現代ビジネス12/13(火) 7:03配信
香港の民主化運動への禁圧、台湾への軍事的圧力――「中華の復興」を唱え、強国化を進める中国。
その歴史的原点は、中華王朝による南端の地・華南の統合にあった。
近代に入って、この辺境の地は、北京の中央政府を揺るがすほどの存在となった。
今もなお、香港をはじめとした南部各地の動向に中国共産党は神経を尖らせているらしい。
本稿では、移民たちがどのような社会を華南に築いていったのかを探る!
『越境の中国史 南からみた衝突と融合の三〇〇年』は、移民たちの壮絶な歴史と、彼らが築いた社会の姿を教えてくれる。移民者たちの〈フロンティア・スピリット〉を知れば、もうひとつの中国の姿が見えてくる!
(※本稿は、菊池秀明『越境の中国史』一部再編集の上、紹介しています)
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華南は気候も言語も北京と異なる!?
華南は、私たちのイメージする「中国」とかなりかけ離れている。
まず気候が違う。かつて日本人にとってなじみ深かったのは中国東北部(旧満洲)や北京、上海などで、引き揚げの経験をもつ年配者を中心に「中国は寒いところ」というイメージがあった。
だが華南の多くの都市は5月頃から10月過ぎまで摂氏30度以上の毎日が続く亜熱帯に属する。突然の通り雨が多いのも特徴で、かつて香港の古い街並みは雨にぬれることなく歩けるように2階部分が玄関先に張り出した構造になっていた。
気候が異なれば、人々の生活スタイルも違ってくる。
北京でまだ退勤時間が過ぎると一斉に店が閉まり、街頭が真っ暗になっていた1980年代、華南では昼間の暑さをやりすごした人々が日暮れと共に町にくり出し、屋台の料理に舌つづみをうつ姿が見られた。
現在台北の観光スポットである「夜市[イエシー]」はこうした習慣に基づくもので、そこには自由でオープンな風景が広がっていた。
次に華南は人々の話す言葉が違う。
これらの地域で多く話されているのは広東語、「ビン[門+虫]南」[なん]語(台湾語)、客家[ハッカ]語といった方言である。
これらの言語はモンゴル語などの影響を受けた北方方言やそれをベースとした現代中国の標準語(普通話[プートンホワ])とは互いに通じないほどに差異が大きい。
もう一つ重要なのは漢字の字体である。
中華人民共和国の成立後に簡略化された漢字である簡体字が使われるようになった大陸と異なり、華南では香港と台湾を中心に旧字体の漢字である繁体字が通用する。
一見難しそうに見える繁体字の文章だが、その表現は簡体字のそれに比べてやわらかく、英語や日本語など元宗主国の言語の影響を受けた語彙など内容は豊富である。
繁体字の文章は口語特有のスラングを多く含むため、以前は通俗的と見なされることが多かった。
だが21世紀に入る頃から、香港、台湾で自分たちの文化に対する再評価の動きが進むと、繁体字の世界は北京の「正統」かつ政治的な文化に対抗するサブカルチャーとしての役割を担うようになった。
それは2019年の香港デモで街角に溢れた様々なスローガンによく現れている。
華南は先住民族のるつぼだった!?
華南は住民の構成も複雑である。よく知られているように、現在の中国は56の民族からなる多民族国家である。
日本もアイヌや琉球(沖縄)の人々、近代に入って日本に定着した在日韓国・朝鮮人などがおり、決して単一民族国家ではないが、日頃自分たちの民族が何なのか意識することは少ない。
だが中国では身分証明書に自分の出身民族が明記されているなど、民族に関する感覚は日本と大きく異なる。
華南もこの点は例外ではなく、歴史的に古くからこの地に住んでいたのは百越[ひゃくえつ]などと呼ばれる先住民族だった。
先にあげた様々な方言を話す漢人の祖先が移民として入植すると、彼らは追われるか、漢人と同化を余儀なくされたが、現在なお多くが「少数民族[シャオシューミンズー]」として暮らしている。
広東の西側にある広西[こうせい]はその代表で、現在中国に五つある少数民族自治区の一つとしてタイ系の民族が多く住んでいる。
台湾も中央の山間部を中心に日本統治時代に高砂族[たかさごぞく]と呼ばれたオーストロネシア系の人々がおり、香港には漢人でありながら周囲から区別され、差別を受けた蛋家[タンカ]と呼ばれる水上生活者がいた。
華南の先住民族はかつて西南地域に存在した南詔[なんしょう]、大理などの王国を除くと、北方民族のように中国内地へ進出して巨大な帝国を築いたことはなかった。
むしろ彼らは村の長老や土司[どし]と呼ばれる世襲官吏を中心にきめ細かな地域支配を行っていた。
だが彼らの社会は中央集権的な統治の実現をめざす王朝政府の政策や漢人社会の厳しい競争原理によって踏みにじられていくことになる。
衝突、そして融合が生みだす社会のダイナミズム
このように華南は言語、民族共に多様な社会であるが、その原因はここがもともと中国世界のフロンティア、言いかえれば人々が越境と変化をくりかえす移民社会だった点に求められる。
さまざまな方言を話す漢人が入植し、移民同士の協力と競争を含んだ生活向上の努力を重ねた。移動したのは漢人だけではない。
周辺民族も移動し、漢人の生存戦略を受け入れながら自分たちの文化を継承しようとした。
こうして生まれた華南の社会は、人々が助け合うために築いた様々なネットワークによって構成される活力あふれるものとなった。
移動してやまない人々が新天地で目的達成のために営む努力には、成功を求める情熱と新たな社会関係を構築しようとするエネルギーが内包されているからである。
やがて福建と広東は人口増加によってフロンティアの役割を終え、移民を送り出す母村(僑郷[きょうきょう])へ変化したが、彼らがこの地で培った移住のノウハウは、華人が海外で成功を収める原動力になった。
まさに変転してやまない自由闊達さこそが、華南の持ち味と言えるだろう。
また華南という社会を語ることは、この地に居住する多様な民族、言語集団の相互関係を考察することを意味する。
ここでいう民族関係とは移住によって生まれた他者との関係であり、異なる文化的背景をもった諸集団の交渉と融合の過程には、するどい緊張や衝突が伴うからである。
それは民族という問いを意識することの少ない日本人には想像のつかない苛酷な歴史と向き合う作業になるだろう。
華南の歴史からウイグルをとらえよ!
現在の中国は上海などの大都市だけでなく、地方都市でさえ街並みが一変するほどの発展を遂げた。
だが物質的な生活水準がどれだけ良くなっても、人々は息がつまるような苦悩を口に出せないでいる。
それがよく現れたのが周辺地域である香港や台湾の反応であり、コロナウイルスの流行によって発生した武漢の都市封鎖だった。
ウイグル問題もその一つに数えられる。
だがこの問題の背景は、西側諸国が批判するような共産党政権の人権抑圧で済む話ではない。もともと2009年のウルムチ騒乱は広東の工場で発生したウイグル人労働者に対する漢族の暴行がきっかけだった。
当時筆者はたまたま中国にいたが、多くの知識人はウイグル人の被害ではなく、ウイグル人の暴行を受けた漢族の被害を語っていた。むろん当局が情報を操作したのは事実だろう。だがテレビのニュースが真実を語っていないことくらい中国人であれば誰でも知っている。マジョリティーはマイノリティーの被害に目を向けようとはしない──問題の根は深いのである。
こうした事件を読み解くためにも、華南に視座をおいた中国の歴史をきちんと振り返る必要があるだろう。
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監視国家中国では、反乱や革命はなかなか起こりえないだろう。けれど、どんな困難な状況にあっても、華南の人びとは自由な生存空間を生みだす。そのことの大切さを忘れはしなかった。この自由闊達[かったつ]さや移動と越境のエネルギーこそが、国家権力の抑圧に抵抗し、中国社会を変えていく原動力であることを、華南の歴史と社会は教えてくれる。
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菊池 秀明(国際基督教大学教養学部教授)
https://news.yahoo.co.jp/articles/21cd5b75f5b4fd52a5d5be0d69fd0620a76d78ea
香港の民主化運動への禁圧、台湾への軍事的圧力――「中華の復興」を唱え、強国化を進める中国。
その歴史的原点は、中華王朝による南端の地・華南の統合にあった。
近代に入って、この辺境の地は、北京の中央政府を揺るがすほどの存在となった。
今もなお、香港をはじめとした南部各地の動向に中国共産党は神経を尖らせているらしい。
本稿では、移民たちがどのような社会を華南に築いていったのかを探る!
『越境の中国史 南からみた衝突と融合の三〇〇年』は、移民たちの壮絶な歴史と、彼らが築いた社会の姿を教えてくれる。移民者たちの〈フロンティア・スピリット〉を知れば、もうひとつの中国の姿が見えてくる!
(※本稿は、菊池秀明『越境の中国史』一部再編集の上、紹介しています)
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華南は気候も言語も北京と異なる!?
華南は、私たちのイメージする「中国」とかなりかけ離れている。
まず気候が違う。かつて日本人にとってなじみ深かったのは中国東北部(旧満洲)や北京、上海などで、引き揚げの経験をもつ年配者を中心に「中国は寒いところ」というイメージがあった。
だが華南の多くの都市は5月頃から10月過ぎまで摂氏30度以上の毎日が続く亜熱帯に属する。突然の通り雨が多いのも特徴で、かつて香港の古い街並みは雨にぬれることなく歩けるように2階部分が玄関先に張り出した構造になっていた。
気候が異なれば、人々の生活スタイルも違ってくる。
北京でまだ退勤時間が過ぎると一斉に店が閉まり、街頭が真っ暗になっていた1980年代、華南では昼間の暑さをやりすごした人々が日暮れと共に町にくり出し、屋台の料理に舌つづみをうつ姿が見られた。
現在台北の観光スポットである「夜市[イエシー]」はこうした習慣に基づくもので、そこには自由でオープンな風景が広がっていた。
次に華南は人々の話す言葉が違う。
これらの地域で多く話されているのは広東語、「ビン[門+虫]南」[なん]語(台湾語)、客家[ハッカ]語といった方言である。
これらの言語はモンゴル語などの影響を受けた北方方言やそれをベースとした現代中国の標準語(普通話[プートンホワ])とは互いに通じないほどに差異が大きい。
もう一つ重要なのは漢字の字体である。
中華人民共和国の成立後に簡略化された漢字である簡体字が使われるようになった大陸と異なり、華南では香港と台湾を中心に旧字体の漢字である繁体字が通用する。
一見難しそうに見える繁体字の文章だが、その表現は簡体字のそれに比べてやわらかく、英語や日本語など元宗主国の言語の影響を受けた語彙など内容は豊富である。
繁体字の文章は口語特有のスラングを多く含むため、以前は通俗的と見なされることが多かった。
だが21世紀に入る頃から、香港、台湾で自分たちの文化に対する再評価の動きが進むと、繁体字の世界は北京の「正統」かつ政治的な文化に対抗するサブカルチャーとしての役割を担うようになった。
それは2019年の香港デモで街角に溢れた様々なスローガンによく現れている。
華南は先住民族のるつぼだった!?
華南は住民の構成も複雑である。よく知られているように、現在の中国は56の民族からなる多民族国家である。
日本もアイヌや琉球(沖縄)の人々、近代に入って日本に定着した在日韓国・朝鮮人などがおり、決して単一民族国家ではないが、日頃自分たちの民族が何なのか意識することは少ない。
だが中国では身分証明書に自分の出身民族が明記されているなど、民族に関する感覚は日本と大きく異なる。
華南もこの点は例外ではなく、歴史的に古くからこの地に住んでいたのは百越[ひゃくえつ]などと呼ばれる先住民族だった。
先にあげた様々な方言を話す漢人の祖先が移民として入植すると、彼らは追われるか、漢人と同化を余儀なくされたが、現在なお多くが「少数民族[シャオシューミンズー]」として暮らしている。
広東の西側にある広西[こうせい]はその代表で、現在中国に五つある少数民族自治区の一つとしてタイ系の民族が多く住んでいる。
台湾も中央の山間部を中心に日本統治時代に高砂族[たかさごぞく]と呼ばれたオーストロネシア系の人々がおり、香港には漢人でありながら周囲から区別され、差別を受けた蛋家[タンカ]と呼ばれる水上生活者がいた。
華南の先住民族はかつて西南地域に存在した南詔[なんしょう]、大理などの王国を除くと、北方民族のように中国内地へ進出して巨大な帝国を築いたことはなかった。
むしろ彼らは村の長老や土司[どし]と呼ばれる世襲官吏を中心にきめ細かな地域支配を行っていた。
だが彼らの社会は中央集権的な統治の実現をめざす王朝政府の政策や漢人社会の厳しい競争原理によって踏みにじられていくことになる。
衝突、そして融合が生みだす社会のダイナミズム
このように華南は言語、民族共に多様な社会であるが、その原因はここがもともと中国世界のフロンティア、言いかえれば人々が越境と変化をくりかえす移民社会だった点に求められる。
さまざまな方言を話す漢人が入植し、移民同士の協力と競争を含んだ生活向上の努力を重ねた。移動したのは漢人だけではない。
周辺民族も移動し、漢人の生存戦略を受け入れながら自分たちの文化を継承しようとした。
こうして生まれた華南の社会は、人々が助け合うために築いた様々なネットワークによって構成される活力あふれるものとなった。
移動してやまない人々が新天地で目的達成のために営む努力には、成功を求める情熱と新たな社会関係を構築しようとするエネルギーが内包されているからである。
やがて福建と広東は人口増加によってフロンティアの役割を終え、移民を送り出す母村(僑郷[きょうきょう])へ変化したが、彼らがこの地で培った移住のノウハウは、華人が海外で成功を収める原動力になった。
まさに変転してやまない自由闊達さこそが、華南の持ち味と言えるだろう。
また華南という社会を語ることは、この地に居住する多様な民族、言語集団の相互関係を考察することを意味する。
ここでいう民族関係とは移住によって生まれた他者との関係であり、異なる文化的背景をもった諸集団の交渉と融合の過程には、するどい緊張や衝突が伴うからである。
それは民族という問いを意識することの少ない日本人には想像のつかない苛酷な歴史と向き合う作業になるだろう。
華南の歴史からウイグルをとらえよ!
現在の中国は上海などの大都市だけでなく、地方都市でさえ街並みが一変するほどの発展を遂げた。
だが物質的な生活水準がどれだけ良くなっても、人々は息がつまるような苦悩を口に出せないでいる。
それがよく現れたのが周辺地域である香港や台湾の反応であり、コロナウイルスの流行によって発生した武漢の都市封鎖だった。
ウイグル問題もその一つに数えられる。
だがこの問題の背景は、西側諸国が批判するような共産党政権の人権抑圧で済む話ではない。もともと2009年のウルムチ騒乱は広東の工場で発生したウイグル人労働者に対する漢族の暴行がきっかけだった。
当時筆者はたまたま中国にいたが、多くの知識人はウイグル人の被害ではなく、ウイグル人の暴行を受けた漢族の被害を語っていた。むろん当局が情報を操作したのは事実だろう。だがテレビのニュースが真実を語っていないことくらい中国人であれば誰でも知っている。マジョリティーはマイノリティーの被害に目を向けようとはしない──問題の根は深いのである。
こうした事件を読み解くためにも、華南に視座をおいた中国の歴史をきちんと振り返る必要があるだろう。
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監視国家中国では、反乱や革命はなかなか起こりえないだろう。けれど、どんな困難な状況にあっても、華南の人びとは自由な生存空間を生みだす。そのことの大切さを忘れはしなかった。この自由闊達[かったつ]さや移動と越境のエネルギーこそが、国家権力の抑圧に抵抗し、中国社会を変えていく原動力であることを、華南の歴史と社会は教えてくれる。
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菊池 秀明(国際基督教大学教養学部教授)
https://news.yahoo.co.jp/articles/21cd5b75f5b4fd52a5d5be0d69fd0620a76d78ea