西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

子どもの躾ー挨拶と行動の型

2008-06-04 | 教育論・研究論
躾っていい字書きますね。身が美しい!

前のブログ記事の続きで、教育者の森 信三先生は、子どもの教育の根幹は躾、それは集約すると次の三つでよい、と言っていたようだ。これらは3歳から5歳の時に集中的に躾ける。(正に三つ子の魂、百まで、だ)

(1)朝起きたら、お父さんお母さんに「お早うございます」と言う。
(2)お父さんお母さんに自分の名前を呼ばれたら「はい」と返事をする。
(3)玄関先で脱いだ履物は、きちんと次にすぐ出られるように整えておく。以上

(森 信三先生による原文:   しつけの三大原則
 一、朝のあいさつをする子に──。
   それには先ず親の方からさそい水を出す。
 二、「ハイ」とはっきり返事のできる子に──。
   それには母親が主人に呼ばれたら必ず「ハイ」と返事をすること。
 三、席を立ったら必ずイスを入れ、ハキモノを脱いだら必ずそろえる子に──。)

これらの理由を藤尾秀昭さんは詳しく言われなかったが、聞いた私の解釈、意義付けは次の通り。

 これらは、人間の言葉によるコミュニケーション(二項目)と、行動の型(一項目)である。

人間同士、きちんとコミュニケーションが出来るためには、先ず「つながり」をつける挨拶がスタートとして何時でも必要である。当然、昼なら「こんにちは」夜なら「こんばんわ」、久しぶりに会ったのなら「お久しぶりですね、お元気ですか」、授業の始めなら「起立、礼、お早うございます等」となるが、基本の「お早うございます」がきちんと身についていれば自然と他は応用で出てくる。抵抗がない。
 次に自分が呼ばれたのなら「はい」と(一回)返事することが相手との「つながり」をつける「合図」である。これは、学校に行けば「○○君(さん)」「はい」「○○ページの××行の意味はどんなものでしょうか」「えーと、それは・・・」と続いていく。
 玄関先で履物を揃える行動の型は、私は行為転換の型と言っているものだ。玄関は、正に内外の行為や気分が変わる「行為・気分転換空間」なのである。
で、これがきちんと出来ると、ある行為から次の行為に移るときの作法が自然と分ってくる。朝起きれば布団を上げる、ベッドならきちんと整えておく。食事が終ったら食器は流しに運ぶ。場合によって洗っておく。何か行事が終ったらきちんと机や椅子を整える等々のことである。

これらを小さい時に叩き込む(というと一寸キツイが・・・)というのが躾けの要諦ということだろう。この三つを聞いたときも「うーん」と唸った。

森 信三先生は、西田幾多郎(京大・哲学)門下だが(と書いたが28歳で入学、それ以前に色々の遍歴をしておられる)、カントやヘーゲルやといった学問に愛想をつかせて、実践的教育学を考え抜き実践に供した人のようである。神戸大学教育学部などで教鞭をとったが、教育学者というより教育者というに相応しい。1896-1992で享年96歳であった。

人生の達人の言葉より

2008-06-04 | 言語・字・言語遊戯
今朝NHKラジオ「こころの時代」で、雑誌編集者の藤尾秀昭さんが、付き合ってきた「人生の達人たち」の言葉を紹介している。

今日は三人、坂村真民(詩人)、森 信三(教育者)、平澤 興(医学者)らに学んだ「人生の極意」を語った。三人とも最後まで真摯な人生を生き抜いて、皆長生きだったのではないか。

この中で、平澤 興先生は、解剖学者で新潟県出身、旧制四高(金沢)から京大医学部に進み、京大総長歴任、京大総長時代、私は入学(1960年)して入学式その他でお話を聞いた。ちょび髭のユニークな風貌の先生で記憶に残っている。

今日、藤尾さんの話を聞いて、そうだったのか、と思った。平澤先生は、亡くなる89歳まで瑞々しく前進し、感動した人生をおくられたのだな、と感動した。

晩年、「人生のピークは、77,8歳から87,8歳くらいではないか。人生90歳にならないと本当のことはわからない」みたいなことを言われたようだ。まさに喜寿、米寿、卒寿を平澤流に表現したものだ。

藤尾さん自身、人生の達人の共通点として、絶えず最後まで学ぶ姿勢を堅持していたということ、「大家だからと安住していた人は一人もいない。」「人生には進歩か退歩かがあるのみで、現状に甘んじるのは退歩である。」などを抽出しておられる。また、10年刻みで立ち止まらずに最後まで前進する人生モデルを提起して締めくくられた。

(写真は、平澤 興先生)

私の過去ブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/c21838851f9008f7491180d0b05a63e5