッソス人と交易を始め、主に1.75トン以上も集めた銀で大きな利益を上げた。

 この旅人の物語は、紀元前5世紀に書かれたギリシャの歴史家ヘロドトスの『歴史』に記されている。この物語が誇張されていることは間違いないが、ヘロドトスはサモス島に一時期住んでおり、そこでコラエウスの冒険談を聞いたのかもしれない。

 他の古典文献にも、イベリア半島南部のカディス湾周辺にあったというタルテッソスという町への言及がある。これらの記述から、歴史家と考古学者は、伝説に彩られたこの謎めいた文明の全体像を明らかにしようとしている。

タルテッソスの始まり

 最も議論の的となっている問題の1つは、タルテッソスがいつ成立したかだ。20世紀後半まで、ほとんどの専門家は、タルテッソスが現れたのは青銅器時代までさかのぼると考えていた。

 青銅器の文化は、イベリア半島南西部のウエルバ、セビリア、カディスの集落の間、つまりタルテッソスの中心部となる広大な地域に広がっていたと考えられていた。そうであれば、タルテッソスは、フェニキア人の最初の植民地ができる紀元前10~9世紀より前から存在していたことになる。

 しかし、考古学的な発掘調査が進むにつれ、この仮説はあり得そうになくなってきた。「タルテッソス後期青銅器時代」と呼ばれる時期について語る著者もいるが、紀元前12~11世紀にかけてイベリア半島南西部に明確な定住地があったことを裏付ける有力な証拠はほとんどないのだ。

 一方、鉱山からの原材料の輸出や農業を基盤とした新興の社会組織なら、存在していた可能性がある。考古学者は、この時代、ウエルバ近郊にコミュニティが存在した証拠を発見している。

 遺跡やその他の場所で発掘された遺物からは、このコミュニティが大西洋世界との交易に長けていたことが示唆される。ウエルバ産の銅で作られた製品は、現在のフランスやブリテン諸島など遠方でも発見されている。

 このような確立された交易網は、現在のセビリア北西部にあるアスナルコリャルなどの数多くの銀鉱山から利益を得るのに役立っただろう。

イベリアのフェニキア人

 カディス湾周辺のこれらの初期の交易コミュニティは、フェニキア人の到来によって大きな変貌を遂げた。東地中海の繁栄した都市から来た商人たちが、イベリア半島南西部に恒久的に定住したのは紀元前9世紀のことだった。

 フェニキア人の植民者たちは、神々を祭る神殿を海岸沿いに建てることから始めた。これらの施設は、宗教的な目的を果たしただけでなく、交易のための中立的な空間にもなることで商業でも重要な役割を果たした。カディス近郊のメルカルト(ヘラクレス)神殿は、この2つの目的を持っていたようだ。

 フェニキア人はすぐに、「工場」と呼ばれる恒久的な施設を建て、その後、最初の植民地を建設した。

 そうした新しい都市植民地の1つであるカディスは、この地域で最も重要な経済、政治、宗教の中心地となった。カディスは銀、スズ、魚の塩漬けを輸出するための主要港として機能した。そのような鉱産物や農業製品は、ウエルバからも内陸部からももたらされた。

 フェニキア人は、定住した地域に革新をもたらした。鉄、ラバなどの雑種動物、ブドウやオリーブの木などの植物種、ろくろ、陶器の炉などを持ち込んだのだ。また、交易に不可欠なアルファベットも導入した。

 建築にも影響を与えた。フェニキア人は直交構造(直角)を好み、それがより複雑な都市設計を生み出した。紀元前9~8世紀にかけて、これらのことが現地の人々の経済と生活様式を大きく変えていった。

 植民地化の初期のこの時期、イベリア半島の地元社会は、東部からの植民者の存在に徐々に適応していった。この統合がどのように発展したのかを、考古学者はより探ろうとしているが、人々は内陸部から沿岸部の植民地に移住したようだ。

 労働力は膨れ上がり、新たな都市や神殿、交通路の建設に必要な職人や労働者だけでなく、鉱夫や農民もやって来た。グアディアナ川とタホ川流域では、有力なエリート戦士が、フェニキア人の鉄や先端技術と引き換えに労働力を提供したのかもしれない。これらの内陸部では、地元の商人がフェニキア人に金やスズ、農産物を提供したのだろう。

 フェニキア人はイベリア半島の植民地に大きな影響を与えたが、その変化は不均一だった。

 例えば、グアダルキビル川流域やカディス湾などの人口の少ない地域では、やって来たフェニキア人は自分たちの都市を建設し、先住民を取り込むことができた。一方、ウエルバでは、より確立された経済と明確な社会構造がすでに存在しており、フェニキア人の影響力は弱かった。

 フェニキア人、先住民コミュニティ、内陸部の人々が互いに影響し合い、現在タルテッソス文化と呼ばれる文化が生まれたのは、紀元前8世紀のことだ。「タルテッソス」という言葉がギリシャの史料に初めて登場するのは、さらに後の紀元前7世紀だ。

考古学的証拠が示す文化の融合

 フェニキア人の植民者とイベリア半島の先住民との接触は、陶工、金細工師、鍛冶屋、建設業者、港湾労働者、船乗りなどの仕事を生み出し、目覚ましい経済発展のきっかけとなった。海上貿易がこの社会の特徴だ。

 海上貿易は労働集約的で、木を伐採し、船を建造し、商品を運ぶためのアンフォラ(2つの持ち手のついた壺)などの容器を作るために、多くの労働者が関わった。

 このような変化は、フェニキア人との新たな関係で利益を得るようになったタルテッソスのコミュニティと、新たな経済資源の支配を求める内陸部の他の先住民コミュニティとの間に緊張を生み出した可能性がある。

 タルテッソス文化では、新たな社会集団が出現し、はるかに複雑な社会組織が生まれた。この社会は約400年続いたが、エリートがどのように支配を維持したのかは明らかになっていない。タルテッソスの遺跡や墓のどちらからも、多くの武器は見つかっていない。

 タルテッソスにはいくつかの注目すべき文化的な特徴があったが、均質な社会ではなく、統一王国、ましてや帝国とみなすべきではない。

 ヘロドトスは、アルガントニオスが支配する王国について言及しているが、それはギリシャ人がタルテッソスと呼んでいた地域の長のことだ。他にも王や指導者がいたはずで、各支配者は相互に経済的な利害関係があったにもかかわらず、政治的な独立を維持していた。

 この社会構造は、階層的というよりも並列構造的で、様々な指導者や権力のネットワークを含んでいた。

 先住民とフェニキア人の結婚は、両コミュニティの統合を強固なものにした。この慣習は、アリセダとタラベリヤ(ともにカセレス県)の宝物や、トレドのカサ・デル・カルピオの墓など、タルテッソスの中心地から遠く離れた内陸部で発見されたものの説明となるかもしれない。

 これらの遺跡で発見された豊富な宝物の多くは、現地の工房で、フェニキア人の金細工技術を学んだ職人によって作られたものだった。作品にはフェニキア人の宗教のモチーフが多く含まれており、エル神、バアル神、アスタルテ神が表現されている。

 スペインのエストレマドゥーラ州とタホ川流域では、カディス県エル・プエルト・デ・サンタ・マリアのラス・クンブレスといったタルテッソスの中心地の墓地で、先住民とフェニキア人の両方の要素を備えた嫁入り衣装が発見されている。

 最近、グアディアナ川のそばの墳丘の下から日干しレンガの巨大な建造物が発見され、タルテッソスの文化と建築がフェニキア人の影響を受けていたことを示す新たな証拠が得られた。

 それは、紀元前5世紀後半まで使用されていたバダホス県グアレーニャのカサス・デル・トゥルニュエロ遺跡だ。西地中海地域で最も保存状態の良い先史時代の建物があり、宴会場には青銅器が備えられていた。

 現在進行中の発掘調査により、この構造物が紀元前8世紀にフェニキア人の植民者との交流から生まれた初期のタルテッソス文化の特徴をもつことが確認されている。タルテッソス文化は、これまで考えられていたよりもはるかに深く、広く痕跡を残している。

 紀元前7世紀の繁栄期を経て、タルテッソスは衰退の一途をたどった。つい最近まで、考古学者はタルテッソス文化が紀元前6世紀に突然終わりを迎えたと考えていた。

 しかし、グアディアナ川流域での最新の発見は、タルテッソスの中心地で衰退期を迎えた後、文化自体は内陸部のいくつかの地域に広がり続けたことを示している。タルテッソスの調査は、新たな発見によって青銅器時代のこの文化の謎を明らかにしながら続けられている。

文=Sebastián Celestino Pérez/訳=杉元拓斗

https://news.yahoo.co.jp/articles/0fb12f45530e79d4c68047176939f2d5c7b90799

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